なぜそっとしておくことはできないのでしょうか。心配しているのは、あなたのショックを和らげるためという部分が、まったくないと言い切れますか?厳しく自問してください。そこに少しでもエゴがあればこれほどの罪はないと思います。ショックを黙ってすごすのは、あなたにも辛いことです。でももっと辛いのは家族となくなった方なのです。黙っていることは、まるで自分が心配していないように思えてくるかもしれません。でも本当にその親戚を心配して悲しみに寄り添えるなら、無駄に動いて自分の善意を満たしたつもりにならないことです。親戚にどんな権限があるのでしょう。
私も兄弟で同じ体験をしました。引きこもりの末の場合の自殺は、中高年の過労死や突発的な自殺とはまた違います。若い本人とその本人と暮らした家族の中に始点と終点を持つ、苦しいものなのです。「話を聞いてもらうのが救い」だと言うのは、そのご家族があなたに言った言葉なのですか?ゆっくりと事実を受け止めることに苦労している最中かもしれませんし、ひきこもりの親の会程度の情報であればインターネットや書籍、病院の紹介などで自分で探せるはずです。私の親もそうしていmさいた。なくなる前のひきこもりの段階から、探せていたはずです。そこに出る出ないは、本人の性格や体力・気力によるのではないでしょうか。くりかえしますが、ひきこもりは、本当にそれぞれの家庭によって状況が違うから「これに出ればよい」「あれをすればよい」というほど簡単なものではないのです。それができればこんなことは起こりません。
思い出にひたって、かわいかったころのことや、自分のこれからのことを「自分で」整理するのが一番なのです。言葉にするさえ辛いという経験を、あなたは持ったことがありますか?あればわかると思います。
ご家族の方は、それまでのひきこもりの期間、心配と焦りと怒りと家族内の原因探しと自責の念と愛情とで、毎日苦しんできました。その苦しみの深さは傍目にはわかりません。気楽そうなときがあったとしても、それは一時的な裏返しかもしれません。もし話を聞いて欲しいとか、どうしたらよいかわからないと、頼まれたときに、専門家を紹介するのがよいと思います。厳しいことを書いたようですが、ご家族の方はそれ以上の厳しい自問自答を自らにぶつけて暮らしてきたのです。なくなった方は死ななくてはいけないほど自分を厳しく責めてきたのです。本当は生きたかったし登校したかったし働きたかったのです。たびたびになりますが、慰めるつもりで、自分のショックを慰める手段にしているのではないか、考えてください。詳細の背景は存知あげず申し訳ありませんが、問題の重さ・当事者の心を推し量ると、この回答や質問が、あまりにも能天気な気がしたので、見ていられませんでした。黙っていてあげる強さこそ思いやりではないでしょうか。人の心をわかったつもりになるのが一番残酷なことです。聞いてもらって慰められるのではないかという程度の話ではないと思います。私としては、残された家族が暗くなりがちならば、惣菜でなく本当においしい食べ物をさりげなく差し入れてあげるとか、商品券のようなものを貰ったからといってさしいれてあげるとか、そのほうが思いやりだと思います。自分の手を汚してまで助けたいと思いますか?そこが分かれ道です。よろしくお願いします。
お礼
ご回答をありがとうございました。 色々な団体をご紹介いただき、参考になりました。 残された家族の気持ちを大切に考えながら、こういうのもあるよと教えてあげられたらと思います。