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畑の一部を収穫しないで、作物をそのまま残す風習について
上記の風習について調べたいのですが、どうしてもネット検索で探せません。柿の実をひとつ(か少しだけ)木に残す木守柿のように、収穫に対する感謝を表す風習のことで、市場価格維持のために作物を畑で廃棄するのとは全く別のことなのですが。どなたか情報源をご存じでしたら教えてください。せめて有効なキーワードを教えていただければ、ネット検索できると思います。収穫、残す、感謝、作物、などの組み合わせではうまくいきませんでした。よろしくお願いします。
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質問者が選んだベストアンサー
経験的に言えることですが、民俗学の細かな情報というのは、ネット上にはほとんど上がりません。したがって、どうやって言葉を選んだところで、検索では大した情報は見つけることができないのではないかと思います。なぜ質問者氏があえてネット検索を重視されるのかわからないのですが、とりあえず若干の情報を書いてみます。 この問題についての基本文献は、まずは柳田国男の『トビの餅・トビの米』(「定本柳田国男集16」所収)です。 この中で柳田は、トビという民俗語彙の意味について、広く贈り物一般や贈り物の返礼、年玉などの意味で使われているとしたうえで、「たまはる」という言葉の変化形である「タブ」「タベル」の命令形が語源である、というような考察をしています。 つまり、神と人間との贈与関係において、翌年の豊作の期待をこめて人間側から神に差し出された「トビ」は、「与えたまえ」といった意味を持たされたもの、というふうに分析することができることになります。木守柿はその典型例だ、ということが言えるでしょう。柳田の論考を容れた論者には、トミを「天与の作を招来するための呪物」と見る桂井和雄、吉成直樹らがいます。 ただ、木守柿のように成り木に果実を残す例と、畑の収穫の一部を残す例とは、一律に論じていいものかどうか慎重に考えるべきでしょう。そもそも、管見では「畑の収穫の一部」を残す例は見聞したことがありません。民俗事例の報告で目にするのは、「最後の稲束」や「神の稲」などと呼んだりするのですが、「田の稲の一部を意図的に刈り残しておく」というもので、畑の事例はあまり報告事例がないのではないかと思います。 また両者にはもうひとつ重要な違いがあって、それは、「最後の稲束」のほうは残しておいた稲に特殊な構築物をかけるなどしたうえで特定の時期に刈り取り、さらに家に迎える儀礼を行うのが通例であるのに対して、成り木に残された果実のほうには、それがないことです。 それどころか成り木の果実は、不思議なことに、むしろ「盗まれたほうが来年の成りがよい」などといって、盗まれることをむしろ期待するような習俗が多いのです。 そんなわけで、両者は似た事例には違いありませんが、単純にひと括りにするのはやや問題があるといえるでしょう。とりあえず、「収穫に対する感謝を表す風習」として一般化して言い切れるかどうかは疑問です。 「最後の稲束」の意義については、鈴木通大氏の分析が知られています。氏は、最後の稲束と共に稲刈りに用いた鎌なども供えられる例があることから、収穫への感謝の儀礼であると同時に、「田の神」を田から家に迎える行事である、と分析しています。 他方、金田久璋氏らは、稲の生命力の象徴性、稲魂とでも呼ぶべきものを重視する立場からこの習俗を詳細に論考しています(『稲魂と富の起源』)。彼らは、トビをめぐる柳田の論考に対してやや批判的な立場をとっています。 以上、散漫に書きましたが、参考になるようでしたらご活用ください。
お礼
回答を頂いたあと、お礼と追加説明の書き込みをしたつもりでしたが、もしかしたら操作間違いがあったかも知れません。もしも正しく投稿できていなかったとしたら、貴重な回答を頂いたneil2112様に失礼なことをしてしまいました。申し訳ありません。具体的な研究者名と共に、他ではとても手に入らない情報を寄せていただき、本当にありがとうございました。