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文系修士論文
修士卒業の方にお聞きします。 私はちょうど修士論文についていろいろ一段落し、審査もほぼ終わったところですが、どうも満足・充実感がなく(書き上げた時点ではありましたが)、いまは何か無駄な作業だったのではないかというような感覚に襲われています。 もちろん努力もしましたし、きちんと論文として出来ているはずです。しかし、いろいろ屈折して指導教授と畑違いの論文となったこともあって、指導教授はおそらく論文をまともに読んでおらず、審査報告会でも教師は遅刻して、その場で読み出す始末(当然何も私にコメントいえず)。 学際的な研究科という環境もあって、まわりもすべて畑違い。ようするに対話が立たないという思いはもともとありました。論文は孤独な作業といっても、この環境は予想以上のものでした。そういうこともあるでしょう。ようするに、いったい誰のための、何のための論文かよく分からないまま終わってしまったという感覚がぬぐえないのです。 みなさんはいかがだったでしょうか?できれば、その環境などをふまえて教えてください。
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- november13
- ベストアンサー率34% (26/75)
少し辛口になりますが・・・。 副査の方が審査会に遅刻というのは非常識ですし、一般的に査読者が全く論文を読まずに審査にあたるということは不見識だと私は思っています。 ただ、自分の望んだ流れの議論ができなかったということで主査の方が論文を読んでいないと断定するのは少し急ぎすぎかも知れません。私も修士論文の口頭試問のとき、指導教授からもらったコメントの一つが論文の内容にかみ合わない印象を持ったのですが、その後5年くらいたってようやく、そのコメントが実は自分の修士論文の根本的な欠陥を指摘していたとわかることができました。 学際的な大学院の場合、関心領域が重なる指導者や学生を見つけることは難しいことがありますね。しかし、学際的な大学院の理念はそもそも異なる領域の研究を志す学生が触れ合って刺激しあうことにあります。そうした大学院の学生は自分とは違う興味を持っている教員や学生のやっている研究と噛み合うような研究をすることが求められているわけです。 そうした環境が質問者の方に合わないのであれば、旧来型カリキュラムの大学院(できれば関心領域に合致するところ)への転身がいいのだろうと思います。しかし、今後も学際型大学院に残る希望があるのならば、畑違いであっても無理にでも対話を成り立たせる努力をしなければなりません。 ただし、大学でプロの研究者を目指すのであれば畑違いの研究者とも対話を成立させられる能力は重要になってくるはずです。現在、多くの大学で採用人事に様々な分野の教員が関わるようになってきているからです。そのため広い領域の教員(最低でも学科全体くらい)に意義を認めてもらえるような研究業績がなければ採用やその後の昇任は非常に厳しくなっています。 ちなみに、他大学の学生(教員でもそうですが)が研究発表をする場合、聞き手としては一般的に盛大な(自分の学生には絶対にしないような)リップサービスをします。他大学での議論が有意義に感じられたとしても、少し冷静になる必要があるので注意してください。
- harepanda
- ベストアンサー率30% (760/2474)
お疲れ様でした。まずは、ゆっくり休んでください。 私の場合は、指導教授ともう1人の話をしたことのない教授2名による審査でした。このほうが客観的評価ができますからね。結構、まじめに読んでいただいたと思います。話をしたことのないほうの教授も、文章をきっちり読んでいたのは明白で、「非常にアカデミックだ」という評価もいただいたし、「後書きが気取りすぎだよ」とも言われました。後書きは、小説家の小松左京がSF小説「復活の日」の中でヘーゲル論を展開しているシーンを紹介し、彼がヘーゲルではなくカントをベースにした社会思想を持っていることを指摘、批判的な小エッセイにしたもので、文体も本文とはがらりと変え、天声人語みたいな作風に仕上げましたから。 指導教授は熱心な方でしたが、学問は細分化しており、教授であっても、ちょっとでも専門分野が違うと学生が書く文章のレベルについて来れないことがあるのです。私の場合は典型例で、哲学者ヘーゲルについて書いたのですが、日本ヘーゲル学会自体が300人程度しかいない小さなコミュニティであり、しかもそのうち、私と同じく社会思想を専攻しているのは数十名、さらには「後期ヘーゲルと、ローマ法、魔女狩り、時効理論、所有の主観説」などという誰も手をつけたことのないテーマを選んで鮮烈な自己主張を展開、結論部には、「この誤った傾向は数十年前に初めて日本にヘーゲルを本格的に紹介した金子氏の段階で既に始まっていたように思われる」などと物議をかもしかねないことまで書き、私の議論を理解できる人が300人いても、同じレベルで批判やコメントを出せる人は10人もいるだろうか、という世界を作ってしまいました。これは意図的にやったことで、「誰もやらないことをやれば、誰でもすぐ、第一人者」という戦略です。無論、たんなる無茶苦茶をやっているのではなく、指導教授も認める確かな基礎知識があってから、やっているのです。 修士論文は他人に読んでもらえないのが普通でしょう。また、修士枠が増える一方で教職枠は増えていないという現実の中、私は博士課程に進まず企業就職をするという道を選んだため、ほとんどのヘーゲル研究家は私の議論を忘れていると思います。しかし、学会(当時はまだ正式な学会ではなく、研究会だった)での発表が専門家の間でもかなりのインパクトを与えたという自負はあり、ヘーゲルの大著のなかでうずもれている「民会論文」という小さな政治論文の意義にスポットをあてた功績はあると思います。わたし以前に「民会論文」の意義の重さを見抜いていた人は、現役の研究家では1人しか思いつきません。 最後になりますが、論文を仕上げるにあたって、小さな土台で高い塔を建てるという背伸びをしたのではないか、という感想をお持ちであれば、隣接分野や歴史的背景の勉強で、土台を横に大きくしておくことをお奨めします。これがあると、塔をますます高くすることが可能です。
だいぶ昔の話なので、参考になるかどうかわかりませんが。。。 私は19世紀から20世紀の英国小説を研究していて、指導教授も似たような時代の英国小説の研究者でした。が、その大学院は(超有名なところですが)、文学系は全然指導しないんです。好きにやっていいよって感じで、途中で1回、何を書くか聞くだけで、あとは全部本人の自由。なので、好きに書いて提出、面接も適当な感じで、博士課程は全員通りました。 指導教授いわく、修士論文は通過点にすぎない。だいじなのはそのあと、どういう論文を書いていくかということ。研究を続けるなら、一生論文を書いていくのだから。 結局、私は研究職につくことができませんでしたが、書くことは今も続けています。修士論文は通過点、そう思って、これからも書き続ければよいのではないっでしょうか。 あと、余計なことかもしれませんが、文系の学術論文は自分以外誰も読まないなんてことは日常茶飯事です。多くの人に読んでほしければ、一般の人のために書くことです(たとえば、新書のようなものを企画する)。
お礼
学術論文がもちろんそんなに読まれないことは承知しています。ただあまりにpayに対する見返りがないものですから(笑)。 実は自分の専門テーマに近い人たちがいる某大学に呼ばれて、自分の修論報告をしたとき、非常に有益な議論ができました。しかし我が大学院はすさまじいほどテーマが乖離しており、対話ができず、やはりそれに私は不満だということだと思います。
- hekisann
- ベストアンサー率33% (8/24)
ancestorさん初めまして。まずはお疲れさまでした。 私もその昔、文系で「学際的な研究科」でした。指導教官のご専門には疎く、それでも「○○先生の研究室に所属する限りは先生のご専門に沿った内容で」ということになり、先生の手を煩わせまくりました。 私の場合、指導教官の先生は本当に親切丁寧に指導して下さいましたが、同じような問題に関心を持たれていて役に立つアドバイスを下さったのは、研究科内の理系の先生でした。 その後博士課程で、指導教官が辞められたために研究室を変わることになりました。「文系の学生が理系の研究室に移るのは厳しい」と止められたため、別の文系の研究室に移ったのですが、そちらの先生とはまったく話が噛み合わず、結局、院そのものを辞める結果になりました。 大学で研究者を目指しているのではないなら、論文を書くなんてめったにない機会なのですから、周囲に合わせて興味のないテーマについて書くより、指導教授と畑が合わなくても自分の問題意識に沿ったテーマを書けた方が良かったのではないかと思います。 しかし、もしこのまま研究者を目指されるのであれば、自分の問題意識について、ちゃんと議論ができる環境に移られた方が良いのではないでしょうか? もし見当外れなアドバイスであればどうぞ無視してやって下さい。
お礼
ありがとうございました。 おっしゃるとおり、自分の問題意識を基本的には貫きたいと思っています。ただ学問の世界にもある種のニーズがあるのかなというような感じがします。自分の研究がそんなに亜流だとは思いませんが・・・ 将来的には環境をうつしたほうがいいかもしれません。
お礼
ありがとうございました。 副査の一人は誠実で、しっかりした人でした。大意はつかんでもらえていたようです、もう一人が遅刻、読んでないというあり様。 でもおそらく最大の原因は、指導教授が私の修論執筆時からまともな指導をしなかったということにあるかもしれません。やはり会場でも、屁理屈な概念を上辺で言うだけで、まったく私の論文の内容とは別のところで話していたので、これは読んでないなと分かりました。 「誰もやらないことをやれば、誰でもすぐ、第一人者」 私もこれに近い感じでやったかもしれません。 いずれにせよ、私は批判されるということをこれまで恐れていましたが、それよりさらに恐ろしく悲しいのは「無関心」だということが分かりました(笑)