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小学校で、音楽や図工や体育の時間があるのはなぜですか
小学校で、音楽や図工や体育の時間があるのはなぜですか。 それらの時間を、国語や算数に費やせば、子供の学力低下を防止できるのではないでしょうか。
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結論を言うと、音楽、図工、体育は必要です。 ●まずは、そもそも「学力」が何かについて確認したいと思います。 apoddgykさんは、「学力」を単なる「読み・書き・ソロバン」といった、いわゆるぺーパーテストで計れるものと認識されていませんか? 率直にいって、それは違います。 現在、学校教育で身につけさせなければいけないものとして『生きる力』というのが公的に文部科学省から打ち出されています。『生きる力』とは「確かな学力」「豊かな人間性」「健康・体力」の3つの総称です。 このうち「確かな学力」とは、「知識・技能に加え、学ぶ意欲や、自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力など」と定義されています。「学力」とは、国語や算数など、「読み・書き・ソロバン」といったペーパーテストでは測れない、もっと深い能力を指すのです。 戦後から高度経済成長期までは、物的な発展の必要性にあいまって労働力の大量生産を要し、まずは読み書きそろばんが必要だった。しかしある程度成熟した現在の日本では、与えられた課題を公式に当てはめて解いていくことよりも、自ら問題を見つけ創造していく資質が必要になったのです。そして当然、徳育といった「心」「体」の調和した健全な育成が必要となっています。ですからまず、子どもたちに身につけさせるべき「学力」は、ペーパーテストで計れるような「読み・書き・ソロバン」だけでなく、人としての本質的な資質や能力であるという認識をされるべきでしょう。 (偏差値ばかり高くても、人を見下したり、犯罪を犯すような間違った人間の例はいくらでもあります。) ●図工を例にとって 体育は、身につけるべき『生きる力』のうちの「健康・体力」に直結するので、説明する必要もないでしょうからここでは割愛させていただきます。図工を例に挙げるので、音楽もそれに照らしてお考えください。 (1)わが国での図工は、明治5年から名前を変えたりしながらも残っています。明治期には、必要がなければなくなるはずですが、必要であるから残っているわけです。 (2)実は歴史的にみると、算数・国語などの主要科目よりも、芸術科目のほうが大切であると唱えた教育学者さえいます。人が豊かに生きるためには、当然「読み・書き・ソロバン」だけでは足りない。美しいものに感動したり、物事の本質をとらえたり、物事の善悪の判断をしたり。そういった心の教育(情操教育)として、美術・芸術科目の重要性はこれまでに叫ばれてきました。アメリカでは以前、apoddgykさんのような「芸術科目は不要ではないか」という意見から、中等教育で美術をカリキュラムからなくした州があったそうです。しかし子ども達が荒れて風紀が乱れ、果ては犯罪や問題行動も増加しました。ひょっとして、と美術を復活させると、また子どもたちは落ち着きを取り戻したそうです。芸術科目と子供の情操の深いつながりを感じさせる好例です。 (2)子どもは、自分の存在や思いを表現したり、人に伝えたい、感情を吐き出したい、という欲求を持っています。図工は、算数や国語と異なり、決まった一つの答えがないために「自分なり」の思いや考えを表現し、答えを探すことのできる科目です。また、このように作品など学習成果の違いから、子ども一人ひとりの個性を認め合うことは大切なことです。いじめなどの問題は、異質なものを排斥する姿勢から生まれる傾向がありますが、「一人ひとり異なるからこそ素晴らしい」ことが顕著に現れるのが図工など芸術科目です。 (3)図工など実技科目で習得できる資質や能力は、算数や国語たいった科目に匹敵するも劣らない重要性があります。まさに、机上では得ることのできない学習事項が多分に存在します。 まず図工の中で学習する知識や技能も大切です。例えば、カッター、のこぎり、金づちなど用具の使い方。ちょっと生活の中で不便を見つけたときに自分で手直しができる。生活を豊かにする「生きる力」です。ものが便利になったことも関係していると思いますが、これまでの日本教育の中で実技科目の時間数が減るにつれ、現在の日本人は過去数十年間で、身体とりわけ手先の微細運動能力が下がった(簡単に言うと不器用になった)というデータが実際にあります。科学技術が補完してくれる部分もあるかもしれませんが、できないよりは、できることが多いほうが豊かに生きられると思いませんか。 また図工で表現活動する中で、子どもはどう表そうか考えをめぐらせ、創意工夫をし、困難を乗り越えたり、困難を克服する喜びを味わっていきます。まさに「確かな学力」でいう、、「知識・技能に加え、学ぶ意欲や、自分で課題を見つけ、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力」ですね。 そして美しいもの・そうでないものに感動したり、自分ならではの価値観を築いたりすることも算数や国語ではなかなか得られない経験です。 国際社会となった現代では、異文化理解ということも重要視されていますが、芸術科目は正に、時刻と他国の文化に触れ、相対的にとらえるきっかけとなりうる科目です。 図工、美術は、実は専門家でなくても生活の中で誰もが強くかかわっている分野なんですよ。たとえばプレゼントに旦那花を買おうか、あの人ならこの色がいいかな、と考えること。携帯電話を買う時に、どのデザインにしようかな、と考えること。今日何着て行こうかな、と組み合わせを考えること。こういった感覚は、やはり芸術科目の中でトレーニングできるのです。 ●どのような先生に出会い、どのような授業を受けているかによっても、授業の必要性の感じ方は異なってくるかもしれません。しかし、学力がそもそも何であるかを考えるとき、私達が考える以上に、それぞれの教科によって学ぶことは異なりますし、それぞれの教科から学べることは多いのです。ぜひ人間性を豊かにする、人格の完成という教育の本質に立ち返って、、「読み・書き・ソロバン」以上に何を学んでどう生きる子どもを育てるべきかということを考え直していただきたいです。
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- soranoniji
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学力低下が騒がれているので質問者さんのお気持ちもわからなくはありません。 けれど小学校教育の本来の目的に立ち返った時、所謂数値で判断できる「学力」だけの向上を求める教育だけに偏るの良くないと思います。 子供に世の中のあらゆることの下地として色々なものに触れさせるのが目的です。 親が優れていれば全てのことを子供に教えることも可能かもしれませんが、誰にも苦手なもの、わからないことがあります。 子供には無限の可能性があり、世の中には色々な世界があることを ほんの少しだけ見せるというのが目的です。 そこから興味を持ち学ぼうという姿勢を育てるのが学校教育の本来の目的ではないでしょうか。 私の子供の親ですから無駄に見える時間の使い方を感じないわけではありませんが、そういう時間を排除するのは良いとは思えません。 中学で掘り下げて学び、高校以上になれば自分の適性や興味を自覚でき自ら選択できるよう成長するための一過程だと思ってみてはいかがでしょう。
- hukuponlog
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それは、教育の目的が「人格の完成」を目指しているからです。最近、改正?されましたが、第一条「教育の目的」では「教育は、人格の完成をめざし」と明記してあります。 つまり、読み書きそろばんの学力を充実させることが、教育の目的ではなく、人間としての全面的な成長(学力は無論ですが、肉体的な成長、芸術的な感性等々の充実)を目指すことが、学校教育の目的だから、なのです。是非はともかく、目的が違うから、としか言いようがありません。 私は、仕事柄、色々な国の学校の授業を実際に見ます。フロリダのある小学校では、図工(Art)の授業が年に4回しかありませんでした。先生は、もちろん非常勤講師で、図工室は無く、図書室の隅で授業をしていました。彼女に「日本は週に2時間、年間で70時間は図工の授業があるよ」と言ったら、ため息をついてうらやましがっていました。その学校では体育の授業も、日本の中休み・昼休みの代わりでした。 これはつまり、その学校を管轄する郡の教育委員会(アメリカは日本の文科省に当たるところはありません)の教育の目的が、「学力の充実」だからです。実際、その学校の正門には「私たちの学校は、郡の学力テストナンバー1」と表示されていました。 一般的にアメリカの学校は、そういう傾向が強いですね。だから、HighSchoolの学生でも、描く絵は稚拙です。日本で言えば、小学校高学年程度の技術しか有りません。もちろん、これは一般論ですよ。 どちらが良いか、というのは議論のあるところでしょう。ただ、失業対策(笑)というのはあり得ません。
国語や算数の時間が増えたからといって何かいいことはありますか?もし、それで子供たちの“学力”が向上しても、それは子供にとっていいことではありません。子供が望んでいることをきちんと理解してあげてください。 あなたは、小学校でやった音楽・図工・体育の思い出は何もありませんか?きっとあるはずです。「今の子供」はあなたの時代と何も変わっていません。なら、あなたの時代と同じことをしていく必要があるのではないですか? 学力ばかりが身についても豊かな人間にはなれません。しっかりと生きていくには、楽しい人生を歩むためには、様々な経験や様々な能力が必要なのです。
- escotte
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子供には、ありとあらゆる可能性が備わっています。 ひょっとしたら、それは将来、画家や彫刻家、あるいは建築家や、 歌手、指揮者になる可能性かもしれません。 かの天才、イチローでさえ、野球と出会わなければただの人です。 彼が野球選手を目指したきっかけがどこにあったのかは不明にして 存じませんが、あるいはそうしたきっかけが、小学校の授業の一こま にあるかもしれません。 「先生に褒められたのが嬉しくて」、「授業で聞いたあの音楽が 忘れられ無くて」、あるいはただ、「自分がその授業が大好きな ことに気がついて」、将来を考える子供、自分の中の才能に気づく 子供もいることでしょう。 貴方は、そうした機会の芽を摘んでもいいとお考えでしょうか? 最近言われる「学力の低下」は、何も授業のコマ数だけの問題では ありません。授業の内容、教員の質、さらには目先の都合だけで 二転、三転してきた教育システムの問題が、まとめて噴出して 来たに過ぎないのです。 それらを考えもせず、解決もせずに、「身勝手な大人の都合」のまま、 今度は子供の可能性を開くきっかけさえ奪おうとするのは、あまりにも 理不尽だと言わざるを得ない、と私は考えます。
質問者様の考え方は間違っています。 その一言しか言えません。
- fen_jalan
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小学校で学習することは、 生きるための基礎を学ぶとお考えください。 体育は主に運動能力を育てるものですが、 それだけではありません。 神経系の発達は10歳前後がピークと言われています。 体を動かす基本動作(手足を動かすこと、歩く、走る、投げる、取る、跳ぶ、避けるなど)は、 この年齢でなければ獲得できません。 反射神経を養うことでもあります。 手足を動かすことで、脳の働きを活性化させることも出来ます。 体育はこういう動作を獲得できるように構成されています。 (中学校以上は筋力や持久力を獲得できるように構成されています) また体が健康に発達するためには、体に刺激が無いといけません。 (何人の方が書いていらっしゃいますが、 反射神経の鈍い方は、けがや事故に遭いやすいです。 また、体力が無ければ病気にかかりやすいのも確かなことです。 つまり、自分の体を守るためでもあります。) 大人の運動と子どもの運動では目的が根本的に違うのです。 図工は空間認知と想像(創造)力、物の構成を見る力、 そして芸術を楽しむ心を養います。 算数は計算ばかりしているように思われがちですが、 学年が進むごとに、問題を解く上で、ひらめきや想像力が必要になってきます。 この傾向は中学校以降だと、さらに顕著ではないでしょうか。 この発想力は、算数だけやっていて、つくものではありません。 空間認知は体育とも関わってきますが、 この力が弱いと、空間図形の問題や、3次元のグラフなどの問題は解けません。 音楽も、突き詰めると非常に数学的なのですよ。 (バッハなど、典型ですね。) 音楽も楽しむ心も学ぶでしょうが、 曲の情景などを思い浮かべるなど、こちらも想像力が必要です。 こんな感じで、教科はお互いに影響しあっているのもなのです。 また、これから生活して行く上で、最低限必要なことを学んでいます。 読み書き計算だけやっていれば、学力が向上するかと言うと、 そうでないことをご理解ください。
- press0
- ベストアンサー率31% (9/29)
小学校の先生は担任がすべての授業を担当します。音楽や体育専門の先生はいませんので失業対策にはなりません。 さて、ご自分にはお子さんはいらっしゃいますか?いたとして、子供にはどのように育って欲しいでしょうか。どのような教育をされたいでしょうか。 早く正確に読み書きができる、計算が出来る、多くの知識を持っている。それは大切なことだと思いますが、人を思いやる気持ちや社会の一員として協調性を持たせる、善悪を知る、判断できる、喜怒哀楽の感情を知り、人とコミュニケーションできる、そんな人としての基本と呼べるようなことをきちんと学ぶことはもっと大切なことだとは思いませんか。 感情豊かな心を育んだり、生きてゆく上で大切な体を鍛えたり、またそういった活動の中で助け合うことや交流を深めたり。そんな人としての基本を見につけるためにもこうした授業は必要です。 本当に学力低下が心配なら、算数や国語や英語を学ばせたいのであれば放課後に塾に通わせればいいことではないでしょうか。人の価値観はさまざまです。放課後にスイミングスクールやピアノの塾に通わせたりスポーツ少年団に入れたり、絵画展に積極的に連れてゆく親もいます。自分の子供を芸術家やスポーツの選手にしたいと思って行かせているわけではありません。 学力は後でも補えますが感情や心、運動バランスなどは成長期に身についたものが一生影響します。小学生にはこちらのほうが大切であると思います。
- river_long
- ベストアンサー率25% (1/4)
一言でいえば「子供の将来」という事ではないでしょうか 音楽、図工、体育をなくして他の教科へ時間をまわせば学力の低下は防止できるはずです。 しかし、それだけあれば大人になって本当に生きていけるとは言えない筈です。 例えば体育を無くした場合、子供達の身体能力は向上しません。体育は単純な身体能力の向上もですが、 反射神経や判断力を養う意味を持っています。反射神経や判断能力が鈍くなるとちょっとした事でも怪我をしたりするようになるでしょう。 すぐに怪我をしたり病気になる人を組織が正規雇用するでしょうか? そういった「理屈」ではない部分も将来にわたって問題となる事があると思います。 子供が学校に通う期間は人生の中で考えると短い期間ですが濃度でいえば大人の30年に値する期間です。 子供の期間だからこそ、もそれらの教科を行う意味はあると思います。
- nozomi2007
- ベストアンサー率25% (35/138)
建前はさておき、一番の理由は、失業対策です。 考えて見てください。音楽、図工、体育を廃止したら、 その免許で先生として雇用されている教師はどうなるのでしょうか? クビですか? 教科が廃止になれば、教育大学でその教科の教授達はどうするのですか? クビですか? 教科の廃止は、先生達のクビに直結します。 だから、学校現場はもちろん、教育大学の先生達も、こぞって反対します。 理由は、どうとでも付きます。
お礼
ご回答を大変ありがとうございました。 大変参考になりました。
補足
もし、失業対策が主な理由だとしたら、 最初に教育制度が出来たときから音楽、図工、体育がなかったら、そういう問題は起きなかったわけですね。 もちろん今となっては、どうしようもないわけですが。
図工で三次元の能力を磨いたりできる。 美術系の才能がある子は伸ばせる。 体育で体を動かすと脳も動く。 運動能力が高い子はもっと伸びる。 学力だけでは判断できないよ
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お礼
ご回答をありがとうございました。 今、音楽や図工や体育という科目が、既成事実として存在するから、皆がそれらを必要と思っていますが、 もし最初から無かったとしたら、教育関係者は、音楽や図工や体育という「新科目」を新たに作ろうとするでしょうか。 ご回答は大変参考になりました。