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人の過去の過ちは、その人の未来、またはその人の周りにいる人の未来に影響しますか?
カテゴリーがわからなかったのですが、ここのカテゴリーで学問的宗教的なことに偏り過ぎない意見がほしいです。 小さいころよく、親とかから「人に意地悪したら自分に帰ってくるんだからね、意地悪しちゃだめよ」ということを言われたと思います。 日本的?、仏教的?考え方に基づくと思うのですが、本当に自分のした悪いことが自分に帰ってきますか。または、自分を通して、自分の周りの人にまで悪い影響を与えますか。 たとえば、不幸な家庭に生まれた人は前世で悪いことをしたのが帰ってきたのですか。 たとえば、過去に悪いことをした人が、今は改心してとてもいい人だけれど、貧乏で持病があり、医者にはいけず毎日痛みと戦う、というのは過去の過ちが帰ってきているのですか。 たとえば、その人物が素敵な人と出会い、婚約しようとした矢先に、婚約者の父親が入院というのは、その人物の「悪」が周りの人にも影響しているのですか。 この人と、この人の周りの人は幸せになれますか。
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>小さいころよく、親とかから「人に意地悪したら自分に帰ってくるんだからね、意地悪しちゃだめよ」と >いうことを言われたと思います。 まず、ものごとの意味ということからお話します。 この世に起こる出来事に、「良い 悪い」の評価を加えるのは人の「思考」です。 メシを喰っていたら、突然箸が折れた。 これは「良いこと」でも「悪い」ことでもないです。 事実として「困る」ことですが、代わりの箸を探して喰えばすむことです。 それを情緒で (1)良くないこと ましてや (2)不幸の兆候 などと、意識の傾向として受け止めると、人はその「事柄」に 自分で意味を与えていることになります。 よく考えればわかることですが、事件というのは一度に全部起こるもので なく、観測者の意識にあわせて成長するものなのです。 いささか唯識論的な世界観に偏った見方ですが・・・使える思考方法だと思うので ご紹介します。 上記の「人に意地悪」というのは、まさに自分の行動を『悪意』のなかで行う わけで、事件や事象や人からの行為を「悪意で評価」する以上に 自分の意識に与える影響は大きいでしょうね。 たとえば、交通事故。 日本で何万件と起こっている事故でも、人の起こした事故は忘れてしまうし 自分が被害者になった自己でさえも、軽症で済めば、いつか忘れるけど 自分が起こした事故はなかなか忘れないでしょう。 他人が犯した犯罪はすぐに忘れるけど、自分が犯した犯罪は忘れることは できないでしょう。 なぜか・・・つまり、自分の行動というのはなにより「自分」が記憶している ということです。 歩道で相手と肩がぶつかる。 「何だコノヤロー。どこ向いて歩いていやがんだ。」 相手が息巻いて怒鳴る。 「お前がぶつかってきたんじゃないか。何因縁つけてんだよ」 「文句あんのかコノヤロー」 「ちょっと来いよ」 「やる気か てめぇ」 なんて状況になって、誰が諌めて終わっても、それから数分興奮がさめ やらない。 でも 「何だコノヤロー。どこ向いて歩いていやがんだ。」 相手が息巻いて怒鳴る。 「すみません。うっかりしてました」 あなたが謝れば 「気をつけろ!この馬鹿」 で相手は立ち去る。 いやな奴だな・・そう思っても不快な気分は1分も続かないでしょう。 不快になるのは、自分が不快な気分を受け入れるから不快になるのです。 恋人の部屋であなたは帰宅を待っています。 でも、11時をすぎても帰ってきません。 携帯にかけても圏外です。 ここで、不安な気持ちで (1)恋人の不貞を想像する (2)恋人が事故にあったのでは?と不安になる (3)まぁ、どこかで飲み歩いて友達と話し込んでいるのではと気長に待つ。 あるいは (4)とりあえず家に帰って、今日は寝る。 というのでは、その後の展開は変わってきます。 一番平和なのは(4)ですが、なかなか人は(4)という選択をする勇気がもてません。 勇気というより不安に駆られれ不安を見届ける方向へ自分を導きます。 >日本的?、仏教的?考え方に基づくと思うのですが、本当に自分のした悪いことが自分に帰ってきますか。 自分のした悪いことというのは、さきほどの説明でもお分かりのように誰でもない自分が 鮮明に記憶するものだということです。 罪の意識がないにしろ、そこで「意地悪い行為」をしたという記憶は、他の「いいことをした」 「わるいことをされた」記憶より強く心に残ります。 仏教とか日本とかに限らず、悪行や業という観念は、あらゆる民族の土着宗教に共通してあります。 神という「意識の蓄積場所」みたいなところからみたら、悪意の意識は記憶にとどまる・・・それを 言っていない宗教はないくらいです。 >または、自分を通して、自分の周りの人にまで悪い影響を与えますか。 それは、自分が過去の悪徳の「記憶」に左右される傾向があれば、その周囲の人も影響を受けることに なるという意味です。 「善人なおもて往生す。いわんや悪人おや」 親鸞の言葉ですが、善人でさえも往生(つまり悪業のすくない人でも悪業を忘れて、極楽にいくわけで 悪業に苦しんだ悪人が、悪業の報いを受けて魂の浄化を得たならば必ず救いはある そういっているわけです。 言い換えれば、過去の悪徳の記憶にそれだけ左右されやすい人間だからこそ、何かの形で 悔いることで、「悪業の恐怖心」から開放されるだろうということです。 人間が生きていくことは、なんだがハンドルがフラフラしてる車をブレーキもアクセルも定まらずに 運転しているような気分のものです。 一寸先は闇 そう思えば怖気づいて何もできなくなります。 小悪党は、弱いものを苛めて搾取し弱いものを働かせて人を騙して世渡りをしていきます。 本当の悪党は、大仕掛けで人を騙し、世の中を欺いて自分だけが豊かに欲望を満たして 生きていくでしょう。 でも、私思うのはどんな人でも、不安にならない人はいないと思うのです。 病気の不安 災害の不安 突然の不況 内部告発 人の裏切り etc >たとえば、不幸な家庭に生まれた人は前世で悪いことをしたのが帰ってきたのですか。 そう考えないほうがいいでしょう。 いろんな説明があるでしょうし、納得いく説明はひとつではないです。 他人がどう考えようと・・実はその「不幸な人生」を生きる本人がどう受け止めるか以上には 重要ではありません。 ですから、質問者さまが、そういう不幸な家庭にお生まれになってご自身でどう考えるか が需要です。 そこで、明るく生きるか無気力で生きるか先祖を恨むか とにかく生き方が別れますよね。 私はこう考えます。 人は、自分の親とか家庭環境を選択して生まれてきた そう考えたほうが、より力強くなれます。 たとえば、身障者などハンディキャップを背負った人々 昔は、「親の因果が子に報い」などととんでもない説明をする馬鹿がいますが 確かに遺伝や、先天的資質はありますが 実はそういうハンディキャップを、本人が生前に選んで、生まれた勇気ある人々 なのだと、我々が見ることで、我々はハンディキャップのある人の生き方を通じて 自分自身励まされ勇気付けられるのを感じます。 10年前の阪神淡路大震災では、千人を超える人が亡くなったわけです。 被災者の皆様は、まこと理不尽な災害にお遭いになったわけです。 これは、べつにあの地域の方々が何か特別な因果でこうなったわけではないで しょう。 同様に、恋人に突然ふられた人。これだって晴天の霹靂。なんでしらないうちに 新しい恋人とつきあっていたの? とにかく、知らないうちに天井から何かが落ちてくるような不幸は否定できないです。 >たとえば、過去に悪いことをした人が、今は改心してとてもいい人だけれど、 >貧乏で持病があり、医者にはいけず毎日痛みと戦う、というのは過去の過ちが >帰ってきているのですか。 そうではないでしょう。改心しようがしまいが、自分の中の健康に対する不安や 不安の要因になっている不養生不摂生や先天的要素が起こす自覚症状が 無意識の不安を成長させ病気に至らしめるのでしょう。 過去の悪業が虫歯菌みたいなものに形を変えて身体を蝕むわけではないです。 しいていえば「不安」これが毒素に変わって身体を蝕むことはあるでしょう。 胃潰瘍なんてその典型的なものです。 >たとえば、その人物が素敵な人と出会い、婚約しようとした矢先に、 >婚約者の父親が入院というのは、その人物の「悪」が周りの人にも影響しているのですか。 それは、無意味なこじつけというものでしょう。 婚約者のお父様はお酒を飲みすぎて肝臓を悪くされたのかもしれないし、働きすぎで 身体を壊したのかもしれません。それこそ、おとうさま自身が昔悪行の数々を なしてきた結果なのかもしれませんしこれは詳しく聞いてみないとわかりません。 どう考えようと自由ですが、勝手な想像はあくまで勝手な想像。 >この人と、この人の周りの人は幸せになれますか。 それは、その人と周りの人(あなた?)の気の持ちようでしょう。 過去にとらわれず自身をもって明るい方向を目指して生きていけたらいいわけです。 ところで、その人過去に何をやったんですかね? どんなに悪夢にうなされるようなことをやっていたとしても、改心した過程のなかで それなりに自分で惧れをぬぐいさるような試練を経過していなと、どこかに 怯えや不安や怖れが残っているかもしれません。 順風満帆というのが一番いいのですが、人は順調で文句なしというときほど 不安に襲われやすいのです 不幸は不安な心が呼び込む それが私の持論です。 人間は人生のハンドルとアクセルとブレーキを自分でコントロールできるのです。 それを忘れたとき、人は道を転落し不幸の谷底に落ち込むのかもしれません。
- mintmiko
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>>その物事がそこにあって、原因は何であれ、あったにせよなかったにせよ、そこにあっておこっているって私は思います。 >物事には常に原因があるってことですか? 私はどんな些細なことでも物事には必ず原因があると思うんです。 婚約者の父親は、彼の喫煙による癌で入院しています。相手が持病で苦しみ、父親が入院して、婚約者(または婚約者の家族)は悪いことをしていないのに、周りの人間によって悲しませられる、苦労を強いられるというのはどういうことが原因でおこっているのかと考えています。 私は、その原因を知る必要はないと思います。 その原因をどうしてもしらないといけないときはあるかもしれないけれど、しらなくてもいいときもあります。 原因をしらなくても、起こった事象にに対処をきちんとすれば幸せになれるものだと思います。 人はどんな状況でも、幸せを感じられるものだと私は思います。それは心のもちようです。 この状況がある。私は何も悪くないはずなのに? いや何か原因があるはずだ、何が原因だったのだろう? 苦しみを感じていても、その中でも幸せを感じられるものだと私は思います。 その原因がわかってその原因を取り除くことで問題が解決するのであればいいですけれど、そうでなければその原因を調べることに懸命になる必要はないと思います。 ものごとには、それにいたる時間があり、歴史があります。それは、昔の歴史が関係するものもあり、関係が全くないものもあります。 相反する状態が常に存在するのが、自然なのだとおもっています。 ただ、そこで自分がどうとらえたり考えたりするのかだと思います。関係するもの(原因)ばかりに目を向けるのか。それとも、相対的に、総体的にみるのか、ということだと思います。 だから、たとえ影響があっても、なくても幸せになることは心のもちようだと私は思います。 幸せになれるのではなくて、幸せになる努力をすることだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 お礼が遅くなりまして申し訳ありません。
- katyan
- ベストアンサー率9% (201/2029)
人には波があります よい時や悪いときが、悪いときに何を考えて生きていくのか?ここが問題じゃないかな (1)考えても無駄なこと (2)自分のどこがかいたらないとき、など 成功している人は悪いときの乗り越え方を知っている人ですね。 それと過去と未来はまったく関係ありません。 そして幸せというのは自分の心の問題ですね いくらお金があっても幸せがないひともいますし 逆にお金がなくても幸せな人もいます。 例のことを書きますと婚約者と親父にはまったく関係ないですね。たまたま同じ時に重なっただけです
お礼
回答ありがとうございます。 >そして幸せというのは自分の心の問題ですね そうですね。 気の持ちようって、簡単なようで難しいんですね。
- Yatobi
- ベストアンサー率42% (120/285)
#5です。 すみません、例に挙げられた義父になる方の疾病に、tomomo_005さんが不安になられてる部分に配慮してませんでした。 「悪い事(不幸)を呼び込んでる」というのは、神秘主義的な吸引力が在ると言うのではなく、当人が「不幸を気にし過ぎて、余計に精神的なダメージを食らってる状態(そんな疲れた精神状態では、失敗も増え、更に余計な不幸を発生させやすくもなる)」を指して斯様に表現しました。 小生の見解としては、義父になる方が疾病で入院されるという事は、表現が悪くて恐縮なのですが、単なる偶然(悪くても「子供が結婚できそうなので、気が緩んでつい…」というパターン?)に過ぎないのではないか…と思う次第です。 客観的に婚約と疾病に因果関係なんかありませんし、まして子が結婚を考える年ともなれば、親だって体の不調が彼方此方出てくる・病気や怪我に対する抵抗力も落ちてくる年齢でしょうし。 人間には想像力があり、関連性を推察する知能がありますが、それを何でもかんでもくっつけて、殊更コトを大きくしてしまう悪癖がある生き物だと思ってます。 で、心に内在するイメージに合致する現象だけをしつこく憶えてしまう悪癖もある。 故に「自分は不幸になるぞ」と自ら思い込んでいる人は、例えば茶碗を落として割ろうが、一昨日の夕食の残りを食べてアタろうが、運命の所為にして不幸な目に遭った事を思い悩む訳で。 小生にしてみれば「茶碗を落として割った」というのは、単なる偶発的な事故に過ぎないし、一昨日の残り物(傷んでた食品)でアタったのは必然だと思うのですが、悲観的運命論者に至っては、それが不幸な運命の兆候だと思うだろうし? そんな悲観的運命論者は、小さな不幸に精神的ダメージを食らうだろうし、それをいつまでもクヨクヨ気に病むだろうし、気に病んで注意力散漫になるだろうし、注意力散漫だから事故を起こすだろうし…で、これを指して「悪い事(不幸)を呼び込んでる」と表現した次第です。 気に病む前に、常に「よくない事=不幸」が起きないように注意する事で、少なくとも不注意から来る不幸は防げると思います。 流石に偶発的な・他要素に絡む現象までは予防しきれませんが、少なくとも不注意から来る不幸を被らない…故に「不注意から来る不幸までもを被ってた時よりは、相対的に幸せ」と言う次第で。 相変わらずの長文ですみません…ご容赦くださいませ。
お礼
ありがとうございます。 なにか、だんだんとすっきりしてきました。 >「悪い事(不幸)を呼び込んでる」というのは、神秘主義的な吸引力が在ると言うのではなく、当人が「不幸を気にし過ぎて、余計に精神的なダメージを食らってる状態(そんな疲れた精神状態では、失敗も増え、更に余計な不幸を発生させやすくもなる)」 最近は仕事にも集中できず、小さなミスが多いです。 これではだめだと思い、集中力減退の原因を考えるようになって、この質問をしました。もしかして過去の過ちからは逃れられずに、本人におこる苦痛なら時々は愚痴をこぼしながらも一生背負う覚悟をしようと思っても、それが回りにまでおよぶものであったならば。。。 どなたかも言ってましたが、すべてを因果応報に収めてしまうのは不幸せの要素を取り除くことにはならないと思いました。 幸せになりたくて、努力をするのであれば、現状が必然であるか、偶然であるかはあまり関係ないのかもしれませんね。
- boukennsya
- ベストアンサー率24% (50/204)
私は、良くも悪くも、その人らしい人生を送ってしまうんだと思います。つまり、いつも心の中に不幸を抱え込んで生きている人はやっぱり不幸な人生行路をたどりがちであると。また、人を陥れた人が、陥れられるというのも、確かに因果応報ですが、考えてみれば、陥れるという発想をする人は、そういう世界にすんでいるんですよ。だから陥れられるのも、その人らしい生き方ではあるのです。 で、普通の人間はなんとなく翻弄されて人生を過ごし終えていくんですよね。でも、たまにハタと、「俺はこれでいいのか?」と気づくときがあります。自分の人生そのものを思い返すような。それで良くも悪くも翻弄される生き方から脱出して、主体的に人生をコントロールできないものかと考えることがあります。そう考えて、座禅くんだりするんでしょうね。 私がそう思ったのは、悪夢を見たときですね。夢の中で恐ろしい目にあっているのですが、その最中はひたすら恐れおののき苦しんでいるんです。で、夢から覚めたとき、はっとしたのです。人生そのものが、夢みたいなもんじゃないかと。モノを考えて生きているつもりだったけど、実は非常に盲目的愚かに翻弄されているだけなんじゃないかと。 生きていれば、いろいろなアクシデントがありますが、重要なのは、悲嘆することではなく、なぜこういう事態に自分は直面しているのかという、その原因をさぐり、不幸の仕組みを見抜くことですね。家庭の不幸が必ずしも自分の不幸にならない方法はあるはずなのです。また、婚約者のお父さんの入院のように 「これは完全に偶然である」ということを見抜くことも大切です。因果関係のないものに因縁を求めることで、自ら不幸をつくることもあるからです。お父さんが入院した場合、まず、お医者の説明や治療プロセス、入院にかかる諸経費や手続きなどを粛々と進めていくことが重要で、ここがスムーズだと不幸は最小限ん押さえられるのです。しかし、因縁に恐れると、こういう具体的なことが出来なくなります。そして不幸を拡大再生産するのです。 幸せになれるかどうかは、ひとえに賢明さにかかっています。賢明ではないので因縁に脚を救われるのです。
お礼
回答ありがとうございます。 >重要なのは、悲嘆することではなく、なぜこういう事態に自分は直面しているのかという、その原因をさぐり、不幸の仕組みを見抜くことですね。 不幸の原因を知り、不幸を最小限に抑えることが幸せにつながるということですか? 悲嘆するのはよくないと、感覚ではわかるのですが、いまいち論理的に納得できずに、ついつい僻みっぽくなります。 >心の中に不幸を抱え込んで生きている人はやっぱり不幸な人生行路をたどりがちである というのもなんとなくわかるのですが、何か具体てきな話はありますか?
- mintmiko
- ベストアンサー率21% (128/605)
私は、少なからず因果応報というものはあると思います。 でも、現実は、それだけではないとも思います。 例えば、その婚約者さんの父親が入院したこと。 もしかしたら、その婚約者さんがストレスを少しは与えていたかもしれない。それも、病気になった原因の一つかもしれない。でも、そのお父さん自身が、検診等の自己管理を怠ったのかもしれない。 そうしたら、全てがすべてその人が原因なんてことはないし、逆に、たとえストレスを与えても病気にならない人もいるし、検診等自己管理を怠っていても病気にならない人もいる。 人の体質も、遺伝しているものだからそれも確かに因果応報の中に組み込まれているのかもしれないですけれど、でも、その遺伝だって、何通りもあるもので、その確立たるやすごいものです。 その物事がそこにあって、原因は何であれ、あったにせよなかったにせよ、そこにあっておこっているって私は思います。 所業無常というのも仏教できな考えかもしれないですけれど、形あるものは壊れるのが自然だし、幸せになるも慣れないもどういう状況になったら幸せ、不幸ではなくて、どういう状況にしたら、もしくは、する努力をしたら幸せになれるかだと思います。 どうなるか?じゃなくて、どうするかだと思います。 そして、たとえ回りによくもわるくも影響したところでそれは自然なことだと思うし、深く考える必要のあることでもないと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 >どうなるか?じゃなくて、どうするかだと思います。 どこかで聞いたのですが、どうなるか?ばかり心配していたら出来るはずのことも出来なくなってしまう。 そうではなく、どうしたいのかを常に考えれば、自然と道(どうするか)は開けると。 >その物事がそこにあって、原因は何であれ、あったにせよなかったにせよ、そこにあっておこっているって私は思います。 物事には常に原因があるってことですか? 私はどんな些細なことでも物事には必ず原因があると思うんです。 婚約者の父親は、彼の喫煙による癌で入院しています。相手が持病で苦しみ、父親が入院して、婚約者(または婚約者の家族)は悪いことをしていないのに、周りの人間によって悲しませられる、苦労を強いられるというのはどういうことが原因でおこっているのかと考えています。
- popo_okweb
- ベストアンサー率25% (1/4)
6です。 婚約者の方について。 私は、婚約する(結婚する)ということは、お互いにお互いの過去を 一緒に背負うことだと考えます。 「背負う」というと重い感じだけど、それぞれが別々に持っていた荷物を ひとまとめにして一緒に持つみたいな感じというか。 婚約者が何らかの持病をもっているのだとすれば、 その持病も自分のものとするということでしょうか。 ただ、いま起こっている悪いことを、 すべて自分や婚約者の過去の行動のせいにすることはないと思います。 詳しい事情はわかりませんが、お父さんの入院は偶然のような気がします。 もし仮に、過去に悪いことをしたせいで いま悪いことが起こっているのだとしても、 過去の過ちを消せるわけではないのだから、 反省はしても、クヨクヨしててはいけないと思います。 事情がわからないだけに的外れかもしれませんが、 婚約者の方は、きっと一緒に荷物を持って歩いてくれると思います。
お礼
再びありがとうございます。 >過去の過ちを消せるわけではないのだから、 反省はしても、クヨクヨしててはいけないと思います。 ですよね。後ろを向いて歩いていても、足元取られることが多くなるだけですよね。大事なのは反省と実行と思います。
- popo_okweb
- ベストアンサー率25% (1/4)
自分や前世のした悪いことが、 将来的に自分や周りの人に必ず返ってくるかどうかはわかりませんが、 現時点の自分は過去の自分(前世は別)の努力やら何やらとが つくっているものだと思います。 なので、いま自分が努力しているか怠けているか 人に良いことをしているか意地悪をするかという事実が 未来の自分をつくっているというのは同じことだと思います。
お礼
回答ありがとうございます。 補足をお願いしたいのですが、たとえば、質問の婚約者の場合はどう思われますか? 婚約者にも過去に怠けがあったのでしょうか。だから、自分に直接悪いことが回ってこなくても、合い方が持病に苦しみ、父親が入院ということになっているのでしょうか。 婚約者は因果応報的な考え方を持っていて、日々正しく生きようと努力してきた人です。 皆さんすいません。ついついお礼が愚痴っぽかったり、僻みっぽかったりします。 回答ありがとうございました。
- Yatobi
- ベストアンサー率42% (120/285)
因果応報って一般に宗教用語だと思われてますが、小生としては立派に社会心理学用語だと思ってます。 悪さをすれば自分に返る。 人が社会で生活する上で、アタリマエなんじゃないですか? 悪さをして回る人間にまで親切にする人なんて稀です。 そんな奴は、大概の人は相手になんかしやしません。 結果、悪さをして回るような奴は社会から阻害され迫害され、やがてはダメ人生。 当然至極の結末だと思います。 ただ、悪さをしても反省して改善したり、失敗してもそれを自分で責任を取って改善する。 これをやっていった人間は、例え遠回りでも廻りの人から信用され、大事にされ、幾らでも良い人生が送れるれるとも思います。 いずれにせよ、何をするにせよ、その行動によって周りの人が自分に対する態度・扱いを変えてくる以上、ちゃんとした行動を積み重ねるしか無いんじゃないかと。 ついでに云うと、外面が良いだけの狡すっからい奴の場合は、世の中アホばかりじゃないんだし、それこそ立派な人を前にしたときに軽く見透かされ、信用されずに大事な事も任してもらえずに、大して重要視されない人間用の仕事しか回してもらえないんじゃないですかね。 前世や来世に関しては知りません。 立証できないだけに、無視しても良いファクターだと思っています。 不幸な生い立ちだといっても、一生不幸だと決定されてる訳で無し、その不幸な生い立ちにメゲずに立派に生きてれば、死ぬまで不幸だなんてコトも無いかと。 メゲて悪さして回れば、一生不幸でしょうけど。 立証できない物の所為にして、僻んでいてもやっぱり一緒でしょうね。 客観的に幸福な生まれでも、僻みっぽい性格の所為でいくらでも不幸になれますし。 悪い事なんて単なる偶然か、または当人が呼び込んでるかのどちらかであって、運命なんぞと言う曖昧模糊とした物を信じてる悲観的決定論者(加えて自身では何もしない)人間の上には、余計に降って来るモンだと思ってます。 人生なんか、その良し悪しは死ぬまで結果なんぞ出やしませんて。 以上、些か長くなりましたが、私見に基く小生の見解です。
お礼
回答ありがとうございます。 >悪い事なんて単なる偶然か、または当人が呼び込んでるかのどちらかであって 悪いことを呼び込むって具体的にどういった状況ですか? >人生なんか、その良し悪しは死ぬまで結果なんぞ出やしませんて。 ありがとうございます。私もそう思います。死ぬまで幸せには貪欲に努力したいです。(その貪欲さがいけないのか、と思うときもありますが。 現状についつい僻みっぽく、周りの幸せに見える人間に嫉妬もします。情けないです。 回答ありがとうございました。
- iwanaotoko
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あなたの命の恩人の子供と、あなたをひどい目に合わせた奴の子供がふたり並んでいた。 どちらもおなかがすいて泣いている。しかし、あげられるものは少しばかりのパンだけ。 あなたならどちらの子供にパンをあげますか? 自分には知らないところで「運」が決められているというのは、ありえますね。前世というより一族の善行悪行が巡りめぐってくる。 でも、婚約者の父親が入院というのは因果応報とは関係ありませんね。 過去に悪いことをした人が毎日痛みと戦うのは報いを受けていると思います。なぜなら、人の恨みを買ってきたから、困っているのに誰も治療費を貸してくれないということだから。 前世があるかどうかはわかりませんが、親や祖父母ぐらいの善行悪行は報いを受けることはありますね。
お礼
回答ありがとうございます。 >前世というより一族の善行悪行が巡りめぐってくる。 納得しました。それでは、たとえば母子家庭の母親が子育てをろくにせず、その娘も若くして母子家庭になり、その娘も若くして母子家庭になり、、、というのはどこで止められるのでしょうか。世代のどこかで、ある人が強い信念を持って正しく生きればとめられるものですか? 離婚がまったくの不幸とは言いませんが、離婚家庭の子供は離婚しやすいといいますよね。それも同じことのように繰り返し回っている気がします。 >過去に悪いことをした人が毎日痛みと戦うのは報いを受けていると思います。なぜなら、人の恨みを買ってきたから、困っているのに誰も治療費を貸してくれないということだから。 恩人の子供にパンをあげるくだりで、親の悪行が子供に帰ることがあるのは理解できました。 人の恨みを買い、その人が治療費を貸してくれないから、現在の痛みは報いだというのも理解できました。 でも、たとえば、現在はとてもいい人で、人にも好かれ友達もいますが、みんなお金持ちではないのでお金は借りられない、という場合はどうですか。現在の友人知人との関係にも報いがあるのでしょうか。
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お礼
お礼が遅くなりまして申し訳ありません。 一言一言身にしみました。 ありがとうございました。