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正しいって何?
何が正しくて何が間違っているかわからなくなりました。よく人それぞれっていいますが、自分が間違っているような気がして。 私のまわりは、常識的にとか、こうしたほうがいいことだとか、多くの人がこう思っているとか、こっちの方が人としていいことだとか、ひとそれぞれですませれるのかとか、そんな風にいわれてしまいます。
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いつも正しいことをしなければならないという「思い込み」から抜けましょう。 人間には間違ったことをする権利があります。すべて正しく生きようなんて無理です。 名言があります。 「人間はしょっちゅう間違えるけど、間違い続けることはできない。」 一回間違えてみないとそれが正しいかどうかなんて分からないものです。 間違えることを恐れないで。
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- calibra16v
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まず、「正しい」という言葉には、論理的に「正しい」ということと価値判断的に「正しい」ということがあることを意識しましょう。 論理的な「正しい」は「真」で、論理的な「間違い」は「偽」です。 価値判断的な「正しい」は「善」で、価値判断的な「間違い」は「悪」です。好悪(好き嫌い)・正邪も価値判断の結果ですな。 あなたは、何についての正しさを求めていますか? なにごとかの「価値」についての「正しさ」を求めるならば、その「価値」を共有しない人にとってはあなたの「正しさ」は「悪」であったり「邪」であったり「嫌」であったりするでしょう。それはいかんともしがたい現実です。
- Interest
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一般的には正解も不正解も、最初から存在しない。そうかんがてみましょう。 いわゆる常識(コモンセンス)は集団、場所、時節が異なれば変わってしまう。 そのような中で何を拠り所とするか。一つは、ANo.1の方が仰るように長い歴史の中で多くの人から価値を認められてきた聖典を基本にしてもよいでしょう。新約聖書・旧約聖書(キリスト教、ユダヤ教)だけでなく、コーラン(イスラム教)や仏典(仏教)など世界中に様々な聖典があります。 しかし、そういった聖典を読んだことがない場合でも、自分の良心に問いかけることは可能です。「その判断は公正であるか、誠実であるか、正直であるか、他人の尊厳を守っているか、もっと良い案は無いか、勇気を持った決断であるか」など問いかけてみましょう。(あらゆる聖典で、この自分自身に何を問うべきかを語っているのではないでしょうか。ぜんぜん読んでませんが。) ご自身の良心に照らして得た答えであれば、不安になることもなくなります。この意味において、「正しい」とは「自分の良心に従っている」ということです。
- haya-k
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何が正しくて、何が間違っているのかというのは対する物事によっても違ってくると思います。何かの問題に直面したとき、客観的・主観的に見るのか、常識的な観点から見たらいいのか、善悪で判断するべきか・・・など、あらゆる角度から見ていくものだと私は思います。 それで自分が出した答えに対する結果によってしか、正しいのかどうかはわからないのではないのかと思います。 No.1さんも仰っていましたが、人の意見を聞くのもいいかもしれませんが、あまり多くの方から聞くと余計に悩んだりすると思いますので、本当に信頼できる方から話を聞いてみて、それぞれの意見を取捨選択するのも一つの方法だと思います。 何が正しくて何が間違っているのかなんて、考えてるだけではわからないと思いますし、誰にもわからないと思います。なんだか答えになってませんね^^; すみません。 ぜひ他の方の意見も聞いてみてくださいね!
- sakurarc
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確かに、正しいことは人それぞれだと言いますよね。 私も、「普通こうしなぁい?」とか言われると、「あなたの言う『普通』って何?」って思ったりします。 正しかろうが間違っていようが、多数派が世間の常識になっているような気がします。 昔は、知らない人でも近所の人には進んで挨拶をしよう!なんて言われていましたが、今は知らない人に会ったら逃げなさいと教えられている子供たちが、大人に挨拶をされただけで逃げる世の中になってしまいました。 挨拶も、自分の身を守ることも、どちらも正しいことです。 『正しい』なんて、極めて曖昧なものだなと思います。 ある日、「タマゴマンは中学生」で有名な坂本勤先生の講演を拝聴する機会がありました。 正しいか間違っているかではなく、美しいか美しくないかが大切 と言った内容のことを話されていました。 いくら正しいことを伝えていても、その言い方が美しくなければ相手には伝わらない。逆に、人を傷つけないための美しい嘘もあると・・・。 世の中の全ての事柄を「正しいか正しくないか」の二つに分けることは非常に窮屈な気がします。 そういう私も、「正しいことを言って何が悪い!」と、自分の中だけの常識を人に押し付けることがよくありました。そして、人を傷つけてきました。 それは、今思うと美しくないものでした。 4633さんが、「正しい」を押し付けられて嫌な思いをしているのであれば、それは相手の方の伝え方が美しくなかったのではないでしょうか?それは本当の意味での「正しい」ではない気がします。 「あなたは間違っている」と人を否定することが正しいことかどうかも疑問です。やはり正しいなんて曖昧・・・。 いかに正しいことを美しく伝えるかが大切なんじゃないかなって思います。 人がなんと言おうと、自分が正しいと思うことを信じて美しくあればいいのではないでしょうか?誰かに同じようなことを何か言われたら、それは「世間の常識」と受け取るのではなく、「この人はこういう考えなんだな」と思えばいいのではないでしょうか。そして、それをも認められる広い心を持てると、とても楽に生きられるような気がします。実際、私は坂本先生の講演後考えを変えて、とても楽になりました。 どれが正しい、どれが間違ってるの2択にすることはないと思います。 あまり回答になっていませんが・・・。
- MITAMAX
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おっしゃる通り60億の人がいれば、60億の正しさがあるのかもしれませんね。 でもその人々が言語や文化を超えて、共有できる感覚が コモンセンスなんでしょうね。 私は人の忠告には2種類あると思います。 一つは本当に私の事を思って、言ってくれているもの、 もう一つは、単にその人が自分の正義を主張しているもの。 前者は大いに聞く価値がありますが、 後者はたとえ私がそれを採用して害を受けても、 その人は何の責任も取る事ができません。 ですからあなたもその様に、人の意見を取捨選択されてはいかがでしょうか? ちなみに私の善悪の判断基準は聖書にあります。 それではじめて会うクリスチャンでも、国を超えてすぐ 親しくなれます。 聖書をきちんと読んでいる場合、似たような価値観を持つからです。 また互いに神の子ども同士であり、「家族である。」と認識しているからです。 クリスチャンは人の善悪の判断は不完全であり、 (善悪の知識の実を取って神に反逆して以来。) 神だけに完全な判断があると信じています。 それで約1600年かけて完成された聖書を 究極的な判断の基準とするのです。 (日本の憲法にも一夫一妻等、聖書は反映されています。 江戸時代までは、妾は当たり前でした。) TVでアメリカの裁判の様子を見かけますが、 聖書に手を置いて偽証しないと宣誓をします。 それは全知全能の神の前での誓約なので、 実は相当重い責任があるのです。 ご参考までに。