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早死・障害は不幸ですか?
最近雨の日に自転車で横転して危うく車にはねられるそうになりました。 そのときからしばしば考えるようになったんですが、もしあれで少しタイミングを間違えたら自分は死んでいたんではないか、人間の運命なんてわかんないもんだと思いました。 世の中って不平等じゃないですか? 自分は大学4年生ですが、私と同じ20代で亡くなる人がいれば、100歳まで生きる人がいる。 皆さんは、この事実をどう受け止めて生きていますか? 例えば、私が今不治の病にかかって半年後に死ぬとする。そしたら、私は結局それを受け入れられなければいけないと思うんですが、これを受け入れるというのはただ単にこじつけや負け惜しみなんではないですか? また、私が例えばこの前の事故で半身不随になったとする。そうなった場合、結局受け入れてそれなりの生き方を見つけると思うんですが、それは結局自分の理想を実現できない代わりの代償やこじつけじゃないのですか? 皆さんの意見を聞かせて下さい。 回答よろしくお願いします。
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おっしゃるように、人間の運命は分からないものですね。 100歳まで生きたら、天寿を全うしたと言ってもいいでしょう。 その一方で、病気、事故、犯罪などで若くして亡くなる人が沢山います。 タイトルにある「早死」は、確かに不幸だと思います。 もっともっと生きたかったでしょうし、やり残したこともあるでしょう。 20代で人生が終わるとしたら、残念で悔しいです。 20歳と100歳では80年も違いますから、「死」に関しては、不平等だと思います。 「障害」に関してはどうでしょうか。 私の家族は意識不明の重体のまま、若くして亡くなってしまいました。 私は、たとえどんな状態になったとしても生きていてほしかったです。 どんな状態であっても、受け入れて一緒に生きていこうと思いましたし、受け入れる自信もありました。 たとえ、それで自分の人生が犠牲になったとしても構いませんでした。 「死」より「生」は価値があり、尊いものだと思います。 実際に障害を持っている方から見たら、こういう考えはきれいごとで甘いのかもしれませんが、障害ってひとつの個性だと思いたいです。 その生き方が、理想を実現できない代償やこじつけだとは思えません。
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- isora99
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はじめまして。 私は身体障害者です。仕事にも就けず、恋愛にも臆病になり、出来なくなった事がたくさん出来てしまい、諦めてしまった事もたくさんあります。 同じ障害者でも、定職に就く事が出来、ちゃんと結婚し家庭を持ち、普通に生活している人達もいます。 どっちが幸せかなんて、誰にも判らないと思います。 私の母は誰にも看取られる事なく、原因も判らず逝ってしまいました。天寿を全うしたとは思えません。まだ若い方だったと思います。逝くには早過ぎる、と今でも思っています。 でも、その母が不幸だったのかどうかは、やはり誰にも判りはしないのです。 答になっていないのかも知れませんが、健康だとか、障害者だとか、早くに亡くなったとか・・・そんな事は人の幸福・不幸とは関係ないんじゃないでしょうか? 長生きしたら幸せなのでしょうか?早く亡くなったら不幸せなのでしょうか? 健常者なら幸せなのですか?障害者は不幸なのでしょうか? 人間とは、どんな境遇(短命・長命など)で生きたかよりも、どう生きたかという事の方が重要なのではないでしょうか? 私はそんな風に考えています。 答になっていないですね^_^;
再度お邪魔します。 >私は生まれてから障害を持った方と関わることがあまりなかったので、障害者の人の気持ちに自分でも鈍感だと思います。 いえいえ、私も障害者になるまで障害者の方に接したことはありません。 母からみてはいけない!と教えられたくらいですから。 私のほうこそお気に触ったらすみません。 たしかに人生は不公平に満ち溢れていると思います。 でも考えてもしょうがないことは考えないというのも1つの生きる術なのです。 諦めなのかもしませんが諦めることで次の道がひらけるときもきます。 諦めないで次の道が開くことも。 又、人によっても随分ちがうでしょう。 私など別に本当にスッチーになりたいわけでもなく、仕事ができればどこだってどんな会社だって文句はないですし、歩けなくても電動カーに自動車、タクシー、友達。 移動する術はいくらでもあります。 多分私も第一志望の大学に落ちたとしてもそんなの関係なく人生を楽しめるでしょう。 「残念だった」と思うことは少しの期間あってもいつか忘れていきます。 いえ忘れることで正解だと思います。 そのくらい人間は自分の不幸に鈍感でいるべきなのです。 鈍感でいられる人間は強くそして、生きやすく「正常」です。 ただ、やっぱり悔いはあります。 それは他人が思うほどなく、自分が思うほど少ないわけではなくという感じでしょうか。 何故自分が障害者にならねばならないのか、何故病気になったのか。 事故だってきっと、何故あのとき外に出たのか、何故あのときちょっと待たなかったのか、何故あの車が着たのか、あの道を通ったのかなど、悔いでも悔いても悔い足りぬほど世を恨むこともあるでしょう。でも自分を哀れんでいる間は、何もできません。 その哀れむ時間は必要なのですが、哀れんで人生終わったらもったいないですよね。 他の方の回答にあるように >「死」より「生」は価値があり、尊いものだと思います。 その通りです。 生きるということは自分がしなくてはならない最低限の基本です。 人間以外の動物は自殺しません。命を精一杯守るのが基本だからです。 私は死後の世界なんて信じてない。 神も信じてない。(恨むことはあっても) 死んだら終わりなのです。それは「無」です。 死んでよかったと比べることすらできないのです。 それと同じように不公平だと嘆くよりも、この世は不公平だと理解してたほうが楽なのでしょうね。それが諦めに見えるのかもしれません。 私も諦めたものが沢山あるけど、それを嘆くことは(あまり)ないかなと思っています。 世の中はありとあらゆる不公平があると思いませんか? 豊かな家に生まれた子は一生豊かです。 よい親、よい環境に育つ子はお金がある家よりも幸せです。 正直、頭も、顔も全て、良し悪し、好き嫌いは別として公平はありません。 性格ですら、本当に平等ではないのすから。 だから人は絶対的価値観よりも相対的価値観をもつことでこの不公平感を緩和して生きているのだと思います。
お礼
再回答ありがとうございます。 仰るとおり世の中は本当に不公平だと思います。 ただ、世の中他者と比較してもいいことはありませんね。 他人の幸せを見て落ち込んでいるようでは何時までたっても幸せになれないと思います。 上には上がいるわけで。。 なら、いっそその競争の和から抜け出して自分の好きなことに没頭するのがいいんだと理解しました。 これがわかっただけでも私の中では大きな進歩です。恥ずかしながらですが。。 そうですね。鈍感でいること、忘れるということはそれだけで強さであると思います。 むしろ、余計なことは考えないで集中できるひとつの才能であると思います。私もそうなりたいです。。 >命を精一杯守るのが基本だからです。 私も賛成です。以前感銘を受けた言葉があります。 「人間は体を傷つけても回復できるようにできている。これは自然が人間に生きろといっている証拠だ。」 私も人間は生きるべき生き物で存在自体祝福されているんだと思います。その生を無駄にしないためにも私も一生懸命生きたいと思います。 度々勉強になります。 回答どうもありがとうございました!
- paparesukyu
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非常に哲学的ですね。 タイトルの、「早死・障害は不幸ですか?」に対しての答えは 千差万別でしょう。 ひとくくりにすることもちょっと疑問ですが。 当事者にしかわからなく、また一人一人の答えも違うはずです。 たとえば日本画家、北斎は享年90歳ですが、臨終の際にあと五年生きたい、と言い残したそうです。(ご存知かもしれませんが) この話が本当ならば、北斎は90年では満足していないということになリます。 不幸、幸福といった観点とは少しずれていますが、幸福感に満たされての死ではないのではないでしょうか? 私個人の考えとして、 世の中は不平等だと思います。決して平等ではありません。 生まれた時から、もしくは母親の胎内にいるときから、すでに平等ではないと思います。 何もしていない胎児が堕胎される、もしくは死産する時点ですでに不平等だと思いませんか?(胎児の時点では人間と認められないという人もいますが) また、真の平等社会はこれから先も来ないのだろうと思っています。 代償やこじつけ、とありますが。 こじつけが正に取って代わることが世の中非常に多くあります。 代償も同じです。 物事を遂行していくうちにそれが正道になります。 それはすでに代償ではない、といのが私の持論です。 違う考えの人はもちろんいるでしょう。 精神論になってしまいますが、「こじつけ」と思いながら行動すればいつまでもこじつけです。 しかし、こういった問題を考えることは非常に重要だと思います。 自分が生きている意味、意義を客観的に見つめる事はなかなかする機会がありません。 良い質問をしていただきありがとうございます。
お礼
よく考えてみれば、私もpaparesukyuさんと同じで、こじつけがまさに正道になるというのは確かにあることだと思います。 例えば、自分は野球好きな人間ですが、最近サッカーもやってみると面白みがあるということがわかりました。 実はやってみればいいものというのはたくさんあって、それに気付いてそのことに没頭するのは悪いことではないし、確かに代償やこじつけではないと思います。 真の平等社会ですが、私もありえないと思います。 大体平等という意味も曖昧なので難しい問題だと思います。しかし、より平等に近い社会を目指す努力は当然必要だと思います。あらぬ偏見で人を区別差別するのは、するほうにもされるほうにも良くないと思います。 回答どうもありがとうございます。
お若い方の、そして健常者の考えですね。 私は病気で障害者です。 車椅子に乗ってますが杖での歩行もできます。 会社に勤め、結婚し子供を産んで私は私なりに普通の生活をしているつもりです。 自分で自分を哀れむこもとない、、、と言えば嘘になりますが世の中は不公平だと思いますよ。 何故自分なのか、何故私なのか。障害をもつ病気をもつものなら一度はそう思うことでしょう。 でも受け入れるということは諦めることでも、辻褄を合わせることでもない。 負け惜しみでもない。。。。と私は思います。 例えばarumononedさんが第一志望の就職先の会社を落ちたとしますよね。 そしてその次にいった会社で落ちた自分をこの会社で頑張ろうと思うことが、結局自分の理想を実現できない代わりの代償やこじつけだと思いますか? 今の自分のできる事を精一杯やっていることをそう考えますか? 代償だと。こじつけだと。 例えば私がスチュワーデスになりたかったとします。 でも車椅子の私ではなれない。 じゃあ次に自分で出来るものを目指すだけです。 これに対し、世の中不公平だとか言っている暇はないんですよ。 障害者だって病人だって生きていかなきゃならないのですから。 確かに一番の夢は閉ざされるかもしれない、でも人間は恐ろしく強い生き物なのです。(信じられないくらい弱い方もいますが) そんな不幸な身の上になっても本人は結構けろっとしているものでなのです。 不幸の中に幸を探して生きていくか、幸せの中に微量の不幸を探し、その不幸に嘆くかはその人次第です。 確かに私は、スキーが、スボノがもうできません。 以前の障害者になる前は冬が楽しみだった趣味の1つです。 ですが今度は違う趣味を探すことはできる。 悔いる時間を使うよりより日常の質をあげていきていくことが負け惜しみ、辻褄、代償のこじつけなのでしょうかね。 たとえ五体満足でも、不幸な人は沢山います。 これはいくら私がarumononedさんに言っても理解できないと思います。 arumononedさんが当事者になったときに、それが結局自分の理想を実現できない代わりの代償やこじつけだと思うならそれが正解でしょう。 人生あきらめも大事です、諦めきれないで悔やみ心を病みたいですか? 諦めたものもありますが私は得たものもあるのです。 それを代償行為だと思ったことはありません。
お礼
回答ありがとうございます。 私は生まれてから障害を持った方と関わることがあまりなかったので、障害者の人の気持ちに自分でも鈍感だと思います。 だからその分、今回こういうことを考えることになったと思うんですが。。 metwoさんのおっしゃる「第一志望の就職先」の考えは非常に私にとって新鮮でした。 私自身、中学・大学受験、ともに第一志望に落ちて他の志望に進んだ人間ですが、なるほど確かに辻褄あわせとか負け惜しみとか感じたことはありませんでした。純粋に学生生活を楽しんでいます。 もし嫌な思いをさせてしまっていたら申し訳ありませんでした。 非常に勉強になりました。とても感謝しています。 回答どうもありがとうございました。
Q、早死・障害は不幸ですか? A、そういうテーマの解釈は高名な哲学者に任せておけばよい。 私は、今日、明日を精一杯頑張って生きるのみ。 これが、私の答え。
お礼
それもひとつの生き方ですね。 ただ、それを考えることでより深みのある生き方ができるのではないでしょうか? まぁ、そんな時間があるのは学生のうちだけですが。
- kinoppi07
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理想どおりの人生を生きてる人のほうがかなり少なく、みんな程度の差はあれ、「実現できない代わりの代償やこじつけ」で生きてるんだと思いますよ。今は学生さんのようですが、社会人になったら、世の中なんて不平等だらけです。だけど、そこで不平等だとひねて過ごすのか、こんなもんだと受け入れて過ごすのか、今より上を目指すために努力するのかで、人生って決まっていくんじゃないでしょうか? 犯罪で何の罪もない子が殺される、そんな事件もかなり増えてます。そういうのを不平等だといってしまえばその通りです。大事なことは、不平等な世の中で、自分がいかに生きていくかだと思います。お互いボチボチがんばりましょうね。
お礼
そうですね。 不平等の中でも一生懸命がんばるというのが生きるということなのかも知れませんね。 回答ありがとうございます。
- 1582
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塞翁が馬
お礼
どーも
お礼
私も最近そう思えてきました。 確かに世の中不平等で人によってできる仕事の量も異なるし、もてるものの量は違うかもしれません。 けど、宇宙規模から見れば例え歴史に名を残す大事業を行えたとしても実は大したものではないのかもしれません。 また、逆に言えば人間は不平等な世界を皆平等に苦労して生きているのだと思います。 金持ちだから、有名になったから幸せということは決してないと思います。 彼らは彼らでまた違った苦しさがあるんだと思います。(貧しい国より先進国の方が自殺率が高いのは間接的な証拠であると思います。) 重要なのは、自分の好きな生き方を選んでそれを追求していく志なんではないかと思いました。 例え障害があってひとつの生き方がダメになっても、また違った好きな道を選び満喫するのがよりいい生き方なんではないかと思います。 早死自体は多分に不幸があるかもしれませんが、それを逍遥と受け入れていけるのが生物として当たり前の姿かもしれません。 障害嫌、死ぬのは嫌といってもといっても来るものは来るので、それを受け入れて前向きに生きるのが人間の本来の姿だと思います。 落合信彦氏風に言えば、それが「勝ち組」の生き方だと思います。 人生は何を残すかではなくて、どう生きるかなんだと最近思いました。 回答ありがとうございます。