なるほど・・・
ご質問は “・・・「差別」っていってもおかしくないのではないでしょうか?”
ですね。
おかしくありません。なぜなら明らかに“差別”だからです。“是非”はともかくとして。
じつは制度を運営する側にもその自覚はあるのです。
勉学の面で優秀な学生を優遇する分には何の問題もないのは、
それが慣習、文化としてまかり通っているということと、
いい学生を集めたいという理由で誰も問題にしないだけで、
“差別”であることは明らかです。“是非”はともかくとして。
“平等”と“公平”を取り違えている方が多いようですが、
頑張ってる人と頑張っていない人に同じ給料を払うのは“平等”です。
しかし、これは“不公平”です。
差をつけるのが“公平”です。
このような“差別(是非はともかくとして)”が社会を成り立たせています。
日本国が一番税金を使っている教育機関は東京大学です。
すべての日本国民は税金が一番多く使われている教育機関で教育を受けられるべきですが、
学力の高い一部の恵まれた者しか受けられません。
これは“差別(是非はともかくとして)”ですが、それが日本国のやり方です。
なぜなら、そうしなければ社会が成り立たないからです。
つまり、社会を成り立たせる上では“差別(是非はともかくとして)”が必要なんです。
仏教に“悪平等”という考え方があります。これは、簡単にいえば“すべて同じ扱いをする”ということですが、
すべて同じ扱いをすれば“不公平”になるので、あえて“悪”を付けるのです。
“差別(是非はともかくとして)”は“差別(是非はともかくとして)”として認識するべきです。
“差別(是非はともかくとして)ではないんだ!”と、勘違いしてはいけません。
ちなみに私も学力特待生でしたが、いつも「でもなぜタダなの?」と思っていました。
また、小学生のころリレーの選手でしたが、足の遅い子と競争させられるとき「なんのため?」と思いました。
もっとも徒競走で全員一緒にゴールさせるのもおかしいです。
そもそも義務教育で足の早い遅いで序列付けする必要はありません。
早い者同士が競い合うのは、やりたいのでしょうからやればいいでしょう。
同じ能力の者同士を競わせることによって“競争”することを教えるのは大切なことかもしれませんが。
学力特待は“差別(しつこいようですが是非はともかくとして)”っていってもおかしくありません。
なぜなら間違いなく“差別”だからです。いい、悪いはともかくとして。
って、とこです。
それでは、ゴキゲンヨウ!!!(^.^)/~~~