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人のため?自分のため?
よく【この人のためにこうした】とか【あの人に迷惑かけたくなかった】とか、『人のため』にすることってありますよね。 それって本当に人のためなんでしょうか? よくよく考えてみると、「その人に良く思われたいから」とか「その人に嫌われたくないから」とか、結局は自分のためにその行動をしているような気がして… たしかにその人にとっても良いことだとは思いますが、その人がどうでもいいような人(嫌われてもいいような人)だったら、わざわざそんな人の為に何かしようとは思いませんよね。 嫌われたくない人には精一杯その人のために尽くす…=嫌われたくない自分のため?? 皆さんはどう思いますか?
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行動の主、人によるんじゃないかとは思います。 何をやっても全く自分のためだけの人だったり、いくらかは人のために行動を行ってる人もいらっしゃるかとは思います。 日常の生活ではそのほとんどが自分のためでしょう。 自分のためとはいっても、ことによっては自分のため?にならない(無駄なこと)ことも行ってしまう場合も多いように思います。 本当に自分のためになるということは簡単ではないと思います。 で、日常生活でも、親子の間や緊急事態などでは、無条件に相手のため、という場合はあると思います。
- tata358
- ベストアンサー率27% (109/398)
自分のため。 自分に徳を積むためです。 迷惑をかけない、というのは生きていく上でのマナーであり、社会の秩序だと思うので、相手が誰であれ心がけています。 ただ、自分に害をおよぼす人とか、自分を利用しようとする人には親切にしたくありませんね。 それでもそういう人にも迷惑はかけません。 誰かに借りを作りたくないのかもしれませんが、人のため=自分のためだと思います。 嫌われたくないわけではなく、自分のポリシーです。
お礼
ありがとうございます。 私は何度も嫌な人に仕返ししようと考えたことがありますが、結局できませんでした。うちを信じていた友達を嫌な気持ちにさせてしまうかな~と思ったんです。それも結局は自分のためなんですけどね。 でもちょっとくらい仕返しやってやればよかった…
人の為と書いて 偽り(いつわり)と読みます。
お礼
ありがとうございます。 すばらしい!ナイスな回答ですね^^
- c_youji
- ベストアンサー率24% (40/162)
>嫌われたくない人には精一杯その人のために尽くす…=嫌われたくない自分のため?? 確かに、そういう面もあるでしょう。 一般に「人のため」と思われる行動は、究極のところ「自分のため」と帰結するものは世の中に沢山あると思います。 友人を助けてあげた時は、「友人のため」と銘打っておきながら、実は 「友人を助けてあげた自分は善人だ」などと自己満足し、心酔するためかもしれません。 他人に助言する時は、自分の知識と教養をひけらかし、インテリ具合を自慢しているだけかもしれません。 私は宗教などには興味はありませんが、 私の知人に、ある宗教の宣教活動をしている人がいます。 (あやしい宗教ではありません。むしろ良心的な宗教だと思います。) その知人は、自分の信じる宗教を心から信じ、「こんな素晴らしいものをもっと多くの人に広めたい」 という観念をもち、報酬なしで宣教活動をしています。 その人はどうでしょうか。 「純粋に他人のため」に行っている行動なのかもしれませんが、 ちょっとひねくれた見方をすれば、「こんなに宣教活動した自分の品性や徳を向上するため」とか、 「こんなに貢献したのだから、自分は救われる」といった考えが深層意識にはあるのかもしれません。 でも、他人主義というか、純粋に「他人のため」という言動は存在すると私は思います。 例えば自己犠牲の精神。 「我が子のため、愛する人のためなら、自分の命を犠牲にしても構わない」 なんていう人間は少なくないのです。 例えば私だって、大事な人(家族・友人・恋人・・・)が駅のホームから足を滑らせ、転落したとしたら、 電車がスグそこだったとしても、自分の危険をかえりみず、線路に降り立ち救助したいと本気で考えます。 (まだそんな場面には出くわした事はありませんが、腰が抜けてしまわない限りはそうします) 結果、自分が死んでしまったら自己満足も自己陶酔もできません。でもいいんです。 それは偽善じゃないの?と思われるかもしれませんが、私の事をどう思われようが気になりません。 私の知っている中では、 貧乏の中、子供を女手一つで育て上げる為に、過酷な仕事を何件も掛け持ちし、自分の体を壊してしまった人もいます。 自分の愛する人に、「他に好きな人が出来た」と言われた時には、自分はまだ愛しているにも関わらず、 「それで貴方が幸せになれるなら」と別れた人だっています。 そんな人を見るたび、人間ってまだまだ捨てたもんじゃないなぁ・・・って思います。 自分が、純粋に他人の為に涙を流すことは少ないかもしれませんが、 確かにあるのです。
お礼
ありがとうございます。 家族やすごく大切な人への愛は特別かもしれませんね。無償の愛って奴かな。
お節介な人というのが居るのです(笑) どうしてお節介をしてしまうかというと、 やはり「見ていられない、ついやっちゃう」で その時は見返りも嫌われることも 見境なくやっちゃうんです。 それで、お節介が自分の為なのかどうかというと 正にその通りです(笑)。 それで自分の気が済むならいいのですが、 やはり反応を期待する気持ちは誰でも持ちます。 しかし、 どうでも良い相手だったり、 別に優先する問題を抱えていたりして 相手や事象の距離感が物理的にも 時間的にも保てているなら 済んだことには結構平気です。 「依存」と 「建設的な意志で」 というのは『距離感』の問題でしょうね。
お礼
ありがとうございます。 あ~もうそれが癖になってるような人ですね。。結局は「自分がやりたいから」。
>それって本当に人のためなんでしょうか? 私は100%自分のためです。 良いことしたということ気持ちが、夜ご飯をおいしくさせます。ぐっすり眠れるようになります。人生のスパイスです。 悪いことをしたという気持ちが、夜ご飯をまずくさせ、寝不足がちになります。 >「その人に良く思われたいから」とか「その人に嫌われたくないから」 自分のプライドもあって、できないこともありますが、できることなら、好印象を持たれた方が、自分としてうれしいですし、嫌われるよりも好かれた方が気持ちとして良いです。それと、利権の絡み合いもあって嫌われたくないという気持ちもある時もあります。 >嫌われたくない人には精一杯その人のために尽くす…=嫌われたくない自分のため?? 自分の立場や優位性を保つためにゴマすりして嫌われたくない人もいますが、相手のことを思い、がんばる人もいると思います。 これは、嫌われたくないために、「どこまでするか」というのが、ポイントになるのではないかと思います。がんばらなくてもできる程度なのか、がんばる気持ちを持ってやらないとできない程度なのか、また、自分自身をどこまで変えるのかなど。 これも、やっぱり、自分の気持ちや誇りの問題なのだと思います。
お礼
ありがとうございます。
- lile
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結局は自分の為だと思います。 しかし、私は嫌われない為ではないです。 いま、目の前に困っている人がいたらその人の為にできる事をするでしょう。 しかし、見て見ぬふりをすると、後で後悔と同時に自分を責めてしまいます。 その様な事がない為に、変な言い方ですが、悔いが残らない様に人の為に何かをします。 結局自己満足。
お礼
ありがとうございます。 自己満足…ですね。
お礼
ありがとうございます。 無駄な行動よくしてしまいますね。。そのせいで自分が損して…××うちも「おせっかい」に入るのかな。