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香港の歴史
今朝の新聞に次ぎのような文が載ってました。 >三カ月前に開園した香港ディズニーランドの踏ん張りに、小欄はひそかに声援を送っている。東京に続くアジアで二つ目のテーマパークだから競争相手ではある。だが、香港紙の酷評と開園のいきさつを考えると、同情を禁じえない。 ▼ともかく香港紙は中国本土客のマナーの悪さをあげつらう。「列に割り込んで喧嘩(けんか)騒ぎが起きている」「歩道で子供におしっこさせている」。だがディズニーのせいではない。「アトラクションは三時間待ち」。それは東京でも人気アトラクションならありうることだ。 ▼面積が「東京ディズニー(51ヘクタール)の半分にも満たない15-19ヘクタール」という記述も、狭い香港では致し方なかろう。「総じて低調だ」との酷評に、ディズニーはリハーサル期間を含めて入園者は百万人を突破したと反撃した。香港紙の酷評は、香港人の中国本土への屈折した意識のなせる業と思うがどうだろう。 ▼香港ディズニーは計画中から政治に揺さぶられた。記憶にあるのは、ウォルト・ディズニー社制作の映画「クンドゥン(存在)」に対する中国政府の言いがかり。映画はチベット仏教の精神的指導者ダライ・ラマ十四世の誕生から、人民解放軍に追われてインドに亡命するまでの悲劇を描いた。 ▼ところが中国は、「公開中止しなければテーマパーク建設を見直す」と揺さぶった。同社は表現の自由と市場喪失のジレンマに陥る。 ▼ディズニーは映画公開を決断する。「夢の創造者」が圧力に屈すれば自殺行為だからだろう。 これを読んだ中学生の甥っ子が 「香港の歴史を教えて欲しい」と言ってきました。 中学生にもわかる「香港の歴史」のサイトをご存じでしたらご紹介ください。
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下記サイトはいかがでしょう アヘン戦争の結果、英国が占領統治し、第二次大戦中日本占領、そして1997年に中国に返還される間の経過がわかりやすく記載されています。 香港の歴史 http://user.komazawa.com/~tessin/kaze/hongkong/htm/his01.htm 香港巡礼協会~香港の歴史 http://hkpa.cside1.jp/history.htm
お礼
回答ありがとうございます。 早速コピーを取って、甥っ子共々読んでみたいと思います。 助かりました。 m(_ _)m
補足
ご紹介頂いたサイトを読んだ後に次ぎのような別の資料が出てきました。 日本と中国・朝鮮の反応 清がイギリスに敗れ、香港を割譲し開国したという情報は、「オランダ風説書(訳文)」を通してわが国(日本)にただちに知らされ、幕末の指導者や知識層に深い衝撃を与えた。しかし、朝鮮では危機意識がうすく、9か月もたってから報告書が提出された。その内容も簡単なものだったので、指導者層も国際情勢の急変に気がつかなかった。戦争に敗れた当の中国人自身も、日本人を驚かせたほどの衝撃は受けなかった。 中国は古代から何度も異民族に侵入されて、その支配を受けることも多かった。しかし、支配する異民族を逆に自国の文明の中に取り込み、同化させてしまう傾向が強かった。現に、清は満州人の支配する国である。 中国人は異民族に支配されることに慣れ、支配されても自分は変わらないという自信をもっていた。 欧米列強の進出という、今度ばかりは問題の質が少し違う重大事にあっても、彼らは同じ姿勢を崩そうとはしなかった。さらに、中国の儒教の教えでは、皇帝が人民を徳で治めるのが正しい統治であるとする徳治主義の考えが強く、武力の卓越を尊ぶのは野蛮であるとみなされがちであった。実際には武力を用いて物事に当たることも多かったが、文官が優位を占める官僚中心のこの国では、建前としては、武官が尊重されなかった。 そのため、イギリスに戦争で敗北しても、徳でなく、武力に敗北したにすぎないと考え、自国の文明に対する自信はゆらがなかった。 そのうちに、欧米列強の圧力はさらに強まったので、清は西洋の軍事技術を取り入れざるをえなくなった。 しかし政治、社会のあり方や文明そのものを見直そうという考え方はまだ、おこらなかった。 見直しが必要だと清が思うようになるのは、のちに日清戦争で日本に敗れてからである。 清は近代国家の建設の仕方を学ぼうとして、大量の留学生を日本に送ってきた。古代の遣唐使とは逆の運動が始まったのである。 ご紹介頂いたサイトと照らし合わせながら読むと、一方に偏らない、歴史の流れがよく理解できますね。 ありがとうございました。