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感謝をする心の欠落
今年は、日本人の精神性が大きく変化していることを痛感させられた年でした。 昨今、感謝をする心が先天的に欠落しているのではないかとすら思えるような人が増えていると感じます。「先天的」と表現したのは、そういう能力がもともと無いという意味です(差別的な意図は全くありません)。 例えば職場の女性達で三十路の突入しているにもかかわらず、人に何かをしてもらって「ありがとう」と言わない(言えない?)人がとても多いので、驚いてもいます。彼女達の様子を見ていると、「人に何かをしてもらってあたりまえ」というのが身についてしまっているんですね。これは男性にも共通している傾向かもしれません。 特定の個人を中傷するつもりは全くありませんが、このサイトでも何度も話題に上っているように、たった一言のお礼すらタイプしない人が山のように存在します。 日本には「ありがとう」という美しい言葉が存在するのに。 こういう現状に対しての肯定的・否定的なお考え・・・というよりも、どうしてこうなってしまったのか、分析的なご回答をお願い致します。
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こんにちは! adelaideさん。ちょっと手が透きましたのでので、このスキに手短に回答をば…。(はれ~、け、決して仕事をサボってここに来たわけでは、あ、ありませんっ!(断言)) 幾つかが複合的に絡み合って原因をなしていると思いますが、先ず考えられるのが「食生活のあり方の貧困化」。 振り返って考えてみれば、言葉の習慣を身につけ始めた幼少時、私たちは食事の時に最も強く親の躾を受けていたような気がします。「いただきます」も「おご馳走様でした」も即ち「ありがとう」の感謝の気持ち。ご飯茶碗にこびりついた米粒一つ残すことすら、許されてはおりませんでした。「お百姓さん(ん?禁止用語? でも「農民」とは言ってなかったんだもん)が汗水流して作ってくれたものを粗末にするな」と…。幼少時に受けたそういう教育は本当にその人の感覚を一生左右するようです。私は未だに(当然ですが)米粒ひとつでも残っていたりすると居心地が悪いのです。そう考えてくると、幼少時に食生活のあり方が貧しかった人々(勿論食卓に並ぶ内容のことではありません。賢明なるadelaideさんのこと、ご推察頂けると思います)が「感謝の心」を育み損ねてしまったのではないでしょうか。 次に思うのは「人間関係の希薄化」。 心と心の触れ合い…それが様々な感情を生み、「ありがとう」や「ごめんなさい」等の言葉を生み出してきたのではないかと考えているのですが、自動販売機の隆盛、レジでの無機質なお金や物のやり取り、その他にも人間関係を希薄にしてきたものは数多く見られます。少しのことにも相手を煩わせたりすればやはり「ありがとう」「申し訳ない」との感情が生まれてくるのが自然ですが、昔と違い、少しのことは機械や文明品がやってくれるようにもなりましたからね。さすがに機械相手に「ありがとう」は言わないでしょうから、「ありがとう」を言う機会(シャレではありませんからね)が確実に減ってきているのは間違いないでしょう。私たちの少年時代にはこうした意味での「人間関係」というのはホントに豊かで、従って自然と「感情表現」も鍛えられていきました。「ああ、ボクの為に(店の)おばちゃん、動いてくれてるんだなぁ」と日々実感することができていましたもの…(って、毎日駄菓子屋通いしとったんかいっ!)。 次に、妙に合理的な考え方の、社会への浸透を感じます。「私はこれだけの代価を払っているんだから、これだけのサービスを受けて当たり前。特別に感謝する必要はない」と…。確かに1000円を払って焼肉定食を食べているのだから客側だけがお店の人に感謝する必要はないのかもしれない。同様に焼肉定食を食べさせたのだからお店側の方も…。少し極端に書き過ぎたかもしれませんが、「然るべきサービスを受けて当然」とドライに受け止め始めた人間が勢いを増してきているのではないでしょうか。 飽食の時代に育った若者たち、便利な文明機器に囲まれて人間関係をうまく築いてこられなかった若者たち。ものを食べられると言うことの幸せ、それが何かの命の犠牲の上に成り立っていることへの畏れと感謝。そうした思いを先人(祖父母・両親・先生等々)からうまく伝えてもらえなかったのでしょうか…。ある意味でかわいそうな人たちではあります。 私も何かをして頂いたら、感謝せずにはいられませんし、一言感謝の言葉を申し述べなければ気持ちが悪くて、その居心地の悪さに耐えられません(ご飯粒の時と同じです)。例えばここで質問してその回答者にたった一言のお礼の言葉すら述べられない人…「困ったものだ」と心底思うのですが、また同時にいろんな事情も考えます。私はこのサイトを「ある意味世の中の姿を凝縮したものだ」と考えておりますので、お礼をしない人がいてもあまり気に留めません(これがいいことだとは決して思いませんが、やむを得ないことだと、ある種諦めております。あまり良い姿勢ではないかもしれませんね。(^_^;)) すみません、今時間がないものですから(「やっぱり仕事をサボってたの?」というツッコミは勘弁してくだしゃ~い)尻切れとんぼの形で文章を強制終了せざるを得ません。そ、それではまた、何処かでお会いしましょう。何度も繰り返しになって自分でも笑ってしまいますが、「どうぞよいお年をお迎え下さい♪」(^.^)/~~~
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- tangent
- ベストアンサー率18% (5/27)
「「ありがとう」と言わない」=「感謝する心がない」わけではないと思います。#3の方も書いておられますが、何らかの理由で言葉がでない人もありますし、はにかみやの人、ちょっとぼんやりの人、人はいろいろです。感謝の心がまったく無いとすれば問題ですが、何にどの程度感謝するかも人それぞれ。「人に何かをしてもらってあたりまえ」と思っていても「人に何かをしてあげるのもあたりまえ」な人なら非難する気にはなれません。逆に、反射的に心のこもっていない挨拶をしている人や挨拶を強要する人(教育・しつけの場合は別です)はどんなもんかと思います。
お礼
ご回答をありがとうございました。 もし可能なら、分析的なご回答もお願い致します。
- c-chan
- ベストアンサー率9% (28/307)
生活が豊かになって助け合わなくても生きて行ける世の中になったことが大きいと思います。コンビニ・スーパー・冷蔵庫・電子レンジがなければ一人暮しは大変です。それが困難でなくなったため単身者が増えました。そしてそれとともにお互いを思いやる優しい言葉が消えつつあるように思えます。 冷蔵庫ができてから魚を近所に分けなくなった、という話も聞いたことがあります。
お礼
ご回答、ありがとうございました。
- serotonin
- ベストアンサー率14% (26/182)
こんにちはです!! コンビニで働いていて、お客様にありがとうと言われると、ドキッとします。 あまりいないんですよ。言う人。あと、御願いします、という言葉ですね。 私が学生時代のアルバイト(飲食店の集まったビル)の社員食堂で、食券を置く場所に食券を置いて、目の前で忙しそうにしているマスターをじっと見ていました。 そうしたら、御願いしますと言え!!っと大声で怒られてしまいました。その時はかなりムッとしました。しかし、今、考えるとマスターの言うとおりだと思います。でも、若い自分はムッとしたのも事実です。 あと、拍手ですね。皆さんは、拍手に意味や気持ちを込めますか?等と、論点がずれてしまいましたね。御免なさい。 分析的な回答を求めていらっしゃるのに申し訳御座いませんが、おっしゃられるような事になってしまったのはどうしてなんででしょうかね?って私が言ってどうするんだ!! でも、親に対する忠孝や、御先祖様に対する礼、伝統文化に対する知識的な概念が薄らいでいるのかもしれませんね。 でも、私は、最近の若い者は~ という方は、あまり好きじゃないですね。 言われても仕方が無いこともあるのですが、憤激レポートを見ていると、欠如した人間もいらっしゃることですし、私自身、モラル・デリカシー等に自信があまり無いので大きなことは言えませんが、ありがとうと言われる人になれるよう頑張ります!! 読んで戴いた方、ありがとう~!!
お礼
serotoninさん、ご回答をありがとうございました。 かつてのアルバイト先のマスター、今思うと、貴重な方ですね。 わたしの職場では、管理職すら、忠告といった類の事は殆どしません。まあ、成人して社会人になって、忠告されなければ止めない(止められない?)というモラルの無い人間も悲しいですが、多いんですね、これもまた。 >でも、親に対する忠孝や、御先祖様に対する礼、伝統文化に対する知識的な概念が薄らいでいるのかもしれませんね。 これは、すごくうなずけるものがあります。 >でも、私は、最近の若い者は~ という方は、あまり好きじゃないですね。 あはは、「最近の若い者は~」というのは、昔から言われていたんですよね?今のおじいちゃん・おばあちゃんが、かつては同じ事をいわれていたのかと思うと楽しいですね♪
- odd-art
- ベストアンサー率9% (31/325)
今は、末法であり、これからも、もっと酷い人達が生まれてくるとされております。 私等も、同様の愚人であります。 気付かれたのなら、どうしたら良いのかをお考え下さい。 そもそも、言葉だけが、感謝じゃありませんよ。しゃべれない方だっておられるのですから、言葉を問題にされることは、ある面でそういう人達を蔑ろにされてはおられませんか? 照れとかで、面と向かって言うことへの抵抗がある人もおられます。 それに、感謝されたくて、されたわけではないでしょ。 それなのに、感謝を求められること自体、無理強いであり、感謝の押し売りということでしょう。 本来は、そういう言葉がなくても、いいわけです。 こういうことを問題にされ、自分の優位性を誇る方がおられますが、根本がお分かりになっていないようです。 寛大になられ、しても求めないというのが、いいのではないでしょうか。 コミニュケーションは、欠落するでしょうが、そういうものであります。 如何でしょうか?
お礼
odd-artさん、アドバイスをありがとうございます。 質問文の中で、分析的なご回答をお願いしたのは、こういった類の質問が出ると、必ず >それに、感謝されたくて、されたわけではないでしょ。 それなのに、感謝を求められること自体、無理強いであり、感謝の押し売りということでしょう。 といった類の回答をなさる方がいらっしゃるので、分析的にと限定致しました。 わたしは、この「教えて!goo」では、犯罪や犯罪者を肯定したり、特定の個人を誹謗中傷したり等の、「人としての道」をはずれる質問以外は容認されても良いのではないかと思って居ります。 何故なら、何かを疑問に思い、この場をお借りして人様のご意見を伺ってみようという内容は、当然人によって異なる為です。 わたしは純粋に、「感謝の心をもてない人々が増えたのはどうしてだろう?」と思い、出来れば歴史的背景や心理学的な観点も含め、客観的に考えてみたいと思いました。 アドバイスの文章から、仏教にお詳しい方なのかとお察し致しますが、インターネット上の盲点である、相手がどういった人物かもわからない状況で、 > こういうことを問題にされ、自分の優位性を誇る方がおられますが、根本がお分かりになっていないようです。 寛大になられ、しても求めないというのが、いいのではないでしょうか。 という表現を個人に向けてなさる事は、失礼ながら、それこそodd-artさんの「奢り」なのではないでしょうか? なにを以ってして「根本」と表現なさるのかわかりませんが、「我等」と見ず知らずのodd-artさんと同じレベルで愚人にされてしまったわたしが、「愚人」だからこそ質問文のようなことを疑問に感じるとも言えるのではないでしょうか? わたしも、日々自らの人間としての拙さを感じる毎日を過ごして居ります。 けれど、odd-artさん以外の人々は、odd-atさんがお考えになっていらっしゃる程愚かでもないとも思えます。 >そもそも、言葉だけが、感謝じゃありませんよ。しゃべれない方だっておられるのですから、言葉を問題にされることは、ある面でそういう人達を蔑ろにされてはおられませんか? 照れとかで、面と向かって言うことへの抵抗がある人もおられます。 世の中には色々な人々が存在することは当然のことであり、わたしも、そしてこれまで同じようなご質問をなさったり疑問に思われた方々も、当然言葉だけを求めている訳ではありません。 >コミニュケーションは、欠落するでしょうが、そういうものであります。 何を以ってして「そういうもの」なのか全くわかりませんが、仏教を引用するのは存在としての仏教にとって、甚だ迷惑な事かと思えます。 以上、感じたままにタイプ致しました。 わたし自身が一番望まなかった反論的な文章となってしまいました。 でも、タイプして下さったお時間を費やして下さった事と、こうしてわたしが考えさせられたひとつのご意見を下さった事に対しては、感謝しているんですよ。 合掌
こんにちは、adelaideさん。 「分析的な回答」には程遠いかもしれませんが・・・。 やはり、幼い頃から育ってきた環境、周囲の人間が挨拶をきちんとしていたかどうかで大きく差が出ると思います。私は幸いにも挨拶をとても重んじる両親に育てられましたので(両親に感謝!)それを受け継ぐことができ、また、我が子達にも挨拶の重要性を教えることができました。 我が子のクラスメートでも、家に遊びに来るお子さん達の中で「おじゃまします。」や「ありがとう。」が言えないお子さんの親御さんは、やはりお会いしても挨拶ができない方が大半ですね。他人事とはいえ、大変悲しく思います。挨拶ができる、できないは、各家庭で受け継がれてしまう習慣なのでしょう。 私も、「ありがとう」という言葉、大好きです。adelaideさんのおっしゃる通り、本当に美しいですよね。人と人とのつながりをより良くする、また、そのひとことで人を幸せにすることができてしまう、魔法の言葉だと思います。
お礼
Sweetbeansさん、ご回答をありがとうございました。 環境の存在は大きいですね。 でも、昔は何世代もの家族が一緒に住んでいたり、隣近所との交流が密接だったりして色々な人に囲まれ、そういう基本的な部分が培われる土台があったと思うのです。 でも、果してそれだけで、世間が今日のようになってしまったのか、他に何か要因は無いのだろうかと思い、この質問を立ち上げました。 感謝の心がもてない親に育てられた子供が、誰からもそれを教えられないなんて、可愛そうにも思えます。 感謝の心があるかないかで、人生の彩りが違ってくるとも思えるのですが。
- tweetie
- ベストアンサー率26% (975/3649)
確かにそういう傾向があるように感じます。 今一緒に住んでいる人がいるのですが、そういう関係になると、どちらかが家事をしても結局二人分になったりして、実はお多々概のためにしていることというのが、結構あります。そういうところをおざなりにすると、小さな事かも知れないけどつもりつもって良くない影響になるといけないから、と、どんな小さな事にも「ありがとう」というように心がけ、相手からそれがないときは「ありがとうは?」って注意するようにしています。ビールをついでくれたら「ありがとう」。おそうじしてくれたら「ありがとう」。おつかれさまと言ってくれたら「気にしてくれてありがとう」。 勿論他人にそれを強要することは出来ないけど、普段からそういう注意をしあえるひとが少しでもいれば、他の場面でも自然に「ありがとう」はでてくるものだと思いますけどね。つい忘れがちなことでもあるので、また気を引き締めて、感謝の気持ちを意識して持ちたいと思います。
お礼
tweetieさん、ご回答をありがとうございました。 そうですね、普段からの心がけですね。
お礼
masatoshi-mさん、ご回答をありがとうございました。 12月29日に、さあ、お礼を差し上げようと思ったらフリーズし、そのままの状態で年を越し、今日1月4日になって、日も昇り、やっと溶け出して来て動き始めた・・・という感じです。(わたしは雪だるまか?) 何はともあれ、本年もよろしくおねがいいたします♪ さて、「食生活の貧困化」と「人間関係の希薄化」は、とてもよくわかります。 食生活の貧困化に関しては、昨今の第○次グルメブーム(?)の中で、美味しい物を求める人々を見ていると、日本の将来はどうなってしまうのだろうか?という事まで考えてしまいます。もちろん誰にとっても不味いものよりは美味しいものの方が良いはずですが、美味しいものに慣れてしまって、美味しいものの有難さがわからず、それが当たり前になってしまって、将来何かがあって美味しいものが食べられなくなったら、一体どうなってしまうのだろうかと考える訳です。 だって、食欲は人間の本能の欲の中のひとつだから、想像以上に辛い生活が待っている事になると思うのです。 だから、食べられる事の有難さを感謝し、日頃から「立ち止まって振り返る」ことを習慣にすべきなのではないかと。 人間関係の希薄化に関しては、戦後、長い時間をかけてジワジワと進んで来たように思えるんですよ。住宅事情や都市機能の一極集中化、物価など、希薄とならざるを得ないようなものを感じるのです。だから、これまた時間をかけて適度な距離の人間関係を社会的に築いて行かなければならないのではないかと。見て見ぬふりはいけないなと思います。 だから、見ず知らずの他人でも、悪い時には忠告し、良い時には賞賛のまなざしを向ける・・・などするようにしているつもりです。 でも、masatoshi-mさんのご回答の中で一番「これだ!」と感じたのは、 >妙に合理的な考え方の、社会への浸透 です。 もともと日本って、人間の感性や情がいろいろな事に大きく影響する傾向があって、欧米のような合理性に欠けていたと思うのです。つまり、合理的な考え方の歴史が浅い訳です。 そういう中で、勘違いする人間が多く、合理性や自己の確立など、しっかりとした考えをもつべき分野において、浅はかな考えで感謝の心を忘れた「自己中」が生まれ、それが蔓延しつつあるように思えるのです。 だから、日本の精神文化は軟弱だなぁ・・・とも感じるのです。 でも、もっと何か別の原因があるのではないかとも思えます。