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世の中の価値観の多様化について

今の日本社会ではしきりに価値観の多様化が言われ 現実にそうなっていますがどうもしっくり来ない部分があります。 最近マスコミ等で特定の現象やイベントをやたら持ち上げる事があります。 それはそれでいいとしても 「これをしない人はおかしい」的論調が匂います。 また、以前と比べて他人の価値観を認めない人 他人の価値観を馬鹿にする人が増えた気がします。 いくら価値観が多様化しても周りがそれを 受け入れなければ意味がないと思います。 なぜ価値観は多様化しているはずなのに それを受け入れる事が出来ない人が多いのでしょうか。

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  • ipa222
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回答No.5

おっしゃる現象はよくわかります。 しかし価値観は多様化も進行しています。 価値観が多様化、個人化すると同時に、行動規範が多様化でなくなっていると思います。 隣の人を見ながら同調し、自分がグループから浮かないように気を配るという行動が若い層に特に多いように感じます。 日本の社会に影響力が大きい団塊の世代と、団塊二世たちが、そうした価値観の多様化と、行動規範の非多様化を推進しているように感じます。

mixpie
質問者

お礼

ありがとうございます。 行動規範もセットで多様化しないと駄目ですね。

その他の回答 (9)

noname#22237
noname#22237
回答No.10

どうもNo4です。 >いい加減な煽りは確かに以前からありましたが >最近ひどくなっていると思います。 個人的な感想から言わせて貰えば一時期よりはましになってますよ おそらくは、メディアリテラシーなる考えがある程度浸透してきた為だとは思いますが (視聴者の眼が厳しくなったと言う事ですね) もっともまだまだ許容できる範囲ではありませんがね (あと、もう一頑張りと言ったとこかな?)

  • reshare
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回答No.9

#6です。 「価値観は法律という枠組み内で多様であり変化するもの」  日本ではこのルールで価値観という言葉は使ってよい。 「法律の範囲内であれば価値観は尊重されなければならない」でもいい。 以前の日本にはこの枠組みの中に様々な別の枠組みが存在していた。 しかし今はそれら全てが取り払われ法律の枠組みだけが残っている。 現在において、宗教、思想、伝統、慣習などどれを取ってみても、 法のほかに日本人共通の理念となる枠組みは見つからない。 つまり価値観には法律以外のルールは存在しないと言う事になる。 以上が#6で書いた内容のまとめです。

回答No.8

すいません。#7ですが、#3でした。

回答No.7

#2です >しかし馬鹿にする事は人としてやってはいけないでしょう。 もちろんそう習いますからね。学校や社会常識として。 それは、この社会の暗黙のルールという奴です。 暗黙のルールってのはどうにも厄介な物でして、破るとどうなるってのが明確ではないんです。 #4さんの言葉を借りるなら、細分化によって社会構造に変化が起きていないって事です。 価値の細分化によって私達の考える常識という物も細分化されているんです。しかし、暗黙のルールってのは社会全体に置いてはなかなか変化しないのです。 相手をバカにする行為があったとしましょう。 それの何が悪いのか法律を絡めずに言えますか? ちなみに私は特別に法律を勉強した分けでもないので元々こんな質問をされると 『自分がされたら嫌でしょう?』 ぐらいしか言えません。 そこで 『自分がされているわけじゃない』 と言われるとどうしようも無いです。 それは、そもそも相手と自分との価値観の違いです。 他者との共存関係を大切にする人もいれば、自己を一番と考える人もいるわけです。 ま、そんな人が増えてくれば社会的にも混乱するので度が過ぎれば法律という名のによって裁かれますけど。 現在の教育制度の中での道徳教育の概念について考えてみると、 『修身』なる物(今の人は知らないかな?)が学校で道徳の代わりに教えられていた頃は正しいことは何かというのが強制的に教え込まれていました。 が、大戦後にマインドコントロールでもあるとされ廃止され、しばらくしてそれでも自分で考えられるだけの力をつける教育は必要だとされ今の『道徳』にいたっています。 ここで注目すべきは、今の道徳は物事の道徳心を教えるのではなく、 あくまで物事の判断を自己でつけるための能力をつけるだけの教育だということです。 (まぁそれを完全に実行できている教育者は全体の数%ですけどね) 何がいいたいかと言うと、今の日本の考え方からすると価値観はどのようなものでもいいって事です。 強制されないという事は歯止めが無いと言う事ですから。 それのために、一度今の社会常識からはみ出してしまっても元に戻ろうとする意思が芽生えないのです。 だって正論では怒られないんですもの。 長々と書きましたが、あなたの意見に私個人としては賛成なんですよね。 助け合って生きるのがいいって価値観の持ち主なもので。

  • reshare
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回答No.6

価値観とは多様であり変化するものでしょう。 ITにより個人を送受信する場が設定され、 多くの人が利用できるようになったのは事実です。 しかしそれは価値観の多様化や細分化ではなく、 価値観の氾濫と言うのが適当のように思いますがどうでしょう。 >また、以前と比べて他人の価値観を認めない人 >他人の価値観を馬鹿にする人が増えた気がします。 >なぜ価値観は多様化しているはずなのに >それを受け入れる事が出来ない人が多いのでしょうか。 「価値観の違い」という使い方が一番されると思いますが、 「これ以上は話したくない」と言うニュアンスがあるように感じる。 これは相手に譲歩の要求や説明拒絶を意図的に暗喩しているに過ぎない。 よく似た例では「遺憾に思う」や「善処します」がそうで、 具体的な内容は言いませんよと暗に告げているのと同じ用例です。 価値観を認めない価値観の人はどうします? 自分の価値観で他人の価値観を馬鹿にする人は? 事実こういう使い方が殆どなので氾濫と揶揄したんですけどね・・・ 個人の価値観として「ニート」や「年金支払拒否」の人がいる。 他にも「NHK受信料支払拒否」を価値観でしてる人。 よく価値観が使われるのはこんな時に便利だからですよ、きっと。 法律を守ること、国民としてすべきこと、国の未来を思うこと、 これらの枠の中で多様に存在するという共通認識が崩れてる以上、 無条件で価値観を認めるどころか使用することさえ疑問に思います。

mixpie
質問者

お礼

ありがとうございます >価値観を認めない価値観の人はどうします? そう言う人は他人と関わってはいけないでしょう。 他人を認められないのですから >個人の価値観として「ニート」や「年金支払拒否」の人がいる。 >他にも「NHK受信料支払拒否」を価値観でしてる人。 法律で決められている事と価値観はまた別問題でしょう。

noname#22237
noname#22237
回答No.4

>また、以前と比べて他人の価値観を認めない人 >他人の価値観を馬鹿にする人が増えた気がします。 >いくら価値観が多様化しても周りがそれを >受け入れなければ意味がないと思います。 >なぜ価値観は多様化しているはずなのに >それを受け入れる事が出来ない人が多いのでしょうか。 これは基本的に自分の理解できない物(理解するのに時間の掛かる物を含む)は、不快であり恐怖を感じる為、排除したいと思うのです。 それとNo2さんが言われているように最近の傾向は、 【多様化】では無く【細分化】と言った方が正確だと思います。 (より正確性を期すならということですが) >最近マスコミ等で特定の現象やイベントをやたら持ち上げる事があります。 >それはそれでいいとしても >「これをしない人はおかしい」的論調が匂います。 マスコミのいい加減な煽りは昨日今日始まった物じゃないですからコレはもう仕方ないんじゃないでしょうか (今日見たNHKスペシャルの中で言われてた負けパターンを地で行く感じですね;今の民放の姿勢は)

mixpie
質問者

お礼

ありがとうございます。 いい加減な煽りは確かに以前からありましたが 最近ひどくなっていると思います。

回答No.3

別にその辺は人間である以上万国共通です。他の動物まで同じような思考で社会を形成しているかは専門家に聞いてください。 『コレをしない人はおかしい』ってのは昔の日本にもあったはずです。それが無くなって新しい『コレをしない人はおかしい』に変わっただけです。 人間は基本的に自己を理解してもらいたがります。 そのため、他者との共存関係においても意見の対立が発生します。それが社会という大きな枠組みの中で行われると、より力の大きな物の意見が小さな意見をつぶすという事に繋がるのです。 >価値観は多様化しているはすなのに 何を持ってそう言うんでしょう? それはあなたの私的な意見です。多様化しているのではなく、そう見える要に小さな意見がつぶされにくくなっただけです。 とは言うものの、それも私の意見であり、正しいという保証は無いです。 受け入れる事は出来るでしょう。やらないだけです。 逆に言えば、あなたはなぜ今の社会が受け入れられないのですか? 『あなたが』しっくり来ないからでしょう? それは極論で言えば社会価値の否定です。 なぜなら社会を認めないということは今の社会の存在する価値の否定だからです。 ま、極論です。 他人の価値観を馬鹿にする人が増えたのではなく、個人の出来る事が増えただけです。 あなたが考えている最近ではない時代より、はるかに個人でできる事が増えたと思いませんか? まぁ変わらないという人もいるでしょうが、実際ネットワークに論点を絞ったとしても10年前の比ではありません。 個人は言うなら水滴です。 社会はそれを総じた水です。 同じ物が多ければ他の物は薄れて見えなくなっていきます。 最近はたった一人でもやり方しだいで大きな力を持つようになりました。 言うならば油や他の物質になる事が出来るようになったのです。 社会的に見れば個人の意見が増えたと思うかもしれませんが、人間の数に大差は無いです(全世界でみれば結構増えてるけど) しかし、社会で見ればあなたの言うことはあながち間違いでもありません。 それほど明確に個人が存在するのが明白になったのなら社会自体も変化するべきです。 しかし、いまだかつて民衆の全ての意見が反映される自由社会は存在した例は無いです。 あなたが好きな服でも流行と違っていれば変な服です。 あなたが嫌いな絵画でも多くが絶賛すればそれは名画です。 あなたが幸せだと思っても大多数が哀れむならそれは不幸です。 社会概念とはそういう物です。常に変化しますが、弱い力の為に社会概念が存在した例はありません。 最初に言ったようにそれは人間だからです。

mixpie
質問者

お礼

ありがとうございます。 個人のできる事は確かに増えました。 しかし馬鹿にする事は人としてやってはいけないでしょう。 それとは別問題です。

  • t78abyrf9c
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回答No.2

「多様化」という言葉を勘違いして使ってると思います。 正確には「細分化」だと思います。 なぜ受け入れないのかについてですが、それは「世間」があるからだと常々感じてます。 「世間」があるために、良くも悪くも日本人には「個人」か形成され難く、価値観や人権を尊重する事も難しいのだと思います。 http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002046.html http://donzokoblue.blog55.fc2.com/blog-entry-52.html 明治期に「世間」を排除する目的で欧州から「社会」と「個人」を取り入れたわけですが、「社会」や「個人」が形成される母体となったキリスト教までは取り入れる事が出来なかったので、今のような状態になっていると思います。 http://www.interq.or.jp/pluto/yassy/wasuremono.htm だからと言って、社会(キリスト教)=正、世間=悪、と単純に割り切れる話ではありませんので、日本の風土や歴史的背景を冷静に分析した上で、どうやって他者を尊重していくのかを、今こそ考えていくべきだと思うのですが・・・。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/jidai/0307/ji_307_030712.htm

mixpie
質問者

お礼

ありがとうございます。 難しい問題ですね。 日本には向いていないんですかね

回答No.1

確かに 価値観は多様化していますが 許容範囲は 以前とそうは変わってないのではないでしょうか? それと 日本の国民性も鑑みないといけないでしょうね。

mixpie
質問者

お礼

ありがとうございます 多様化したら許容範囲もその分広がらないと駄目ですね。

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