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社会的な事について話す時って・・
例えば、テロの報復や死刑に対する反対意見など、これに限らず何でもいいんですが、ある事柄について話し合っている時、意見の食い違いが出ると、こういう風に言う人がよくいますよね。 「もし、我が身に降りかかったら、そんな事は言えないと思う。」 「もし、自分の家族が巻き込まれても、今と同じ意見を本当に言えるか?」 「他人事だと思って言ってないか? 」 ある事柄について意見する時に、自分の身に降りかかった事を常に念頭において話さないといけないんでしょうか? それだとどうしても感情的になって公平な見方が出来なくなってしまうと思うんですが。 確かに自分の身に起きた事として考えると、自分の意見もまた変わってくるのかも知れないけど、それとは別の理屈で意見するのは、批難される事なんでしょうか? 常に自分が被害者だったらという側面から考えてると、とても冷静な判断は出来ないと思うのですが。 議論するからには一般論で話すべきだと思うんです。 それともこんな僕は冷酷なんでしょうか・・。 皆さんはどう思いますか?
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私だったら「他人事だと思って言ってないか? 」 と問いつめられても、迷わずイエスと言えますし、「もし、自分の家族が巻き込まれても、今と同じ意見を本当に言えるか?」という問いに対しても「その状況になってみなくちゃ分からない」と答えるだけでしょうね…もちろん想像でなら何とでも言えますし、これってある意味逃げかもしれませんが、そんなことに関わっていたらいつまで経っても議論が結実しませんし。 このような、感情に直接訴える形式の問題提起はフェアではありませんし、ある問題が存在し、それを解決するための策を議論するという場で、実際に起こった、或いは起こりうるであろうと予測される事柄以外の「もしも云々」を持ち出すことは禁じ手の様な気がしますが。確かに被害に遭われた当事者の方達の心象は察するに余りありますが、問題に対しその解決策を見いだすということと、被害者が可哀相ということは、議論の際に同じ土俵に上げるべきではありません。問題は問題として解決策を議論し、被害に遭われた方達に対しては、もう一方で哀悼の意を表する。これらのことがごちゃ混ぜになってしまうのは建設的ではないと思います。 今回のテロ問題に関しても、米国の報復活動に異を唱える人たちや、また死刑廃止を叫ぶ人達が、被害者のことをまるっきり考えていないはずはないでしょう。被害者と加害者の関係を冷静に分析し、なるべく多くの側面から死刑廃止や報復活動反対という結論を導き出しているのですから。このように、ある考えを主張する人達には、それなりの理由を持っています。しかし、感情に走って「もしもお前の家族が云々」などと言ってくる輩には、それを正当化する理由など持ち合わせていません。要は泣き落としで無理矢理議論を終わらせようとしているというだけです。 もう一度申し上げますが、社会レベルの問題を話し合っている時に、個人レベルの問題を強引にねじ込むやり方はある意味卑怯だと思います。 私もまともな議論がしたい時にこういう、感情が高ぶって逆切れするような人が一人でもいると、正直うざったく感じます。 というわけで、masaru_Yさんは、何の気後れもする必要はありません。ディベートの目的とは何か?ということを再確認しつつ、堂々と議論なさってください。
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- yamachan62
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masaru_Yさんも気づかれてると思いますが、「もし我が身に降りかかったら・・・」などと言う言葉を出す側の意図は、単にあなたの話を(特に説得材料もなく)否定したい場合がほとんどです。この言葉を言う側が実際に当事者である場合も、ほとんど希です。これと同じように使われる言葉として「歴史的には」とか「客観的には」「国際的には」などがあります。Gooの議論を見ていてもいろいろなパターンが検証できますよ。 ただ、そういう否定という相手の意図は別にして、様々な立場の人について想像すること自体は、自分自身にとって非常に有益なことだと思います。自分は必ず何かの立場に居るものですから、公平な見方や冷静な見方というのは、とても難しいのですが、その理想に近づくとすれば、あらゆる状況の人についてリアルに想像できる能力とそれを総合して判断する力を鍛えることしか道はありません。日々、様々な局面で決断を下す必要がありますから、大抵の場合は、ゆっくりと全ての側面を想像するわけにはいかないのですが、この思考に慣れれば慣れるほど、パターン化もできたりして、想像するスピード、判断のためにそれを組み合わせるスピードが早くなります。そして、より客観的判断に近づくことができます。完全に客観的というのはあり得ませんが。 話は少し変わりますが、作家のつくるリアリティーなども、こういう想像力を背景にしています。あらゆる立場の人の感情や行動が、読者の想像以上にリアルに想像(創造)できてはじめて、多くの人が刺激を感じる良い小説が出来上がります(辛気くさい話になりすぎるのを避けるために、こういう例も出してみました)。 そして、知識というのは、たぶんこの想像力を助けることに一番の役割があるんだと思います。 議論に勝つなどの目的がある場合は、話は別ですが、純粋に自分のためなら、いろんな人のことを想像することや、それから判断すること、そして判断の失敗もまた反省材料として、楽しみつつ、過ごされると良いと思います。本当はそんな理想的な生活はできないんですがね。 今度はあまりに自分がなくなるんじゃないかと思われるかも知れませんが、その豊かな想像力から生まれる判断力を使った生き方が自分、ということだと思います。
- sayu
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#No.6のsayuさんに対して #『対岸の火事と思っていないか?』という発言をしたのは、おそらく私です。 #その節は、たいへん失礼しました。(m○m) あ、いえいえ・・(^^; こちらこそ済みませんでした。 No.9の回答たいへんためになりました。 ↓
- cse_ri
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人間の心には「知・情・意」の3機能があると言われていますが、 この3機能の発露には個人差があるようです。 つまり、知的な人・情的な人・意的な人がいます。 (意的な人とは、直感的な発言・行動をする人とします) masayu_Yさんは、おそらく知的なタイプなのではないかと思います。 論理的思考を進めるために、極力感情を排し、客観的な立場で物事を考えようと するタイプです。 しかし、情的なタイプというのは異なった思考回路をしてます。 「この人かわいそう~」とか「こんなことするなんて許せない!」 みたいに喜怒哀楽の感情をベースに主観的な思考をしている人もいるんです。 この2つのタイプ(知的・情的)が会話をすると、えてして会話のリズムが 全くかみ合わなくなることがあります。 (その他に直感勝負の意的タイプもいて、このタイプが混ざった時も別の 問題が出てくることがある) 次に、対策について説明します。 他人と会話をする時に、相手のタイプが知的なのか情的なのかを会話の中で 即座に判断する訓練をしてください。 もし、会話の相手が情的なタイプであると思われる場合は、こんな対応をここ ろがけると効果があります。 1.「客観的な立場で考えているだけれど~」と前置きを入れる。 2.相手の感情に合わせて、 「ウンウン、ボクもそう感じているよ」と相づちを打ってから、 「でもこう考えることもできるんじゃないかな」と切り返しを入れる。 1・2のどちらで対応していくかについては、その場その場で判断してください。 ちなみに、知的な思考に徹すると、情的なタイプの人からは 「この人は人間らしい感情を持ち合わせていない。まるでロボットか冷血動物みたいね」 と思われることもありますから、適度に相手に合わせることを覚えましょう。 #No.6のsayuさんに対して #『対岸の火事と思っていないか?』という発言をしたのは、おそらく私です。 #その節は、たいへん失礼しました。(m○m)
議論の場を整えることが重要です。 日本なのでは、あまりする習慣ありませんが、 あらかじめ、ルールを作るのです。 こうした、人の生死がかかわるものを議論するときに、 どういう立場で議論(会話)をするのかと取り決めて 話しをする。 例えば、この場合は、 「民主主義に価値を置き、かつ、被害者と個人的な かかわりのない立場で話しをする」 とか、 「死刑囚と個人的なかかわりもなく、かつ 被害者とのかかわりもない立場で話しをする」などです。 そうすれば 「被害者の気持ちになってみろ」などという 議論の根本を打ち壊すことはなくなります。 もちろん、議論の場によっては、そうした 取り決めは逆に、議論の興を削ぎますから、 堅苦しい言い方ではなくて、 あなたの発言の中で、 あらかじめ、そうした発言を封じるように し向けるのがいいでしょう。
- sayu
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そのような事をここで質問した際にいわれたことがあります。 『対岸の火事と思っていないか?』と、ちょっとかちんときましたね(笑)。 犯罪の事を考える時被害者の気持ちを思うのは当たり前だと思います。 私は報復には賛成できませんが、アメリカも被害者の気持ちと、アメリカの面子を考えたからこそ報復に出るのでしょう。 例えばものすごく残虐なレイプ殺人などの事件で死刑が決まった事件に対し『死刑廃止・犯罪者に人権を』等と訴える人には同じことをいいたくなりますね。 >常に自分が被害者だったらという側面から考えてると、とても冷静な判断は>出来ないと思うのですが。 議論するからには一般論で話すべきだと思うんです。 そんな事ないと思います。犯罪者、被害者の気持ちをかんがえつつ冷静に判断する必要があるでしょう。 少なくとも日本における犯罪に対しての刑罰は多分に被害者、犯罪者双方の気持ちを考慮しいて決められている節があるので、そういった側面は絶対必要だと思います。ただ日本の場合被告の心情を汲み取り過ぎると思っていますが・・・ 心情を挟まない一般論のみのの意見は机上の空論と同じで議論するに値しないと思っています。 そういったことと「こういう気持ちは、当事者にしかわからない。」と議論を拒絶する事は別だと思っています。
> ある事柄について意見する時に、自分の身に降りかかった事を常に念頭において話さないといけないんでしょうか? そうしなければならない、という法律はないと思いますが、処世術としても議論をする者としても「したほうがいい」のではないかと、わたしは思います。そうしないからと言ってmasaru_Yさんを冷酷だとは特に思いませんが。 自分や自分の家族が被害者や加害者だったとしたら……? そういう時、わたしはよく、わたし自身を理想的な方向へ説得するのがとても困難だと感じ、双方にとって理想的な現実の方向とは?という見直しをするはめになります。 自身を説得できずして、他人と反対意見でも議論ができるかとなると、それは相手にもよるのでしょうけれど、、わたしは恐いです。
- songbook
- ベストアンサー率36% (334/910)
No.1のmakochiさんの意見に大賛成です。 「こういう気持ちは、当事者にしかわからない。」のたぐいの一連の言葉は、その当事者以外に正しいことが言えるわけがないから、他の人は意見を言ってはいけない、と発言していることと同じであり、これは議論における重大な反則です。 お互いに何かを分かり合おうとして、言葉でコミュニケーションを図っているのに、そのコミュニケーションを一方的に遮断されるわけですから。「あなたは何も言ってはいけません」そんなこと、議長にさえ、その権限はないでしょう。 感情のぶつけ合いのときならば、これは大いに有効でしょうが、話し合いの場では、言ってはいけない言葉です。しかし、その人にそこまで言わせる状況が、話し合いの中にあるのかもしれない。 もう一度述べますが、話し合いでは、主張もしつつ、相手の立場もわかろうとする姿勢を持たなくてはいけません。もちろん主張するならば、自分の気持ちをわかってもらおうとするための、話し方の工夫は絶対に必要だと思います。わかってもらえないとその人が感じるならば、わかってもらえるように話すべきでしょう。ここは、言葉同士が表現の場、「話し合い」なのですから。
- chaff
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「議論」というのは、その立脚する立場によって違う意見が出るのがあたりまえです。(だから、「議論」が成立するのですが) と、言うわけで、masaru_Y さんの言う対立が生まれるのは当然です。 ある問題についてAの立場に立つか、対立するBの立場に立つか、一般論の立場に立つか..だから「議論」は面白いんです。 今度のニューヨークの事件についても、 「鬼畜米英」 「暴虐タリバンをヨウ懲する」 「教え子を戦場に送るな」 「戦争特需」 等々,,いろんな意見が出ています。これでいいんじゃないんですか? >それとは別の理屈で意見するのは、批難される事なんでしょうか? そんなことはないと思います。むしろ、こんな議論ができる「今の社会」に私達が生きている事に感謝しましょう。<誰にだ? こんな議論ができない社会は暗黒ですよ。きっと。
- gokuh_
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おっしゃる通り、感情論だけでは話はまとまらないでしょう。 感情を無視することは出来ませんし、無視する事は良くないでしょう。 でも、感情論は常に「感情を発する人の主観のみ」で論議されるという事です。 殊に今回の様な問題は感情論だけでは解決しないでしょう。 イスラム側から感情だけで意見を発すれば「欧米諸国は身勝手で自分の意見をゴリ押しし勝手に政治に干渉して内戦を長引かせ国土と国民を疲弊させた悪魔」としか観ていないでしょうから。 感情に感情をぶつけたらタダの喧嘩にしかなりません。 喧嘩で戦争なんかしてほしくない。 先にも揚げましたが「感情を無視することは出来ません」から最大被害国アメリカは冷静ではいられないでしょう。 今回は日本も被害国の一員ですが、もう少し冷静な目で見ることはできるはず。 そういう国が間に立って客観的立場に立って話をしないといつまでたっても問題は解決しません。 今回の件も長引けば長引く程被害に遭うのはテロリストではなく戦地となった国の一般市民でしょうから。 masaru_Yのご意見に賛成です。
- makochi
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わたしもあなたの言う通りだと思います。 >「もし、我が身に降りかかったら、そんな事は言えないと思う。」 という理屈に従うなら、真理を言えるのは当の被害者しかいないということになりますね。 例えば似たようなのでよく聞くのは、「差別は、差別された者にしかわからない」というやつです。 この論がまかり通ると、結局世の中には「差別者」と「被差別者」の2者しかいないことになりますし、この2者の区別以外に個々の存在は無意味となってしまいます。これではいつまで経っても問題を全体化・共有化させることはできないでしょう。 今度のテロでも、確かに多くの犠牲が出ました。でも、それによる被害を受けた人と受けていない人を、どこで線引きするのでしょう。中には日本人の犠牲者もいましたし、友人を失った人、テロにより海外挙式を止めた人、テロによって不況にますます拍車がかかり被害を受けた人もいるでしょう。 その被害の程度はさまざまですが、少なくとも私たちは最小限の被害に済んでいるがために、この事件を冷静に判断することができます。 もちろん、無責任な物言いや偏見によるものは慎まねばなりません。しかし、被害の大きさによって、議論や意見の自由が阻まれることなどあってはならないことだと思います。