• 締切済み

失くして得たもの (統合失調症にて)

はじめまして. 恐らく15歳の時に統合失調症なって,現在陰性症状で慢性化している22歳の学生です. 現在もこれからも正式な診断は下らないと思いますが,少量の精神薬を処方されていて,現在の半ひきこもり生活から社会復帰しようという段階です. 学校も退学する予定です. 僕は今までアルバイトも少しはしてきましたし,学生としても何とか踏ん張ってやってこれたのですが,どうも日常を上手く過ごせなくなってきて,ひきこもりの状態になりました. 部活にはたまに顔を出しますが,交流という交流はしてないかもしれません. 今までできたことが出来なくなったのです. 人と気持ちの共有をする体験も殆どなくなくなり,友人との交流自体に意味を見出せず,記憶力が無くなって学業もはかどらず,一人暮らしでの自炊や洗濯などにも関心が無くなりました. このように失うものが多いわけですが,その反面得たものがあります. この病気?特有の頭の中のある種の異常な活発さを利用して,色々なことを考えるようになれたことです. 浮かび上がった言葉はいつでも紙に殴り書きし,ストックして自己哲学みたいなものを築き上げてきました. 外部の問題も,自分なりに解釈して解決してゆく哲学的な作業の先に“悟り”のような境地を見出すことができるようになりました. なるべく普遍的な問題と向き合い,それに対する回答を自分の中に得ることにより幼少の頃からある劣等感を解消していきました. 失った分,僕は智恵?を得るようになりました. ところで僕のような体験をしている方はいらっしゃいますか? その他,失くして得たものはありますか? どこかの歌詞で聞いたことがあるのですが,やはり何かを得るためには何かを失わなければならないのでしょうか?

みんなの回答

回答No.2

こんにちは。 私も何か特別な経験や大きなものを失くしたこと及び精神的疾患を患ったことがないのですが、私なりに思うことを書かせて頂きます。 人が人生において経験することに無駄なことはひとつもないということ、闇を知らない光は無いということ、どちらも真理だと私は思っています。 そして、人は苦しい経験によって苦しむと言うよりも、その苦しい経験に囚われて悔やみ、負の経験を挽回したい、失ったものを取り戻したいと、閉じられてしまった「過去」のドアを何とか開けようともがき続けることによって、苦しみが助長されループをもたらすのだと思います。 過去のドアを無理矢理こじ開けたとしても、そこには自分がするべきことや出来ることは何もないのに、後ろばかりを見ている人は、さぞ苦しいだろうな…と。 顔を上げて前を見れば、新しい経験に向かって開かれているドアがいくつもあるのに。。。 「失う」ということについては、物理的には何も失わずに生きられる人はいません。 けれど、心の中のものは、自分が手放さない限り永遠に「失う」ことはないと私は思います。 そして、手放してしまった方が良いものは、とっとと手放してしまうに限ると。 「失う」というひとつの経験から、別の経験へ、新しいドアを開けるために立ち上がり一歩でも進むことが大切であり(焦らなくてもゆっくりで良いから)、その新しいドアの向こうにはきっと成長し磨かれた自分の姿があるのだと思います。 欲深い私達人間は「何かを得るために何かを失う」のではなくて、結果として「何かを失ったことによって何かを得る」ことの方が断然多いのだと思いますが、「何かを得るために何かを失う」という意味を、私なりに解釈すると「欲」や「執着」を手放した時に「希望」や「幸福」を得られるということかな…と。 貴方がこれから開ける新しいドアが、幸せへ通じる素晴らしい経験でありますように。 その素晴らしいドアを開けるさまを強く思い描くこと、信じること、怖れないこと、ですよ。 それでは、お身体大切にして、ご自分のペースで歩いて行かれて下さいね。

sunfour_48
質問者

お礼

回答ありがとうございます. >閉じられてしまった「過去」のドアを何とか開けようともがき続けることによって、苦しみが助長されループをもたらす >そこには自分がするべきことや出来ることは何もないのに、後ろばかりを見ている人は、さぞ苦しいだろうな…と。 >顔を上げて前を見れば、新しい経験に向かって開かれているドアがいくつもある 胸にズシりと来ました. >欲深い私達人間は「何かを得るために何かを失う」のではなくて、結果として「何かを失ったことによって何かを得る」ことの方が断然多い 最近僕が感じていることそのものです. 僕が得たものを活かせる様に努力するべきなのだと思うようになりました.

  • Tori_30
  • ベストアンサー率27% (653/2415)
回答No.1

まず・・・僕は何かすごい血の滲むような努力や苦労をしたわけでもないし、『何かを失くした』と言えるほどの壮絶な体験はしてないかもしれません。それはまず断っておきますけど・・・。 所詮、僕なんかは『のほほんと何の苦労もなく生きてきた奴』と言われても、まあそうかもしれないです。それでもちょっと伝えたい事があって投稿しました。 僕の体験から言うと、確かに自分自身に挫折とか悔しい事があったりすると、自分以外の同じような悔しい思いをした人に対する理解が深まったような気がします。『涙の数だけ優しくなれる』ってやつでしょうか? ただ、『何かを得るためには何かを失わなければならないのでしょうか?』という問いには”NO!!”を言いたいです。何も犠牲にしなくても良い道が探せば必ずあるはずなんです。苦しい思いをしなくても幸せにはなれるだろうし。 なんていうか、そういう歌詞って『何かを諦めろ』って言っているような気がしてあまり好きになれないんですよね。そしてそれが世界の真理とでも言いたげな感じが気に入らないんです。(まあ、そんな風な感じ方をするのは、ただ僕がスレてしまっただけなのかも知れませんけど。) 誤解されるような回答だったかもしれません。僕は別に何かを失う事を否定したいわけじゃないんです。(いや、でも・・・。う~ん。上手く説明出来ないけど)ただ、その歌詞について反論したかったというか・・・。ただそれだけなんです。

sunfour_48
質問者

お礼

回答有難うございました. 反論したくなる歌詞は確かにありますね. どの歌詞も真実の一面だけを歌っていることが多いような気が僕はしますが.

関連するQ&A