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脳死は、是か非か?
現在、堂々と、躊躇いも無く脳死移植が行なわれていますが、脳死は、人の「死」なのでしょうか? 人が死んでもいないのなら、臓器を取ってしまって死に至らしめることは、殺人とならないのでしょうか? 人命尊重という観点から矛盾していないのでしょうか? 移植されて、助かれば、他の犠牲はどうでもいいのでしょうか? 誰も、移植されて、その臓器提供者に感謝されている様子が見受けられないのですが、手術した医者には感謝して、なぜ犠牲者・提供者に追善回向されないのでしょうか?
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noname#145153
回答No.1
「脳死」は、判定が正確に行われていれば、間違いなく回復することはありえませんので、「生物学的な死」です。 臓器移植者にへの情報が限定されるのは、医療上の「守秘義務」が絡んでいるからです。
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お礼
有り難う御座いました。
補足
私は、「脳死」を直ちには人の死だとは思いません。 というのは、「脳死」を人の死だと認める理由としては、脳死状態から回復する人がいない、ということが最大の理由だと思います。脳死状態から回復した人がいなくて、脳死になれば必ず死亡に至る、ということで、脳死の段階で、死亡ということにしてしまうのですが、しかし、その時点で死亡しているわけではないと思います。現実に、その人の身体の各器官は、まだ活動しているわけですから。 とくに仏法においては、我々の生命の中に、 「八葉の白蓮華」がある、と説かれた文や、あるいは、「九識心王真如(くしきしんのうしんにょ)の都」という、日蓮大聖人のお言葉があります。 これは、いろいろな経典・経文から推して見ていけば、八葉の白蓮華が心中にあるというふうに云われているのは、具体的に何をさしているかというと、心臓のことなんですね。その心臓のところに、我々の命を司っている大きな力があることを、八葉の白蓮華があるとか、九識心王真如の都といわれているわけです。 たしかに「脳」は大切なもので、その人間の個性・人格を決めているものですが、人間が生存して活動していくのを支えている大きな力は、心臓にもあるわけです。 そうやって考えてみた時に、脳死状態になっていても、心臓が活動している以上、その人が完全に死亡したと断定することは、私は、仏法上できないと思います。 脳死になれば、必ず死亡する、回復はしない、という事実は、認めなければいけないと思います。しかし、脳死になった時点で、もう死亡してしまった、としてしまうことは、少し危険が過ぎることだと思うのです。 それからもう一つ、仏法においては、人が息を引き取った後、要するに心臓が止まって、脈拍も停止した時、死んでから数刻は、その人の生命は、そこに留まっているということが云われています。したがって、亡くなってから数刻の間は、周囲の話し声が聞こえている場合があるし、それから、亡くなった側の意識としては、神経がものすごく過敏な状態になって、皮膚の上の方まで神経が集まってきている、だから、小さなものを、遺体の上に落としただけでも、重い石をドスンと落とされたような苦しみを感じるので、息を引き取った後も、遺体にはむやみにさわってはいけない、ということが云われているのです。 心臓が停止したという場合でも、なお仏法においては、その人の意識がそこに留まっている、ということを尊重して、単なる物として扱わないように、と云っているわけです。 そこまで考えますと、やはり、脳死をもって死亡と扱ってしまうことは、危険なことだと思います。 それから、現実に臨死体験をした人がいます。臨死体験をして、いったん呼吸や脈拍が停止した状態から生き返ってきた人達がいます。脳死になって生き返ってきた人がいないといっても、それは近年の限られた実験の中での話であって、現実に、死亡して脈も止まって、丸一日たってから生き返ってきた、などという人も、過去の歴史の中ではいるわけです。 その人が脳死状態であったかどうかは分かりませんが、いったん、死亡だと認定されていて、それから何時間後とか、一日後とかに蘇生してきた人達が現実に世の中にたくさんいて、その人達が語っているところでは、死亡宣告をされた後も、どうやら、本当に意識が残っているようです。自分が死んだ後、周りの人達が嘆き悲しんでいる声がはっきり聞こえていただとか、解剖しようという話が聞こえてきたとか、恐ろしい話があります。 こうしたことから考えても、仏法で云われているように、死亡してから数刻の間は、意識がまだ留まっている、ということは、本当のことであります。 だとすれば、医学的に、これが死亡だと思えても、本人の意識が、まだそこに留まっている時に、目を切り取りましょうか、肝臓を取り出しましょうか、というのは、きわめて残酷な話ではないかと思います。ただ、本人が希望して、自分の臓器を提供したい、というのなら話は別ですが。 でも、こういうことを知らないために承諾している人もいるのではないでしょうか。