こんにちは。
事実の錯誤では、客体の錯誤と方法の錯誤があると
いわれていますが、
客体の錯誤では、法定的符号説と具体的符号説ともに
故意が認められると主張しています。
故意が認められるかどうか判断がわかれるのは、
方法の錯誤です。
法定的符号説では、故意を認めますが、
具体的符号説は、この錯誤の場合に故意は認められないと主張しています。
法定的符号説をふかく理解したうえでの説明はできませんので、
法定的符号説が故意を認める一般的な理由だけになるとおもいますが、
法定的符号説が、客体の錯誤でも方法の錯誤でも、
表象と事実の間に重要な錯誤はなく、故意が認められるとする理由は、
(1)行為者は、構成要件のうえで同じ評価をうける事実を
認識すると、行為を実行してよいかどうかの規範の問題 (たとえば、“人”を殺すなかれ)
に具体的に直面する。
そしてなされた事実(“人”がAであろうともBであろうとも同じ“人”だ)
について故意を認めるべき。
(2)具体的符号説が、客体の錯誤で故意をみとめることは矛盾している。
具体的符号説は、客体の錯誤ではその錯誤を
重要なものとみなさない(=故意を認定)のに、
方法の錯誤では、その錯誤を重要なもの(=故意を否定)とするのは
一貫していない。
と思われます。
なので、錯誤が生じた過失犯を想定していない犯罪については、
具体的符号説では不合理?な結論を出してしまう?
という問題があります。
蛇足ですが、この批判論の前半部への反論(過失犯を規定していない犯罪は除いて)
として、具体的符号説は、
行為者の動機までは故意の中で考慮しておらず、
“その人”を狙ったかどうかが問題なので、
一貫していないとの批判はあたらないとしています。
たとえば、客体の錯誤で具体的符号説が故意を認める事例ですと、
ある日に講演会に出席していた総理大臣を殺害するつもりだった、
しかし当日その現場にいて、総理大臣だとおもって狙った“その人”は、
司会者だった。
この場合、その司会者の人への故意は認められるということになります。
逆に方法の錯誤の場合。
たとえば、Aを殺害しようと発砲したが、Bに命中してBが死亡した場合。
故意を認めないのは、“その人”を狙っていたが、
認識の範疇外の“べつの人”にあたったのだから、
Aについては殺人未遂、Bに対しては過失致死が成立するということになります。
後半部分の過失犯の規定のない犯罪についての反論は、
ちょっといまは記憶が不鮮明なので、うまく説明できません。申し訳ございませんー。
お礼
ありがとうございます。こんな長い文をくれるとは感謝のかぎりです。参考にさしていただきます。