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『マーフィーの黄金律』と『自分の受け入れ方』
上記二冊の本の内容について質問したいです。 『マーフィーの黄金律』には、『こうなりたい』という具体的な自分の姿を想像して前向きに日々努力することで、 自分の人生の目的を達成することができる、と書かれております。 一方、加藤諦三さんの『自分の受け入れ方』には、 幼児的願望が満たされない者は、自分と他人の境界線がない(自我が確立していない)。 よって、「賞賛や名誉やこうあるべき自分」を追い求めた結果、 燃え尽きてしまって「現実の自分」との間にギャップに苦しむ。 よって、「○○ができない自分」「理想の自分になれない現実の自分」こそが「現在の自分」であり、 「現在の自分」を受け入れると、あなたは幸せに生きることができる。 例えば、カメはウサギより足が遅いからこそ、カメである。カメがウサギのように早く走れるようになったら、それはカメではない。 という旨のことが書かれております。 ここで一つ質問なのですが、『マーフィーの黄金律』には「あるべき自分を具体的に想像して」と書かれている一方、 『自分の受け入れ方』には、「現実の自分を直視せよ」と書かれています。 この二冊の本に書かれていることは、整合性があるのでしょうか? それとも、全くベクトルの向きが逆のことを書いているのでしょうか? 回答、よろしくお願いいたします。
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「現実の自分を直視せよ」 「あるべき自分を具体的に想像して」 はどちらも大事で、要はバランスなのだと思います。 理想に向かって歩いていく場合、まず自分を知らないと、 どのようにして、どこに向かえばいいのか、何が足りていて何が足りないのか、というのが分からなくなります。 自分を受け容れる(諦める?)ほうが、他人とも付き合いやすいです。 自分を隠したり、過度に防衛したりすることが減るから。 カメに生まれたら、絶対にウサギにはなれないでしょう? それなら一生、自分がカメであることを嘆き続けなければなりません。 一生、絶対に満足することはない。 本当は、ウサギになれないカメには価値がないのかといえば、そんなことないのに。 養老センセイがいいことを書いてました。 何かをできる・できないの話で、できないと駄目という考えを否定して。 「走らせてみればいいんですよ、足が速くない奴は生きている価値がないのかって、ぜんぜん関係ないでしょ、そんなこと」 現実を見るのと夢を見るのは矛盾しないと思いますよ。 現実を見ない夢はただの憧れ。まぼろし。 憧れや夢を実現するには、現実の中でやらなければならない。 しかし自分を見つめるというのは「過去~今の自分」の確認と重要であって、これから先の自分を固定したり規定したりしているわけではないです。 点検し直さないと出発できないこともあります。
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- monan
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どちらも、自分の『本質』を見つめ、自分の根源的な欲望や真の恐れは何か、ということを分析した上で、地に足がついた願望を持つこと、と私は解釈しています。(自分に対する評価は、他人から得るのではなく、自分で自分のことを『OK』が出せる状態である必要があると考えています。) 例えば、ただ『結婚したい』と強く願っても、『どのような価値観を持つ相手とどうありたいか』が自己分析できていませんと、単なる憧れになってしまいます。このような状態で、切羽詰まって結婚相手を探そうと行動しますと、相手の態度に一喜一憂することになり、周囲と摩擦を起こす原因となりかねません。そうなると、振り返れば誰もいなくなり、願望にとらわれる程、本質から遠ざかっていくのかも知れません。
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ありがとうございます。 自己分析、ということですね。 >願望にとらわれる程、本質から遠ざかっていくのかも知れません。 大事な言葉だと思います。ありがとうございました。
お礼
ありがとうございます。 矛盾はしないんですね。両方が愛読書のために、混乱していました。 私自身の過去から現在までの自分を受け入れるには、かなりの精神力を要しそうです。