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友人について

私は今まで、俗に言う「友人を宝」だと思った事がありません。3年前に仲の良かった友人に酷く裏切られたからだと思います。それからというもの、少しでも自分に合わなければ、直ぐに友人から離れる根無し草のような友人づきあいしか出来ません。私にとって友人は、その場しのぎのでしかない事に気付きました。最近大学受験が終わり、自分より成績の低かった友人が私の落ちた大学に行く事を知り、もう連絡を絶ちたいと思うまでになっています。友人の何気ない一言にいつもカチンと来る一方で、自分の心の狭さにうんざりしています。何が聞きたいのか自分でもよくわからないのですが、友人は本当に大切な存在なのでしょうか。教えてください。

みんなの回答

回答No.5

何年続くかはわかりませんが、生きていく限り、中年・老年となっても「心からの友人がいる」と思える人は少ないと思います。 私は50代ですが、これだけ生きてきて、本当の友人だと思える人は二人しかいません。しかもそのうちの一人 は先日、脳内出血で急死しました。 その友人は異性でしたが、彼女が死んだと聞いて、1週間近く、何もできませんでした。会社にはいちおう行きましたが、 ただ座って手を動かしているというだけで、脳は考えることを拒否していました。これほど悲しい経験は50年以上ありません でした。 親友と呼べる二人は、いずれも自分にとって苦しい時代をともに堪え忍んでくれた仲間です。一緒に耐えてくれた仲間は 他にもいますが、やはり本当に親身になってくれたのはその二人だけでした。50年生きてきて、家族(妻・娘)以外に これほど大切に思っている人は他にいません。 そんな、心から親友と呼べる人は簡単に見つかるものではありません。出会いがあり、人間関係を築き、ともに悩み、苦境を 乗り切る、あるいは成功をする、そんな長い長いプロセスを踏まなければ、本当の友人には巡り会えないものだと思います。 roko4さんはたぶん若い方だと思いますが、友人という概念を今までの経験だけではからない方がいいと思います。 いちいちカチンとくるのは、ただの知り合い、知己であって、本当の友人を見つけることができた時には、そんな些末なことは どうでもよくなります。自分の心が狭いと責める気持ちは大切だと思いますが、ただの知己と本当の友人の間には大きな隔てがあります。いつかそんな本当の親友ができた時には、自分を責めることもなくなると思いますよ。 今は、本当の親友を獲得するための、勉強の期間だと思って、軽い気持ちで友人関係を広げてはいかがでしょう。広く浅くつきあううちに、いつか本当の親友に出会えるかもしれません。その時には、「あぁ、あの頃の自分はなんて狭量だったのだろう」と振り返ることができます。そしてそれは、とても幸せな体験なのです。 焦らず、人間関係を一歩ずつ築き上げるステップを踏んでください。まだこの先、新しい人間関係を得る機会は必ずきます。 そのときまでに人間関係で苦労した経験こそが、「親友」を見つけるための法則として生きてきます。 そしてそんな親友を見つけ、本当に親友となった日には、必ずあなたは「友人は大切な存在だ」と心から感じることができると 思います。

  • kneissl
  • ベストアンサー率30% (97/320)
回答No.4

友人に限らずですが、人間関係の価値っていうのは、少なからずあると思うんですよ。 本心では、誰だってそう思ってるでしょ。 人間関係なんて何の価値もないって思ってたら、こんな不自由な世の中で孤独に生きる意味なんてない。 それなら、とっくに死んでますってことだと思うんですけど。 質問者さんも、そうだからこそ、質問されてるんでしょう。 ただ、現実と理想のギャップっていう部分は確かにあるかも知れない。 友人や友情、人間関係の素晴らしさというのはある意味真実ですけど、虚構でもあるんですね。 人間は、結局誰とも共感し得ないし、絶対的な経験を積んで、一人で死んでいく。 だから、そういう友人とか人間関係に内包されている、まがいものらしさという部分は確かに認められます。 だからといって、全否定してしまうまでもなく、やっぱり友人っていうのは必要なんですね。 一部に虚偽は含まれる、でも全体としてはやっぱり重要なんですよ。 ひとつ、そういう友人というものに対する一種のうそくささとか嫌悪感みたいなものを抱いてしまう原因に、友人とは精神的に結びついているとか、道徳や良心の世界で語られるものだとかいう根本的な考え方があると思います。 「本音を語れる」とか「心で通じ合う」みたいな反現実主義を押し進めたところに友人がよく語られるので、現実主義の人からすると、すごくうそくさく感じてしかたない、反吐が出るようなことがあるでしょう。 でも、もっと単純に「友人」は利益のあるもんだと思ったらいいんじゃないですか? 「友人」=メリットです。 たとえば、どこかに出かけたいけど、一人では行きにくいとか、一人で出来ないことってありますね。カラオケとかボーリング、ビリヤードとか、そういう遊びをするときに、自分ひとりでは出来ないことがあります。 そういう時に誰かを呼ぼうと思った時に、呼べる友人がいるっていうことは、メリットだと思いませんか? そういう友人を本当に好きかとか、本音で語れるかとか、自殺をしようとしたときに止めれるかとか、葬式で泣けるかとか、そんなことはほっといて、とりあえずメリットです。 嫌いなら話は別です。呼ばなければいいだけで。でも、必要なときに都合よく呼べる。遊ぶだけでも重宝する。 それ「友人」=メリットでいいと思いますよ。 あとは、物を貸してくれるとか、趣味が共通とか、話し相手になってくれるとか、とにかく「友人」って便利です。 あなたは、「友人」がすごくきれいで神々しいというような理想論、精神論を非現実的だと思いながらも、どちらかというとそういう「友人」というものを現実で探しているのではないですか? だから、失望する。 好きか嫌いか、メリットかデメリットかの二元論でいいと思うんですよ。 人間は一人です。孤独ですよ。共感し得ないし、気持ちなんてわかりっこない。 でも、だからって一人でやっていきますか?このつまんない世の中で、一人で何十年も生きることが本当に友人と交わらないより価値あることだと確信できますか? 確信できるならいいですけど、もし確信してるなら、友人の必要性を問うたりしないですよ。 やっぱり、そういう意味では友人って大切です。絶対必要。でも、精神論や理想論に出てくるような立派なお友達なんていません。それでいいんですよ。 それでも、誰かと時間を共有できるなら、俺は幸せやと思いますけどね。わくわくしますし、嬉しいですけどね。

roko4
質問者

お礼

ありがとうございます。ご指摘通り、友人に「自分の理想の友人像」を押し付けていました。そして、それにそぐわない友人を「どうしてわかってくれないの!?」と一人でもやもやしていました。これからは、もう少し軽い気持ちで友人と付き合っていこうと思います。

回答No.3

人間は一人で生まれて、やがて一人で死んでいくのですよ。 その過程において他者との関わりにどれほどの比重をおくのかは どこまで行っても「アナタ次第」です。 今、友達に裏切られたから人間不信に陥ってるのかもしれませんが。 信じるに値しない人間を選んで信じた自分を反省してみては如何ですか? その友人を信じたいから信じたのでしょう? 「信じる」というのはその人を信じる事によって、将来の自分がこうむるかもしれない被害までを含めて自分の選択の結果として受け止める、という事です。 それが解らないならば、むやみに信じてはいけませんね。 でも、いつか「この人になら騙されても納得できる」という方に巡り合えれば、きっと心は軽くなりますよ。 その日まで孤高を保つのもアリだと思います。

roko4
質問者

お礼

ありがとうございます。「この人になら騙されても納得できる」という友人は究極の友人ですね。もし自分が騙されても、認められる友人をゆっくりと探していこうと思います。

回答No.2

なかなか友人関係がうまく行かないようですね。。。 私もどちらかというと本当の自分の本音を話せるのは、友達ではなく彼だけでした。 でも春から新しく大学に行くんだったら、最初から今のような気持ちで行くと絶対損しますよ。 いろんな人がいるから、そんなどっぷりの友達より学校の帰りに買い物に一緒に行けるような友達から見つけて行けばいいと思います。 私みたいに、信頼できるパートナーに出会えるとすごく心がいつも落ち着いています。 いい出会いをあきらめず、求めてくださいね。

  • nbys_goo
  • ベストアンサー率16% (53/326)
回答No.1

私は友人が大事です。 過去裏切られた経験もいっぱいあります。 一時的に距離を置いたり、傷つけあうこともあり、いろんな経験があり、お互いそういうことが許せる関係になって、今一番大事だと言える友人がいます。 また、質問者様のようにその場しのぎの友人もいます。関係がめんどくさくなれば、すぐ切ることのできる友人もいます。 友人の中にも関係の深さによって、いろいろいると思いますので、本当に大事と思える友人に、質問者がまだ会えていないだけだと思います。 私も小学校からの友人ですが、そう思ようになったのは、20年たった今なので、付き合ってから時間がかかるのかもしれませんね。

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