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宗教色のない葬式と、お墓を作らない方法
特定の宗教にとらわれた葬式はしたくありません。遺族に受け入れてもらえて、かつ遺族が世間の非難を浴びないような葬式の方法を探しています。散骨等お墓も作らない方向で模索中です。 死者は日々の生活の中に埋もれ忘れ去られていくべきものだと思っています。死後まで注文をつけるのかと子供たちが文句を言いつつも、受け入れてくれるような方法を教えてください。 まだ50歳台、多分余裕はあると思います。
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曹洞宗の僧侶です。 特定の宗教にとらわれたくないということであれば、そもそも葬送などしなくて良いのです。私も個人として知人の「家族葬」や「音楽葬」というものに列席したことがありますが、結局はどれも「牧師や神父さんのいないキリスト教式もどき」で、言葉はわるいですが「上滑りな猿芝居」という印象を拭いきれませんでした。 家族や本当に親しい友人だけで見送るのであれば、一晩、故人を囲んで食事をしたり思い出話をしたりして過ごし、翌日には遺体を献体として引き取ってもらい、火葬されて骨が戻ってきたら、物置の奥にでも放り込んでおけばいいのです。そのうちカビてきたら、バレないようにうまく包んで不燃物のゴミに出せばいいですし、それも面倒であれば、受け取った時に、忘れた振りをして電車の網棚などに置き去りにしてしまえばいいのです。実際、鉄道の遺失物には「遺骨」がかなりの数あるという話を聞いたことがあります。 散骨は、今までは「宗教的な儀礼、信仰の表れとして、節度をもって行われるかぎり」という条件で、法律上黙認されてきたのですが、結局、「散骨」とは名ばかりの遺骨投棄が増えてしまい、あまりにもはた迷惑なので条例で禁止する自治体が増えています。わがままで他人に迷惑をかけるのは良くないと思います。ですので、遺骨の処分方法としては、「散骨」はお考えにならないほうが良いと思います。
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- haraomushi
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(再度) 葬式の歴史を考えますと、 そもそもは、死体をそのままにして腐敗、悪臭や伝染病の元になったりすることから、「けがれ」の思想が生まれたのだと思います。 (仏教は、チベットの乾燥気候の土地で生まれてますから、そういう思想がない。) 江戸時代の「村八分」でも、火事と葬式だけは(自らに災いが及ぶから)助けなくちゃいけないきまりでした。 その後の習慣で「おちきあい」だの「流行」だのが生まれて、 業者がかかわるようになると、「標準」が広まります。 (業者としてはそれなりに収益があり出費がすくないスタンダードが望ましいから、いちいち宗派によって細かいことを言われて対応するのが面倒) いまの時代に、何かのこだわりがなければ、わざわざ人を集めて葬式をする必要はないと思います。 友人たちが偲んでくれる場、というのは、手っ取り早いとは思いますが、 友人Aさんと友人Bさんは、故人にとってはどちらも友人だろうけど、AさんとBさんどうしは全くの他人。わざわざまとめて…という必要があるかどうか。 (バラバラに弔問に来られたら、遺族はいちいち対応がたいへんだから、というのは考えますが、判断は遺族さんですね。段取りをしてもらっていると遺族は助かります。) ★じつは「行政」の質問に、「友引」に自治体が火葬場を休みにしてる?というのを出したのですが、 どうも行政のほうでも「友引は葬式をしない」のが当たり前のように考えられているようです。(たぶん、明治以後、葬儀業者ができてからの習慣だろうと思うのですが)
お礼
「葬式というものは、死者を悼む行事であるほか、多くの"都合"の絡んだもので、不用意に変更すると何かとトラブルが起こりそうだ」ということを、今回ご回答いただいた中で感じることができました。75歳までぐらいに時間をかけて準備したいと思います。期限が短くなって間に合わなくなったり、変えるためのエネルギーが不足してしまったら、それはそれで仕方がないことだとあきらめます。 ありがとうございました。
- haraomushi
- ベストアンサー率13% (11/84)
「式」という名前がつく行事自体、何かしらの「儀式」=宗教色にみられます。 日頃「無宗教」だと言ってる人が、他人の葬式で「ご冥福を祈ります」って、「宗教用語」を平気で使ってる場面をよく見ます。(亡くなった本人、家族が浄土真宗で、冥福を祈ってないときでも) 目的としてはちがいますが、大学病院に献体しておけば、火葬までしてくれます。(遺骨がいつ帰ってくるかは大学の都合)私自身はこれを考えています。 自分で「ご挨拶状」を作っておいて、「死んだらこれを出しておいてくれ」と頼もうか、とも思います。 散骨については、法的な規制もありますから、(自治体によっても違うようです)。火葬場で「遺骨はいりません」というのもあるんじゃないかな?とは思うのですが、現実には駄目なところが多いようです。(骨壷にすべての骨や灰を収納できるわけじゃないんだから、少し残すのもたくさん残すのも、意味合いは変わらないような…) 勝手に埋葬したり廃棄したら違法になるにしても、そのまま骨壷で自宅保管なら、これを咎める法律はないはず。 遺族の方が「私はいつまでもお父さんお母さんと一緒にいます」と言えば、非難はされないと思いますが、遺族の気持ち次第ですね。 浄土真宗の宗祖、親鸞は、自分が死んだら川に流してくれと頼んでいたのに、弟子がお墓を作ったそうですから、さらに「凡人」である遺族が思ったとおりにしてくれると考えるのが間違いかもしれません。
お礼
死後の臓器提供については登録をしているものもありますが、献体についてはあまり考えていませんでした。でも、どっちみち灰になるなら、前途ある学生さんのお役に立つというのもいいですね。鍵は家族の説得ですね。 ご挨拶状というのは、実行しやすく魅力があります。遺言状と同じように、毎年誕生日に見直しているとすごい名文ができたりするかもとちょっとわくわくします。 ありがとうございました。
- mangou-kutta
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門徒です。 やはり葬式は、送る側の仕事だと思います。 葬式を「こうしてほしい」と言うのは、亡くなる人の主張になります。 それならば、生きている間にご自身の信念なりを、周りにお話しする機会をつくっていかれたらどうですか。 そんなにご自身の葬式そのものにこだわらなくてもいいような気がしてなりません。 葬式のときに周りがそれを採用するかもしれないし、採用しないかもしれません。 葬式そのものが宗教性があると思います。いっそのこと、葬式もいらないというのはどうでしょう。 くれぐれもご自分で法名、戒名をつけたりなさいませんように。 法名、戒名は仏教徒に必要なもので、本来サンガの代表者につけてもらうものですから。 散骨(撒骨)は、撒いた場所に執着してそこら一帯をお墓にしてしまうこと(想い出)を期待なさらないように。 私的には遺骨については 「こだわらず、粗末にせず」ですが。
お礼
ありがとうございます。採用してもらえそうで、自分の妥協できる線を探ってみます。
- amida3
- ベストアンサー率58% (448/771)
坊さんです。 「特定の宗教にとらわれた葬式」というのは最近の流行で多くなってきているようですが、仮に「故人の意志」であっても遺族は違和感を感じる方も多いです。喪主さんの自己満足で喜んでいる方もいれば、親族からの批判で葬儀をやり直しているケースもあります。 故人の生前の意志の本意を探り、考慮したうえで遺族が行うのが一般的です。 なお、お墓は仏教的にも特別に必要なものは無く、例えば京都周辺の浄土真宗の篤信者の地では代々遺骨は本山の墓所の納骨し個別のお墓はもたないという地域もあります。個別のお墓は、遺体・遺骨が残る以上どこかに埋葬しなければならないので埋葬し、その目印の石が現在の個別の家のお墓に変化したもので、これにはこだわる必要はありません。 ご質問の目的に費用的なことや子孫への負担軽減という意味合いもあるのであれば、自己の祖父母、両親と 同じ道を歩むという意味で自己の宗派で簡略な葬儀を行い、その本山に合祀埋葬してしまうのが散骨よりはるかに費用もかかりませんし良いように私には思います。 合掌
お礼
ありがとうございました。親族からの批判で云々…は避けたいと思っています。方法が決まったら根回しが大切だと思っています。 ところで、火葬にした後、なぜみんなで骨を拾うのでしょうね。というより、残った骨とか、本山に納骨した骨の行方はどうなんでしょう。
- bure
- ベストアンサー率42% (255/595)
いっそ生前葬という方法はどうでしょうか。 これならご自分の思い通りの葬式が企画できる自身も参加できるし。 縁起が悪いと言われそうですが・・・。 的外れで尚且つ気分悪くするような回答ですいません。
補足
ありがとうございます。 参考になる本やHPの紹介はうれしいです。
- teinen
- ベストアンサー率38% (824/2140)
葬式は,死んだ人が催すものではなく,残された遺族が催すものですので,自分が死んだ後のことまであれこれ考える必要はないと思います。残された者に委ねてしまえば(甘えてしまえば)良いと思います。 残された者の世間体や信仰によって葬式は行われます。 浄土真宗を開いた親鸞聖人は,「私が死んだら遺体は鴨川に流して魚の餌にしてくれ。」と言い残しましたが,弟子たちは親鸞聖人が亡くなると,手厚く葬儀を行い,荼毘に付し埋葬しました。 死んだらお終い。後は好き勝手にしてくれ。という境地に至るには,まだ50歳代だと無理ですかね。
補足
親鸞の弟子でさえ、師の遺言を守れなかったのですからそうそう期待はしていませんし、望んだとおりにやってもらえたか知りようもないけれど、できるだけはしておきたい。あの坊主の読経に送られるのかと思うよりましだから。
お礼
haraomushiさんの回答にもありましたが、やはり「式」とくれば何がしの宗教色が出て、それを無理にとり払えば不自然な(あるいは不快な)ものになってしまうのですねえ。 骨の処分は、こんな風にしてもらえたらと思いましたが、子どもたちがそこまでドライに考えてくれるか疑問。自分で処分できたらいいのにとじれったいですが、これはどんな人にも公平に共通のことだからあきらめられます。 皆さんのご意見を聞くうちに、凡人が自分の希望に合った死後の処置をしてもらうのは、すごく大変なことだなあと思えてきました。エネルギーに余裕のあるうちに道をつけておかないと、どうでもよくなってしまうでしょう。これを別から見れば、枯れた境地とか…。