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車椅子と学力

こんなこと聞いたら怒られそうでずっと聞けなかったんですが、やっぱりどうしても気になるので質問させてください。 とある車椅子の方がとあるレベルの高い国立大学に受かったそうです。それが「障害を乗り越えて苦難に打ち勝ち国立大学に入った!」と、その方の努力は素晴らしいというお話を聞いたのですが、足が悪いことと学力って関係あるんですか?知能障害、知覚障害(目、耳が悪いなど)は確かに学ぶ上でハンディキャップがあると思うんですが、誰も走り回りながら勉強するわけではないわけで、その方が「足が悪いから」大学に入ったのがすごいと言われる理由がどうしてもわかりません。もちろんその大学に入ること自体すごいのでしょうがそれなら合格者全員のことでなにもその方が特別、ってわけではないと思うんです。学力においてならば「元の頭のよさ」と「努力の度合い」は普通と変わらないと思うんですが、どうなんでしょう? 車椅子の方ならたとえばスポーツなどなら周りと比べてより努力しなければならず、その成果について「ハンディキャップを乗り越えて」と言われるのはわかるのですが、勉強の面で足の悪いことがどうハンディキャップになるのでしょう? 誤解のないように言っておきますが、けしてその方の努力を否定するわけではありませんし、勉強以外の面でもいろいろ苦労されているであろうことは敬服します。 ただ「足の悪い方」が「勉強ができ」てなにがどう特別にすごいのか、回答いただければうれしいです。

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noname#30533
noname#30533
回答No.3

No.1です。 お書きになっているように >「障害者が健常者と同じことをやった」=「すごい」 これはおかしい話に見えますね。 でも、障害者を理解している人はわかっていると思います。 いちいち「何が」大変だったのか、偉かったのは何なのかをです。 それを説明しなきゃいけないのは、お互いに理解してないからですよね。 じゃあ、それを1から説明するのはお互いに酷ですよね。 知りたくもない、障害者の内情を聞くのも、聞かれたくない(何が大変かって)人もいますからあくまでも表面的な褒め言葉になってしまうのでしょう。 メディアって報道とかですよね。 すごく偽善ですよね。 例ではパチンコで子供を放置し死なせる母とか明らかに「攻撃していい」人には正論ぶって攻撃しますけど、その他のことは良識ぶってその時、その時の世間の風にあわせています。 障害者を斜めにみる報道は、本当はあってよいものなのです。 障害があるから許されるという図式もある程度あります。 なにか悪いこと例えば万引きをして障害者の泣き落としを使う人もいます。 だから傷害=特別な人という図式がおかしいのです。 それを斜めに見ることはメディアとしては怖いと思いますよ。 世間に攻撃する隙を与えてしまいますから。 >もしお気を悪くされたらごめんなさい。 大丈夫ですよー。 ちゃんとした考えをもっている障害者ならこういうことを差別だとか気を悪くすると思いません。 No.2様も書いてますし、私もそう思います。 障害者叩きの質問なのか、そうでないのかわかりますから。 素直な疑問というものはあってしかるべきだと思っています。 それを聞けないことこそ、間違いなのだと思います。 >やみくもに「すごいすごい」と褒め称えていると言うか。 それが今のメディアの「正しいあり方」だと思っているんじゃないですか? そうすれば非難されないと。 でもあまりに凄ければこの考えはかえって障害者をバカにしているとしか思えませんし、障害者と健常者の垣根を低くすれば、それに伴う「トラブル」もありますから。 どこまで相互理解を求めていけばいいのか、試行錯誤が必要なんだと思います。 私も健常者だったころ、障害者は何故褒めれるのか疑問でした。 今も疑問です。 何にたいして褒められているのかをちゃんと公開すべきなのかも悩むことです。 例えば精神障害者の場合、それを公開したくないでしょうしね。 一部の良識ある判断力のない人々のお陰で、絶対に障害者非難してはいけないという風潮もあります。すごく一方的なんですよね。そのバランスが悪いのかなあと思っています。 障害者にも色々います。 障害者として生きる、障害を盾にして生きる人、そうじゃないひと、絶対自分は普通なんだとして生きていこうとする人、ほんと様々です。 それを括って、障害者 という枠で区切ることも難しいのです。 なんとなくわかってもらえればなあと思い書きました。 ただこうやって話せる場があるというのはいいことですよね。

sami3
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 No.2の方の回答の中のURLにもあるように、「私障害者なんだから、なにやってもいいいのよ!」と思っているような方もいらっしゃるので本当に様々だと思います。何がそうさせているかもまた論点ですが。 経験したことがないことを100%理解することは正直言って無理だと思います。でも想像したり話を聞いたりして少しでも近づければな、と。そのためには多少ぶっちゃけないとどうしようもないと思って質問させていただきました。 親切で前向きな回答ありがとうございました。

その他の回答 (2)

noname#31224
noname#31224
回答No.2

>この意見についてどう思われるでしょうか? もし差し支えなければ回答ください。 まあ、仰ることは分かります。 私も元、健常者なので。 本当に障害者の努力を報うならば、その視点(生活の大変さの中での勉強とその合格)で褒めないといけませんよね。 だたね、ちょっと思い返してほしいのですがメディアに障害者が出るってどんなときだと思います?「障害者だよ」って言うときなんです。 実は世の中「障害者を普通のTVやメディアで見たくない」という方はとても多い。 キモチワルイ・見ちゃったよ!と呪われそう!といわれた友人もいます。(実話) http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2716458.html ここの質問の彼氏もそういう人のようですし。 軽い人、重い人、はっきりいうと見目悪く「見たくないほどの障害」をもった人もいますから。 障害者OKにすると、今度は障害者同士で「差別」になります。 これは私が障害者になって実感しびっくりしたことです。 あなたがTVを見るとき、街角のインタビューですら、TVの公開録画ですら、障害者が普通の場面ででてくることを見たことがありますか? まずない筈です。カットされますから。 障害者番組か障害者だから何なにというものだけです。 ニュースキャスターで車椅子の人いますか? 原稿をよむだけなら足の悪いひとにもできますよね。 そうすると、「障害者」:「健常者」という(視聴者への遠慮)、差別は確実にあるのです。 おキレイなところだけしか見せない何かが。 障害者にもいろいろ居て、少しでも自分をわかってもらおうと生活の大変さを話す人もいますが、私のまわりでは居ません。 それはとても生々しく汚いから。 私も障害者になって資格試験のとき「オムツ」をつけてました。 短い(皆さんには十分な時間)時間で用をたせないからです。 私、老人でなくまだ若い大人なんです。 その私がオムツをつける「屈辱」を人に話すでしょうか。 例えばオムツつけたら、自分で外せないですよね。 試験が午後と午前なら1.2回の尿がでたものをつけ続けるのです。 匂いだって気になります。傍にきてほしくないですし「なんか臭くない?」と自然に言う人をみると「ごめんよ、犯人ワタシなの」と心で詫びます。 これ、メディアも取り上げたいですか? ヘタすると差別や障害者イジメにもなりえます。 障害者がいるだけで、臭い、もらしているんだろ、オムツつけているんだろ? と見た人のなかの心無い人はこうやって攻撃し傷つけるのです。 だからこれは危険です。こうした場合簡単に悪いメディアになってしまいます。 それに過剰に反応する人や障害者団体もいます。 (こういう障害者もいますから(^^;;) http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2751352.html こうしてみると健常者が障害者への理解を深めるには「メディア」には無理があるのです。 だから短絡的な構成になるんじゃないですかね。 「障害者が健常者と同じことをやった」=「すごい」なんて見える構成にしか。 それもある意味、変な差別ですけどね。 まるで障害があれば、なんでも特別扱い?と。 それに「障害者なのによくやったね」と褒めてくれるのを障害者が心から喜ぶか疑問ですね。 きっとその人の人間性やそのときの気持ちに大きく左右されるでしょう。 又、メディアや健常者が表面だけしか理解しないのもこちらで十分わかっています。 それに対し、目くじらをたてないだけ。 健常者には健常者の「当たり前の人生を歩む」辛さがあります。 障害者には障害者の「生活そのものの大変さ、人生の辛さ」があります。 これは不可侵条約なのですよ。 お互いにわかることの出来ない…。 気軽にわかるわけないのです、人間は経験したことしかわかりませんからね。 >軽率なことを聞くな! いいえ、私はそう思いません こうした変な「障害者への思いやり」「遠慮」「タブー」が余計に相互理解を妨げているのだと思い疑問はどんどんぶつけていいんだと思いますよ。 悪意のある質問かそうでないのか、わかりますもの。 私も子供の頃、障害者をみて親に「なんであんな歩き方をするの」と聞いたら母は「ぞんなこと言わないで見ないようにして通り過ぎなさい」と言いました。 私は今思うと見ないフリをしたその方に申し訳なく思います。 見ないフリがどれだけ残酷か知ったからです。 そして母は悪気無く、知らなかっただけなのです。 障害者へのタブーがなくなればもっとラフな感じで壁も低くなると思います。 壁が低くなれば、言わなくても障害者の大変さをわかれば同じ事をするのにもどれだけ大変かわかってくれるのだと思います。 それに不幸自慢を聞きたくないでしょ?(^^どんな友達だって、いつも不幸自慢されたら嫌ですよ。 だから友達に日々の辛さを言いません。 障害をもつ方も色々です。 生まれてからずっと障害者のひと、私のように健常者から障害者になったひと。 病気が元で障害をもった人、事故などで体の一部を失い障害をもった人。 一見、同じに見えますが中身はかなり違うのです。 病気で障害をもったひとは、本来足が悪いだけではない場合が殆どですから内臓もかなりやられています。そのため、起きていること自体が苦痛の方も多いのです。 私も自分が障害者になって知ったことなんですけどね。 ということで、一応メディアも視聴者の皆様と障害者の方へ配慮してこんなカタチになったのかなあというのが感想です。 私はこう思ってますけど、他の方はどうなんでしょうね。(^^

sami3
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 いろいろな経験を話していただいてとても参考になりました。 そして、たくさん大変な思いをしているだろうにもかかわらずすごく前向きなのにも感服させられるばかりです。 ありがとうございました。

noname#30533
noname#30533
回答No.1

>足が悪いことと学力って関係あるんですか? >知能障害、知覚障害(目、耳が悪いなど)は確かに学ぶ上でハンディキャップがあると思うんですが なるほど! 確かにあなたの意見はごもっともに聞こえます。 私も大人になってからの障害者で以前は健常者でした。 その立場で答えさせて頂きますね。 足が悪いというと、貴方はどんなイメージがありますか? 歩けない? そう、そんなものしかないですよね。 でも実は生活そのものが大変で苦しいのです。 例えば、足が悪い人、車椅子の人はそれだけが悪いわけじゃありません。 いつも座ってますから床ずれなどもあり「座っていること」だけでも苦痛なのです。 勉強するとき、貴方もつかれてベッドに横になったり休憩しますよね。 そんなことすら自分で出来ないのです。 例えば予備校、学校にいくのにも、お風呂にも入ります。 でもそれには家族の介助が必要だったりします。 なんとなくわかりますか? 食事するのもトイレにいくのも、お風呂にはいるといった生活の全てに先ずは時間を割かれるのです。そのうえ、車椅子の疲れというのは乗ってみないとわからないでしょう(^^ そのくらい、足が不自由というのは全てにおいて大変になるのです。 簡単にいえば一日のエネルギーを生活に30、勉強に70割ける健常者と違い、生活に70、勉強に30くらいの割合なのです。 先ずは基本の基本、起きること、トイレにいくことなどが大変なんです。 勉強の努力そのものは同じかもしれませんが、同じ身体ではないのです。 その大変さを乗り越えてという意味で褒められるのでしょう。 私も健常者の頃は思いました。 ですが自分が障害者になって思うのは電車1つ乗るのも、車1つ乗るのもすべて大変になりました。 例えば電車に乗る、通勤すらも皆さんより早く起きて皆さんの迷惑にならないように、人様のちからをかりて電車にのります。車も車椅子だと止まってもくれないのです。 たぶん、そういう生活の辛さを乗り越え(ここがハンディキャップ)意味でスゴイねといわれるのです。 それが受験に合格するまでの大きな時間だとつもりつもって大きいのです。 疑問の部分はこのあたりだと思いますよ。 仰ることが例えばこれから400枚のチケットを○分で数えてもらいます。健常者、障害者一緒です、なんて競技があったら平等に思われます。 でも毎日の受験勉強は自分との戦いです。 その戦いに勝つには毎日の自己鍛錬が必要なのです。 精神力、と体力と勉強と。 私は受験のときは健常者でよかったです。 私ならきっと健常者のときに合格した大学でも今の障害者の私なら受からないでしょう。 そのくらい今の生活は生きることそのもの、生活そのものが大変です。なにか疑問があれば聞いてくださいね。

sami3
質問者

お礼

なるほど!よくわかりました。 生活により時間が裂かれる、精神的苦痛が大きいと言うことですね。 軽率なことを聞くな!と言われそうで質問するのをためらっていたのですが、やはりその立場にいない者にとっては聞いて見ないとわからない、と言うことで質問させていただいたのですが、丁寧な回答をいただいてうれしく思います。 途中から悪くされたということで何かとたくさんの大変なことを乗り越えてきていらっしゃるんだと思います。敬服します。 回答ありがとうございました。

sami3
質問者

補足

もしお気を悪くされたらごめんなさい。 あなたのおっしゃるように車椅子で生活することの大変さと言うのはそうなってみないとなかなかわからないものだと思うのですが、ということはこのメディアも正しい、正しくないは別として私のような着眼点で見ていると思うのです。そこでインタビューされている周りの人たちも。本当はよくわかっていないのに、というか寧ろ私のように疑問を抱いているのにやみくもに「すごいすごい」と褒め称えていると言うか。 私は見ていてなんだか「障害者が健常者と同じことをやった」=「すごい」という短絡的なものの捕らえ方をしていて、たとえばおっしゃるような生活の大変さ、どうしてこれが「すごい」というに値するのかにまったく焦点を当てていないものが多く感じます。 障害者のやることを報道して「すごい」と言っておけば「よいメディア」として評価されるからと言うかんじで。 この意見についてどう思われるでしょうか? もし差し支えなければ回答ください。

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