- ベストアンサー
ボランティア活動・精神
今日,様々な場面でボランティア活動の奨励が訴えられているような気がしますが,皆さんはボランティアの意義をどうお考えでしょうか? ちなみに,ここでいうボランティアとは,貧しい国へのボランティアです. 私はボランティア活動というものに引けを感じてしまいます.自分の存在自体曖昧なまま生きているのに,人助け?という感じです. こういうと相当ひん曲がった人間に見られても仕方ありません. しかし,ボランティアについて真剣に考えてみると,どうしても人間の存在意義,己の存在意義にたどりついてしまいます. いくら奇麗事を論ったところで,結局は人間自分が一番大切です.ちがうでしょうか.誰しもこういう考え頭の隅に 持っていると思います. 活動に参加する人,応援している人,どういった精神でもって取り組んでいるのですか?ボランティアに対してどういう考えをお持ちでしょうか.是非お聞かせ下さい. 真剣に悩んでいます.詳しく書き込みしたいのですが,長いのでこの辺にしときます. 10代の浅はかな思考に付き合って頂いてありがとうございます.
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
そう考えて立ち止まってしまう気持、わかります。 わたしもkaichan321さんと同じようなことは考えたことがありますが、結局 なんだかんだ言っても、実際に手を動かす人の方がえらい! と思うようになりました。 自己満足する私と、それを受け取って喜ぶ人がいる。両方がハッピー。 それでいいじゃないですか? 私は日本語をおしえるボランティアをしていました。 役に立ちたいというより純粋な興味です。 いろいろな国の人と話してみたかったんです。 そのときは工場で働いている人たちがほとんどだったのですが、その中の一人に自分と話をしたいと思っている日本人がいると思うだけで 心強いしうれしいです、と言われ本当にうれしかったです。 私の授業が役に立ったかは不明です!でもそれでもいいんです。一緒に花火を見たり 料理を作ったりしました。楽しかったです その中に幼少期、難民としてボランティア活動を受ける側にいた、という方がいました。 その方が 豊かな日本の人にいいたい。 あなたたちはとても幸せです。 今の日本人は幸せすぎて不幸ではないことを不幸だ、と言って騒いでいるようにみえます。 この世にはもっともっと不幸な人たちがたくさんいます。どうぞ、その人たちのことを一年に一度くらい、考えてあげてください。 と言っていました。地区センターで行ったクリスマス会でのことでした。 その言葉をきいて自分の悩みがバカみたいにかんじました。 そうだよね、とストンと納得できました。 無理をする必要も全てを投げ出して献身的に奉仕する必要もないと思います。 私は街頭で募金するとき、 盲導犬の数を増やすために、とか 災害に会った人を支援したい、そう思うよりも前に 街角にたって、誰かを助けようと寄付を呼びかける素晴らしい心を持ったこの人をよろこばせたい。 この少年に 大人は冷たい、そんな風に思ってほしくない。 そう思って寄付をしています。 誰かを助けたい。いいことじゃないですか。 いいことをするのに、迷う必要はないですよ!
その他の回答 (7)
- malearth
- ベストアンサー率42% (27/64)
「幸せとは比べられることができるものなのでしょうか。幸せは罪なのでしょうか。幸せは元々どこか、誰かの所有物だったのですか。」 もし・・・本気でボランティアのこと、本気で貧困国のこと考えておられるのであれば、10年後でも20年後でもいいので、あなたが思う貧困国に一回行ってみてください。自分なりの答えが出るかと思います。そして、他の回答者の方々の言っておられる意味もすぐわかるかと思います。 自分がいかに「貴族」の暮らしをしているかがすぐ分かります。自分が人柱の上に座って生活しているのかということも・・・ 度々の回答申し訳ありませんでした。
お礼
いえいえ;ありがとうございます☆他の回答者さん達とは違うタイプの方のようだったので質問してしまいました。
- malearth
- ベストアンサー率42% (27/64)
こんばんは。少し趣旨が違う回答かもしれませんが、お邪魔します。 ボランティアに参加する精神なんて私は考えていません。考える必要もないと思っています。 日本人は幸せすぎるのです。失業率5%超えたって、失業したって、10億円借金抱えたって、日本にいる限り餓死はないのです。 自分の存在意義が不明瞭であっても、死ぬほど悩んでも日本にいる限り死にません。 しかし、貧困国といわれている場所では、自分の存在が確立していても、壮大な夢があっても餓死・病死します。 自分の考えなんて貧困国では通用しないのです。私は自分のことも大事ですが、それ以上に、彼らの気持ちの方が大事です。 日本人の幸せは、貧困国といわれている国から幸せを吸い取った結果だと思います。ボランティアとは、彼らにそれを返しているだけなので、決して与えているわけではありません。それを返すことは先進国に生まれた人間としての義務だと思っています。 もし、地獄というものがあったら、幸せすぎる我々先進国の人々は全員地獄行きかな、と最近思っています。 最後に。No.4さんの回答は素晴らしいと思います。私も同じ考えです。
お礼
幸せとは比べられることができるものなのでしょうか。幸せは罪なのでしょうか。幸せは元々どこか、誰かの所有物だったのですか。 ここら辺の価値観は難しいですね。
- utano-nanaho
- ベストアンサー率30% (6/20)
貧しい国へのボランティアではないですが、 大地震のときなど、ときたま義援金なるものを送金しています。 ポリシーは2つ。 必ず現地対策本部に送る、金額は一定ということです。 現地対策本部に送るというのは、まさに現場であるからです。本部の方にしてみれば、わずかな金額のために処理が必要なので、却って迷惑と思われているかもしれません。その程度の額です。 一定というのは、災害の規模に応じて金額を増減する、というのはおかしいと思っているからです。 余計なことをぐだぐだ書きましたが、動機というのは、 「自分はそのうちに、いま財布にあるこの金を使ってしまうだろう。それもどうせカフェや必需品とは思えないものに使ってしまうに違いない。だったら送金して、使ってもらおう。」 ということだと自分では思っております。 この時点では、 自分は将来のために貯金しなければならない、「身銭を切って」ということばが言える立場ではない。 という意識は持ってないと思います。 ややこしくなりましたが、 実際にボランティアをするときには、自分のことは考えていないんだと思います。ある種の衝動であるかもしれません。 ただ、いろいろな面で余裕がなくなってきて、その衝動が起こらなくなったとき・行動を起こす余裕がなくなった時に、 「ボランティアって何だ?」ということを考えるのではないでしょうか。
お礼
衝動的なものですか!!!それは何だかわかるようなきがします!! そういう考えもあるのかと刺激を受けました。 ありがとうございます☆
- milk-pudding
- ベストアンサー率25% (33/127)
こんにちは。 31才の♀会社員です。 高校の時は奉仕活動(街頭募金・バザー・慰問・公共機関の清掃など)の 部活をしていました。 今は30才をきっかけに、ある団体に月々定額の金額を寄付を(貧困と言われる国へ)続けています。 >結局は人間自分が一番大切です。ちがうでしょうか。 いいえ、違いません。 私も自分が一番大切です。 もし私がこうしてPCの前に座るどころか、住む所もなく毎日の食事も摂れず、 病院にもかかれない状況であれば 少額とは言え、他国に送金なんて考えはしなかったでしょう。 でも今私は定職にも就き、贅沢さえしなければ衣食住に困る事も無く、 趣味や自分の生活を楽しんでいます。 書籍やネットからも多大な情報(知識)を得る事も出来ます。 それは質問者さんも同じだと思いますが、いかがでしょうか。 >どういった精神でもって取り組んでいるのですか? >ボランティアに対してどういう考えをお持ちでしょうか。 ボランティアについて、特に構えたり難く考えたりする事はありませんでした。 気付いたら、自然に「や~ろう!」って感じです。 他の、エレクトーン習おう、外国語習おう、教習所に行こうって感覚と大差ないんですね。 確かに高校時代は仲の良くないグループからは 「いい子ぶって」「所詮自己マンやん」と言われた事もあります。 でも「だから?いい子結構、自己マン結構!理由をつけて動かない人間よりはマシ」と 思っていたんで平気でした。 まぁ、そう思う人達もいるんだろうな、位です。 実際に援助を受ける側の人達は、「食糧が欲しい」「病院に行きたい」「教育を受けたい」願いは切実で それが自己満足込みの善意だろうが、100%の善意だろうが、 そこに違いを見出すのは意味がないかな、と。 自己マンの「おまけ」でも、実際助かる・喜んでくれる人達がいるのなら、それはそれでいいやん。 私はやりたいから、やる。 興味があるから、やる。ただそれだけ。 そう思いながら、毎月送金してます。 >10代の浅はかな思考に付き合って頂いてありがとうございます。 「浅はか」「全く興味がない」人は、きっと問題意識さえも持たないと思いますよ。 まして掲示板に投稿する事も・・・勇気が要った事でしょう。 質問者さんにもし「やってみたい気持ち」が少しでもあれば、あまり考えずに やってみるのもいいかもしれませんね。 その後に新しい発見や、また違った見方が出て来るかもしれませんよ。
お礼
>>理由をつけて動かない人間よりはマシ やはり動く人間のほうがマシということでしょうかねぇ… >>実際に援助を受ける側の人達は、「食糧が欲しい」「病院に行きたい」「教育を受けたい」願いは切実で それが自己満足込みの善意だろうが、100%の善意だろうが、 そこに違いを見出すのは意味がないかな それは私もわかっています(^^)本当ですよね 偽善であっても受ける当人がそう取らなければ偽善ではないのですから。 私は洋服などを贈ったり、勿論募金も…自分で稼いだお金で活動に参加したいと思ってます 回答ありがとうございました☆とても参考になりました。
- chic30
- ベストアンサー率14% (9/61)
過去にサークル活動でボランティアをしていました。 身近なところから始めようということで、活動は貧しい国限定ではなかったのですが、貧しい国の人のために古着を送るという活動(キャンペーン?適切な言葉が浮かばない)に参加しました。 着なくなった・着られなくなった(大きさや柄の点で)古着ということで、母の昔の服を中心に何枚か送りました。 最近読んだマンガ『永遠の誘惑』で、「いらないものを人にあげるんじゃなくて、人にあげるのが惜しいものこそあげるべきなんだよ」という言葉に感銘を受けました。 と同時に、果たしてあの古着は送って良かったのだろうかと疑問に思いました。 もちろん送る際に下着はダメ、汚れがひどいものはダメ、などいくつか制限はあり、送金料は自己負担でしたが、中にはブランドものがあったとはいえ、趣味や大きさを理由に自分が着ないものを送るのは、単なる処分にすぎなかったのかなという気もします。 リサイクルという考え方もありますが、相手の好みが分からずに送ったものが本当に喜ばれるのかどうか、と考えさせられます。 貧しい国の方にとっては着る衣類さえなくて、柄を選んでいる余裕がない方もいっぱいいらっしゃると思います。 そのキャンペーンは「家で眠っている古着を」ということでしたが、その主旨がいいかどうか悩みます。 ボランティアが人のためではなく、自分のためになっているのではないか、自己満足に過ぎるのではないか、と思うことも多々あります。 ですが、誰かのためをしてやったことが、その人に喜ばれ、自分もそのことに喜びを感じるのはいいことだと思います。 ホスピタリティーという精神はそこにあるような気がします。 色々真剣にボランティアについて悩む気持ちは大切だと思いますが、その気持ちを実際に行動に移さないと、伝わるものも伝わらないと思います。 ボランティア・奉仕活動という名前に縛られず、自分にできる身近なことが人のためになる、という気持ちでやってみたらいかがでしょうか。 ボランティアについては一時的に考えるのではなく、ずっと考えていかなければならないテーマだと思います。
お礼
人にあげるのが惜しいものこそあげるべきなんだよ >>何故ですか??chic30さんはその言葉をどうとりましたか??この二つはどう違うのでしょう… 伝わるものも伝わらないと… >>伝えるものとは何でしょうか??そもそも何か伝えるものがあって行動するのでしょうか。 何だかしつこくて御免なさい”私はボランティアに対して批判は少しも持っていません。あくまでも意義を知りたいのです(^^)回答ありがとうございました
- ni2
- ベストアンサー率9% (184/1856)
私が今しているボランティアは献血と定期的に赤十字やボランティア団体に寄付です。売名行為のためにボランティアをする人も少なくないそうですが、上から与えるという行動ではなく同じ立場で協力するということが望ましいと聞いたことがあります。また、現在貧困国がどうして貧困の状態であるのかという事実を知ることも大切だと思います。現実を知ってショックを受けるかもしれませんが、ボランティアに対する考え方も良い意味で変化すると思います。「マザー・テレサ―あふれる愛 」や「マザーテレサ愛のことば」などを読んで頂いて、何か答えが見つかりますように願います。
お礼
回答ありがとうございます☆ 貧困については調べてからここにきました。 ふまえたうえで“意義”について考えてみたっかたんです。
- les-min
- ベストアンサー率41% (269/644)
こんにちは。。 自分は、貧困国については、3つほどの団体に定期的に送金していたり、会員になっていたりするだけで、体を動かして活動しているわけではないのですが、お邪魔します。 自分は、自分の行いを「偽善」と「自己満足」だと考えています。それでも送金を続けています。 ある団体では、自分が送ったお金で、ワクチン接種ができたり、出産に際して衛生的な道具を使えたりするらしいです。 しかしここで自分は考え込みます。子供が一人無事に生まれたとして、その子にきちんと成長に必要な食べ物が回っていくのだろうか、食べ物が食べられたとして、十分な教育を受けられるのだろうか、教育を受けられたとして、技能や知識を生かせる仕事があるのだろうか、不当な搾取を受けないのだろうか、民族紛争にに巻き込まれないだろうか、あるいはその子は兵士になって人を殺しはしないだろうか・・・そして貧困国の人々がみんな生きて消費活動を始めれば、世界は体制を維持できるだろうか・・・ 人を助けること、これは実に重いことだと思います。ひと一人でも「助け尽くす」ことはとうてい無理だと感じます。それができなければ、意味がないとは思うのですけど・・・ご存知かとは思いますが、極貧の国では、本当に何もない状態で人は生まれ、何も得られないままバタバタと死んでいきます。生きるチャンスを与えるから、あとは自分達でどうにかしろと言える状況とは、とても思えません。 自分はたいそうな思想もなく、主義を持っているわけでもありません。送金が自分の小ささ、傲慢さ、不実さに想いを巡らし、自戒するための儀式みたいになっていて、結局、自分のことであり、自分のことしか考えてはいないわけです。 まぁ、送金で「生きるチャンス」を得られる人がいるなら、それはそれで良しとしなければならないかとも思っています。その人がその後すぐ餓死しようと、将来生き延びた運命を呪おうと、非業の最期を迎えようと、自分は良かれと思ってやったのだ、と。(まさに「偽善」「自己満足」そのものですね。) 送金するとき、した後、いつも考えます。そして自分がどうしようもない人間だな、と感じます。 ご質問の文面からは、具体的に活動されているのか、いないのかがわからなかったのですが、とにかく活動しながらお考えになれば?と思いましたが・・・ 目の前で困り果てている人がいて、それが自分に手助けできることなら、助けてあげようと思いませんか?「人助け」それ自体は、そういうものだと思いますけど。 貧困国の問題は、正直一人の人間の手にはあまる問題だと思いますね。 自分も少々物事をややこしく(しかも斜めから)見る方だと思いますが、そういうときには戦争映画の一場面を思い浮かべます。イヤも応もなく、理屈も段取りもなく「ゴゥ ムーヴ!(いけーッ)」の一言で飛び出さなければならない戦場の場面。 ごちゃごちゃ考えていても仕方がない、とにかく自分にできることをしよう、自分には出し惜しむほどの金も才能もないじゃないか!!考え込むなんてことは頭で物事を解決できる人がするべきことなんだ!と自分自身に「GO」とハッパをかけています。 いい年して、たいしたこと書けませんでしたが。こんなところです。では。
お礼
早速の回答ありがとうございます. 私が目指している大学は活動がとても盛んなところでして,食わずぎらいをする前に(?)ボランティア精神についてきいてみたっかたのです. ちゃんと考えていらっしゃる方なんだなという印象を受けました. 考えが深まりました. こんなに丁寧に,しかも筋道の通った回答をもらっといて 短いお礼の言葉で申し訳ないのですが(笑) とても感謝しています. ありがとうございました☆
お礼
ほんとですね!!!!!今何かモヤモヤが吹き飛びました。 imanaさんって素敵な方ですっ☆いい言葉思いつかないのですが…ありがとうございます!!