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日本語に訳された洋書で見かける疑問。
こんにちは。 私はアガサ・クリスティーが好きで、 最近は時間もできたので手当たり次第読んでいます。 そこで前々から気になっていたのですが、 作中で登場人物が自分のことを 「おれ」と言ったり「私」「僕」と言ったり、 一人称が一つではないのです。 ポアロが「おれ」と言うのと「僕」というのとでは 全然イメージが違いまして、 訳者さんはこういうことをなぜ気にせずそのまま 出版したのかと疑問です。 ぜひ皆さんの意見を聞かせてください。
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日本語に訳されたあと、校正者(proofreader)がつき一連の文章に統一感があるか、チェックされます。 「素読み」とか「読み通し」とか出版社や業界によって呼び名が違いますが、たいてい1人の人が統一していきます。 注1.分厚い文献とか辞書の場合は、この限りではありません 注2.広告などの業界では、校正とは間違いをみつけそれに沿って修正することを指しますが、出版では校正の意味するところは、もっと広く役割も大きいです で、編集者は別にいるのですが、そのときに意見を出したり方針を決めますが、細かい表現ではその校正者のくせや考え方が反映されることが多いです。 編集側や出版担当者があとからそのおかしさをみつけ、すべて1人称を「私」で統一したほうがいい、と考えることもあります。 しかし、出版のスケジュールと合わせて考え、時間がない場合は手をつけないこともあります。 手をつけると、データをいじることになり、また一からチェック体制を繰り返すので、定められた出版予算に合わなくなるからです。 ですので、同じ出版社でも編集者や校正者が異なる場合、人称が統一されていない可能性があります。 > 訳者さんはこういうことをなぜ気にせずそのまま > 出版したのかと疑問です。 ですので、訳者がそう訳したとはかぎらず、通常そのあとに出版責任者が行った編集方針や人材の配置で、表現が変わってしまう(訳者が出版責任者になるとは、考えにくい)。 また予算と時間の関係で、そのまま出版される。 などが起こります。以上、実務面から。参考まで。
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- chirashizushi
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相手に言う言葉と自身の内面に向かって言う言葉とを使い分けている場合があります、またその時の心情で冷静な時は僕、憤怒してる時は俺など、その辺を区別して読むと面白いですよ(^_^)v クリスティーの作品なら訳者の違う本が何作かあるでしょうから、それぞれ読みわけてみるのも面白いですよ
- fitzandnao
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具体的にどういう場面で違うのかがわからないのですが、我々も場面で使い分けることもありますから、そんなに不思議ではないと思います。 公式の場では私、友人と話すときや心の中でなら俺…とかね。 場面で使い分けているのでなく、バラバラであれば、問題あるかもしれませんが…。編集者もチェックするはずですし…。
補足
両方とも親しい友人の前ででした。 それなのに「おれ」と言ったり「僕」といったり…。 ちなみに以前読んだ別のポアロのお話では、 全て「僕」に統一されていたように思います。 だからこそ今回とても驚いてしまったわけなのです…。