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平等と特別扱い

 学校や会社で集団生活をする場合、やはりいろいろと理由があって精神的にまいってしまったりするときがあると思います。私はまだ学生ですが、今までに精神的にかなり弱っていて病院に通ったりしている時期と、比較的健康で普通に通えている時期の両方を体験しています。  しかし、そのときの先生や学校の対応って、難しいんだな、と感じます。やはり集団生活ですから、一人だけ特別扱いしたら、“私だっていろいろ苦しくてつらいのに、でもがんばって通ってるのに、なんであの子は特別扱いなの?ずるい・・”と思う子もいるでしょうし、かといって平等にしなければならないと言って、深刻に病んでいる子を放っておくのもどうかと思います。  でも、精神の病気って他の病気ほど見て分かるものでもないですし、理解されにくいと思います。  この平等と特別扱いについて、いろいろと意見を教えてください。

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noname#62393
noname#62393
回答No.2

参考にしてください 平等について、世間一般には、非常にあいまいに使用されています。 哲学的定義は一つであり、これがしっかりしていれば、本来、自分の行為に、ぶれることがなくなります。 広辞苑によれば、平等とは、等しく扱うということであり、複数のものの間に差をつけないということと定義されていますが。これは、次元的な要素(合理性)を含んでいないために、いろいろな平等の定義が生まれてきてしまいます。 例1  二人の人に同じ仕事をさせ、成果をみて、その結果が同じであれば、同じ報酬をすると、いや、結果が同じでも、そのために行動した、あるいは努力の度合いが違った場合、努力の量によって報酬をきめる。これは広辞苑によればどちらも平等となります。 例2 独身の男性と、妻子持ちの男性に同じ仕事をさせ、成果が同じであった場合、同じ報酬にする。いや、妻子持ちは生活が大変だから報酬を多くする。やはり広辞苑によればどちらもやはり平等といえます。 このように、注目する要素によって平等が変わってきます。これでは合理的定義とはいえません。 これを完全な定義にするには、平等に合理性という要素を加えなければなりません。 (合理性の定義は省きます。) 平等に扱うとは、複数の者に対して、行動的結果は無論のこと、そのものの生理的違いや能力、家族の状況などあらゆる環境場面を想定し、すべてに合理的考慮を加え、等しくなければならないのです。 別の言い方をすると、平等に扱うとは、個々が受ける負荷が同じになるよう、個々の能力によって掛ける負荷を変えることにあります。これを合理的平等といいます。  前に述べた(例1、例2の)前者は、機械的平等といい不合理な平等となります。現在はこの機械的平等を権力者が押し付ける傾向にあります。これでは権力者の都合により、定義が変化してしまうことであり不合理です。 特別扱いの定義ですが、単純に平等と対比関係にはありません。合理的平等扱いの中のある要素だけに注目すると、特別扱いということになってしまうのです。平等的扱いの中で特別扱いが生じたものであれば合理的な平等的扱いということになります。すなわち特別扱いしたから不平等ということにはなりません。 私は、平等であれ、特別扱いであれ、常に高次元レベルの合理性を念頭にいれ指導等をするべきだと思います。

007yuuki
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど、合理性ですか。 難しいですが、大切な要素であることは分かりました。

その他の回答 (1)

noname#37852
noname#37852
回答No.1

特別扱いというか、病気ならば病気なりの、その状況に合った「適切な対応」が必要ということなんじゃないでしょうか? メンタルヘルスは知識や罹患経験がないと理解するのが本当に難しいと思います。目に見えないし、「落ち込み」「憂鬱」というと健康な範囲のそれを思い浮かべられるので、「なんだそのくらいで」と思われがちですしね。 ただ、病気の人にそれに見合った対処をするのは、特別扱いではないと思いますが。 少なくとも、「えこひいき」「甘やかし」「ずる」などとは違いますよね? 足を骨折した人だったらどうなのか、心臓が弱かったらどうなのか、と考えてみるとわかりやすいのではないでしょうか。 メンタルな病気だけ他の病気と違う“特別扱い”するとわけが分かりにくくなることがあります。

007yuuki
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >目に見えないし、「落ち込み」「憂鬱」というと健康な範囲のそれを思い浮かべられるので、「なんだそのくらいで」と思われがちですしね。 そうなんですよね。 同じ病気でも、目に見えないメンタルな病気は、病気だと分かりにくいですよね。

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