「愛というのは、執着という醜いものにつけた仮りの、美しい嘘の呼び名かと、私はよく思います」(伊藤整『変容』)
という言葉を思い出しました。
私も個人的には同じものかも、と考えてます。
そして愛の対義語は「無関心」。
関心が向かなければ、執着さえ生まれませんもの。
愛は素敵な花を咲かせることもあれば、悲しい実を落とすこともあります。
だから古今東西たくさんの人たちが、相手を幸せにするための愛について考えてきました。
日本ではそれは「慈悲」であり、キリスト教圏では「アガペー」とかであったりするけれど、共通してるのは「滅私の愛」「無条件の愛」。
わが身を捨てて他人の(世界の)幸せを願い行動すること。
でもこれって神仏レベルの愛で、私たちパンピーにとっては、案外ムリな、結構ムチャな「悟りの境地」だったりしませんか。むぅ。
結局私たちの愛情は「執着」がなければ成立しないんじゃないかしらと思います。
>自分が損なことを分かっていて、それでも切り捨てることができないのは、愛情ですか?執着ですか?
「自分が損なことを分かっていて」というところに「滅私」のにおいがしますが、
損だと感じてしまっているあたり、純粋に語りうる「愛情」とはかけはなれている気がします。
執着も愛情も、精神的な欲求を求めてやまない同じ心の働きですが、
執着は一時的な満足であり、愛情は一時的な満足すら得られないことがあります。
あなたが相手を切り捨てられず傍に居続けようとする気持ちが、
「相手が傷つくから」「私が犠牲になればそれですむ」
などといった目先の結果が動機なら、執着といえるかもしれません。
相手の本当の要求は何なのか、相手はこれからどう生きていくのか、
広い視野でそれらを感じ、想像することによって、
あなたが見捨てないと結果を出したなら、愛情といえるかもしれません。
ただ、これは言葉尻の問題にすぎません。
あなたの気持ちを愛情か執着かという言葉に押し込めることはできません。
そのふたつの間を行ったり来たりするのが人の心なんだと思います。
(滅私の心で子を育む母の気持ちを、誰もが愛情と信じて疑いませんが、
母親だって時に「私はこの子の犠牲?」と感じることだってありますから)
大切なのは、この道を貫き進むことによって、
あなただけが不幸せになってはいけないということ。
しっかり心の目を澄まして、自分が幸せになるための道を歩んでいきましょうよ。
「幸せになることは、他人に対して義務である」(アラン『幸福論』)という言葉もあります。
不幸な人間は、決して他人を幸せにしてやることはできませんから。
「切り捨てる執着」は本来の意味ではありえませんが、
「切り捨てる愛情」はありえると思いました。
わぁ、長文ごめんなさい。<(_ _;)>
お礼
最初に訂正させてもらうと、損だと考えているのは私の主観ではなく、他人の判断です。私自身は、損だとは思っていないし、むしろそれでもいいと思っています。 回答を読ましていただいて、なるほど、と思いました。人間だから、二つの間を行き来して、揺れ動くものですよね。人間に完璧なんてないのだから。 「相手の本当の要求や、相手がこれからどう生きていくのかを、広い視野で想像」 と言われて、それが私にとって最も困難なことの一つだと思いました。 それが分かれば、自ずと答えは出てくるはずなんですよね…。 でも、私自信が不幸せになってはいけないのだと言われ、全くその通りだと痛感しました。私にとって不幸になる選択ならば、それは誰も幸せにはしないし、選択してはならないことなのだと思い知らされました。 勉強になりました。回答ありがとうございます。