>生態系にはなぜ多様性は必要なのか。
「生態系の多様性」とは何か、少し分かりにくいのです。martinbuho さんは、明らかに、biodiversity(生物多様性)の意味で使っています。エコシステムが地域ごと、環境ごとである、その多様性のことかとも言えますが、「エコシステム」は、全体的には、地球エコシステムになるので、地球生態系の多様性の意味だと理解します。
皮肉な言い方をすると、生態系には、シンプルさと調和性が必要で、多様性は必要とされていないとも言えます。それは、生態系というものは、元々錯綜して多様なもので、むしろ、単純さと調和が実現できるようなシステムになっているということです。人間が人工物質・廃棄物を自然環境・エコシステムにそそぎ込むと、エコシステムは、結果的に単純さや調和を失って、多様なものになるとも言えるのです。しかし、問題は、こういう風にシンプルさや調和性を失って、錯綜した人工的多様性を持つと、エコシスムの変形が起こり、調和の喪失が生まれ、その結果は、従来のエコシステムの崩壊・解体ということです。
しかし、言葉の遊びはやめて、考えると、広義の鉱物・土壌・水・空気等の「自然環境」の多様性と、生物種の多様性、つまり、バイオダイヴァーシティの問題だということになります。「自然環境」の多様性については、これが、生物多様性を支えて言ると言えます。また逆に、生物多様性が、自然環境の多様性を支えているとも言えます。エコシステムとは、こういうシステムになっているのです。
人間は、この地球エコシステムのなかで、調和的な「或る位置」を占めており、人間の存在は、エコシステムに支えられているのです。従って、エコシステムを破壊乃至劣化させる行動は、人間が自分で自分の首を絞めるような結果になるのです。例えば、「水」はたいへん貴重であると共に、地球においては、ほぼ無尽蔵なシステム環境だったのですが、水の汚染により、いまや人間は飲む水がなくなっているともいう事態になっています。
こうすると、エコシステムの劣化をもたらすと、人間の「安全な生存・生活」が維持できなくなるという結果が出てきます。従って、エコシステムは、調和的に、人間がそれに対応していた状態・様態に維持せねばならず、そこから逸脱することは、危険であるとなります。
生態系が変化すること、あるいは環境的多様性が失われることは、生物と地球の歴史から言えば、必ずしも、起こってはならないことではないのです。環境の多様性あるいは、「現様態・現多様性」が必要なのは、人間が生きて行くために必要なのです。人間は、生物的存在であり、社会的存在であり、精神的存在でもあるのです。後者は更に、計算悟性的存在と、叡智・知性的存在の二つに分かれるでしょう。
この地球のエコシステムを破壊しても、地球の元の形とそっくり同じで、開拓可能な惑星が、まだまだ何千もストックとしてあるなら、人間の計算悟性的存在は、地球破壊OKというでしょう。しかし、たとえ、そうであったとしても、叡智・知性的存在としての人間は、NOというでしょう。「存在者としての倫理に反している」というのが、その答えです。
仏教やジャイナ教は、生物の命を妄りに奪ってはならないとしました。生物の命を妄りに奪うと、環境破壊になって、人間が住みづらくなり、ついには生きて行けなくなるからではないでしょう。そういう合理的意味もあったでしょうが、これは、存在者としての、生物の尊厳、更に言えば、世界の存在の尊厳に対する畏怖、存在者=智慧ある人間の倫理としてそうなのです。
もう少しまとめてラフに言いましょう。
1)人間は、生物存在として、生態系の破綻を認めることができない(何故なら、生物としての存在が維持できなくなるからである)。
2)社会存在として、人間の社会は、生態系の破綻で、まわり回って、崩壊するであろう。しかし、社会的存在としての人間は、これを容認する。
3)計算的悟性的存在としての人間は、自己の快適や都合のよさが第一義で、環境や生態系など、幾ら破壊しても構わない。しかし、計算して考えると、将来的に自己の首が締まって来る結果が見える。ディレンマである。だが、将来のことだ、また困るのは、アフリカの黒人などだ、そういうのは早く死んで、地球人口の膨張が減れば喜ばしいことだ。インドや中国も、やばいので、消えて貰おう云々。
4)叡智的知性的人間は、言う。生物の尊厳、存在の尊厳、いま人間が、自己がこの存在世界に存在してあることの驚異、喜びと苦悩。エコシステムのなかで、エコシステムと共に、しかし、それを超越した「精神・叡智」の責任として、共生・共存在の道を進まねばならない。人間の矛盾は、宇宙が課した課題であり、このディレンマが、実は存在世界の「意味」である。
こうして、わたしは答えるのです。人は、ソピアー的倫理的責任において、「叡智ある存在」として、地球エコシステムの存在の尊厳に敬意を表さねばならない。生態系のより豊かな調和を、より豊かなシンプルさを。そしてより、豊かな多様性を。
以上が、生態系に何故、多様性が必要なのかの答えの一つです。この答えには、生態系や環境の破壊も必要だという論理も入っているのです。だから、矛盾であり、ディレンマであり、生物・自然の存在の尊厳であり、そして付け加えれば、「人間の存在の尊厳」なのです。人間は「地球の癌だ」などと言っている人間は愚者であり、かつ、偽善者・偽悪者でしょう。自分が癌なら、早く死ね!(そういう結論になることを述べたのですから。……そもそも、人間もまた、何故か人間として、この存在の世界に存在している以上、生き物の尊厳と言った時、人間も生き物であり、癌だなどと言えば、癌細胞の尊厳も無視しているでしょう。功利主義的発想というのです)。
もう一つ、バイオダイヴァーシティの問題があります。バイオダイヴァーシティというのは簡単に言うと、「種の多様性」というような意味になります。「種の多様性」というのは、別の言い方だと、「遺伝子の多様さ」ということになります。現在の遺伝子の多様さ・種の多様さは、いまから6000万年ぐらい前に大きく変更を受けて、もう一度回復したもので、より豊かになったとも言えます。このバイオダイヴァーシティは、「生物資源」とも呼ばれているぐらいで、これを消費(消滅)させると、復元がきかないものです。バイオダイヴァーシティは何のために必要かというと、1000万年オーダーでの規模での生物界の尊厳にとって重要なのだということになります。その資源としての利用可能性というのは、すでに上で述べたことに含まれているのです。しかし、昆虫の十万種ぐらい滅びても、どうということはない、という発想になります。確かに、それで人類の首が締まって来ることにはなりません。しかし、「種の存在への畏怖・尊厳」というものが、ここでも出てくるのです。「利用可能性」でだけ考えていては、答えがでないでしょう。人が美しい音楽を聞いて感動したり、絵画を見て、衝撃的感動を受けたりすることが貴重な体験であると同じような意味で、バイオダイヴァーシティは貴重なのです。また必要なのです。
>熱帯雨林が減少し、この多様性が失われようとしている。
>どのような問題点が生じてくるのでしょうか??
上で、答えを述べました。人間の生物的生存が不可能になるでしょう。社会では、西欧型の社会など、存続できなくなるでしょう。また、もっと素朴な低エントロピーの社会も存続困難になるでしょう。叡智的・知性的には、存在の尊厳の倫理において、人間として、恥ずべきことでしょう。愚行の記録が一つ増えるのです。しかし、それによって、人類は、更に課題を負うことになるでしょう。人間に智慧や倫理を知れと、宇宙が言っているのかも知れません。
なお、以下のURLは、生態系の多様さという話とは少しずれますが、環境の破壊・劣化を人類の社会が止めることのできない構造のアウトラインを簡単に述べています。この質問の延長に来る問題の現状概略です。
お礼
ありがとうございます☆