Gです。 こんにちは!!
ご質問の原点に戻り書かせてもらいますね。
>あんなに小柄の人間がもし総合格闘技(階級無差別)などに出場した場合、果たして通用するものなのでしょうか?
2倍の体重を持った人(格闘技や武道の経験がなくとも)を投げ飛ばすには自力ではまず難しいと言わなくてはなりません。 私たちが言う「倒れてくれるように誘導する」という事をしなくては「筋力では無理」なのです。
しかし、重心を守れる立ち方から崩す裏投げや大外狩りにしても重心を体からはずすことが筋力では難しいと言うことを知りそれにはどうしたらいいかという事を「教えそして出来る実力をつけられるトレーニング」をすれば「軽く」裏投げなどが効く様になる訳です。 27万5千のひとつですね。
反射神経には守るためのものと攻撃(反撃)をするものがあります。 この二つは全く違う反射神経の働きと私たちは見ます。 もちろんどちらとも適切な訓練で伸ばすことが出来ます。 27万五千のひとつですね。 そしてこの二つの違った反射神経を反映させるためにはこれをもっているだけでは身を守ることには「役に立たない」という事になってしまうわけです。 (塩田先生の握力がとてつもなく高い、と言う事もヒントになると思います)
また、相手を誘導することには自分を体を使うことと相手の体の動きを使うことで可能となります。 守る反射神経とは相手の動きを動く前に見る先先の先であり、この正確さを磨くことは多くの準備訓練に耐えてきて「更に習える実力を向上」を植えつけた後に急速に発展します。
さて、これらのすばらしい武道の教えがあるわけですが「ひとつだけ」難点があるのです。 それが、「武道に先手なし」の「忠告」なのですね。 これを「喧嘩をするな」「先に手を出すな」と言う理解しか知らないのはこの「更に習える実力の向上が出来ていない」弟子が(当然ながら)ほとんどなわけで一番手っ取り早い「守り」なのです。
そして、それを逆手に取り徹底的に追求したのが「居合い道」でもあるわけです。 先の先、と言う、「先手追及」なのです。
つまり、今の日本の道場の多くがやってしまっているように、この二つの観念を別々にしてしまっている、と言う事でもあるわけです。
いろいろなスポーツ(競艇等)で鍛えられた「握力」と確実に自分へ引く「引力」、タックルで鍛えたベアハッグ(あの背骨折りの力)と瞬発移動力などを持ち合わせた人間が「守りを重要視した」武道類の人に冷静にしかも「動きを持たせない」、つまり運動量保存性を高めた、ままで近づくことで「先手のない」攻撃には対処することは非常に難しくなります。
そして攻撃性反射神経によって自分の「間合い」の中での瞬発力に頼る打撃に対する守りは「守りを重要視した」訓練では「無理」が生じるのです。
しかし、この「先手のない瞬発力」がブルースリーが重要視した日本の武道のひとつの技(名前のついていない)でもあるわけですが、この技はかなり現代的な攻撃技とされていて多分塩田先生の時代には「考えられなかった」物だと思います。
つまり、攻撃が見えない攻撃に対して守る反射神経の向上への訓練方法の重要性の存在がなく、ないからトレーニング方法もなかった、と言う事であり、トレーニング方法がなかったわけですから「素質」に頼るしかなかったわけです。
また、守りの反射神経への訓練とはすなわち「攻撃法を知る」と言う非常に効率の悪い訓練方法でもあるわけですね。
なぜ私たちが「何でもありの、複数の相手を前提にした」観念を貫き通しているのかこれでお分かりになったでしょうか。 なんでもありと言うことはどんな攻撃にも対応できる、と言う事でもあるのです。 つまり、なんでもありの攻撃方法をする、と言う事だけではないのです。
その何でもありの攻撃は残念ながら塩田先生の演武では見られないのです。
非常に簡単すぎるくらいの例では在りますが、こう考えてみてください。 塩田先生の演武では「運動量が満ちた」技をする相手に対しての技(必殺では在りませんが)を見せているのです。 これに対し、じりじりと何もしないで部屋の隅に迫り込むタイプが間合いに入ったとたんに複数の複雑なコンビネーション攻撃をしたとしたら「時代の差」が出てきてしまうと言うことになるわけです。
大晦日に大きな問題になったらしい桜庭選手がそれを感じたはずです。 正確で破壊力を持たせた相手の打撃能力に反応することが出来なかったですね。 (試合の勝ち負けについて私は言っているのではなく、見えないパンチは自分に届いてしまいます、そして届かないキックは何の意味もないと言う防御性反射神経と攻撃性反射神経の差がそこのあったのです)
そして試合ルールがある限り村上選手も同じ道を歩むことになるのです。
その時代の最高潮の人の一人に塩田先生がおられたわけです。
なぜ、宮本武蔵は死に、五輪の書は行き続けるのか。 なぜ、彼の流派は今となっては存在しないと言ってもいいレベルになってしまったのか。 それは流派が五輪書に書いてある27万5千の事柄を「武道の流れに乗せなかった」からなのです。 乗せ続けることを教えなかった武蔵だったわけです。
我が人生に食いは無し、と書き、例証・実例の足りない「60余の生死をかけた戦い」に説得力が乏しいのも、武蔵と五輪書とのギャップがあるからなんですね。
あいまいな表現をしているからこそ今でも十分「使える」27万5千の教えがはっきりと書かれているわけです。
ひとつだけヒントになることを書いておきますね。 なぜ、あれだけ怖がられた嘉納柔術が自らを安全性を高める方法に持って行きながら沖縄からわざわざ空手を持ってきたのか(空手を日本本土で普及することへ力を注いだのか)、を考えると少し今回のご質問への回答に結びつくと思います。
ではまたの機会にお会いしましょう。
補足
詳細なご回答、ありがとうございます。 私も宮本武蔵の著書を昔読んだことがありますが、ちょっと難解で、よくわからなかった部分が多々あった気がします。すいません、もう一度読んでみます。 でも宮本武蔵の時代なんか、本当に命をかけた真剣勝負で、本当のノールールで闘う訳ですから、凄いことですよね。そういう人間が書いた書物ってもっと大切に読まれていいような気もしますが。 沖縄から空手を持ってきたというのはなぜでしょうか?