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瀬戸内寂聴さんについて

ある人(瀬戸内さん)の活動の社会的役割や弊害なども含めた広い視点からの意見が聞きたかったので、芸能カテ等にしないで、あえてこちらにしてみました。 瀬戸内さん・・・あの小説家で尼さんの人のことです。 すごいファンがいる一方で、どうしてそこまであしざまに言うのかな?という人も割と多いです。ネットで見た限りですけど。 悪し様に言うのは、専門のお坊さんをはじめ、比較的良心的・常識的な感じの人も多くて、アイドルに対するねたみからでたアンチとはちょっと違うのではないかと思っています。 どうして、強く憎まれるほど批判されるのでしょうか? あの人の活動が、社会的に何か害悪をもたらしていると思いますか? どういう害悪でしょうか? 仏教の正確な理解という点では、学者には及ばないかもしれませんが、かといって、あの人の書くことが、仏教の教えを乱していて日本をだめにしているのでしょうか? えーと、私は個人的には瀬戸内さんを好意的に見ていますが、かといって固執する意図もなく、批判的な人を批判する意図もありません。数多く出ている批判の意図が知りたいだけなのです。思い当たる方は、お教えくださいませ。

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  • yuhkoh
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回答No.1

 仏教の歴史・教理・教学・思想・信仰などを専門的に学んだり実践されている側からすると、彼女のようにただ有名人だったというだけで注目され、“「珍説」・「奇説」や「自分の感想」”や“仏教語を多用したエッセー”の類を「正しい仏の教え」だと広められるのは、釈尊やを祖師に対する侮辱であり、またこの様な行為を「越三昧耶罪(おっざんまやざい)」或いは「越法罪(おっぽうざい)」(教えを授けるに値しない者がむやみに仏法を広める罪)といい、厳しく戒められているからです。  しかしある面では彼女の活動により“仏教が身近に感じられる”などと教えを広めの基礎部分になっているのも事実ですし、一般人からすれば“深遠なる教理”よりも“生活に密着した悩み事”を、仏教風に相談に乗ってくれるので親しみやすいでしょう。  こういった対立や批判は今に始まった事でなく、それこそ釈尊の説法されたとき以来、行われてきました。教えの純粋性を守ると一部の者だけになる。広めると内容が劣化する(これは仏教に限らず、全てのことに当てはまりますよね)。このバランスをどのように保つかが、それこそ長い間、教えを受け継いできた祖師の悩みでもあったわけです。  ただしこういったことをあの人がそこまで深く考えて、彼女流の“仏の教え”を広めているかどうかは不明ですが… あと有名人であるということと、仏教を学ばれたということは別物ですから。“有名な小説を書かれたから、この教えも正しい(だろう)”というわけではないですよね(有名人が実践している健康法だから体にいい。というわけでないように)。その辺をマスコミが混同しているので、そういった点も批判される部分でしょう。

noname#10410
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり教義の不正確な理解と、ときに放言と見られる発言が伝統仏教からは、許せない部分があるということなのですね。そのことは、私も予想できたご回答ですし、一番納得のいくものでもあります。 ただ、あの人は天台宗の坊さんですから、本当のことを言えば、得度の師僧もいるはずですし、そうした仏教世界内部の人間関係で、どうしても容認できないことがあれば教え合うこともあって良いはずと思うのです。それがどうしてこういうことになっているのかは、やはり外部からは分かりにくいです。私が同門でしたら、本当に容認できないことがあれば、手紙の一本よこすと思います(私は在家)。 容認できない部分がどういったことか一般の人には分からないような微に入り細をうがったようなことでなければ、道理も聞こえましょうに、売名行為でけしからぬとか言う発言はよく見かけるのですが、そういう言説はあまり見ません。 とは言え、迎合的賛同も有名人である彼女に向かうのと同時に批判も集中してしまいますが、本当に仏教の乱れと妖言をもって世人を惑わすことを憂慮すべきような言説はむしろネット世界などにこそ多いと思います。目を覆うような邪説など匿名でいくらでもあります。検索は便利なのですけど、よく言うよという発言が多いですよね。反社会性を強く帯びた新興「仏教」もあります。瀬戸内さんは、所詮天台の枠内で好きなことを言っているので、反社会的なことはないと思うので、どうしてちょっとユニークな老尼僧ごときに批判が集中しているのか、ここの部分もよく分からないという気もしています。 仰せのように正統と一般化はとても難しい問題ですね。大乗経典を奉じる日本の仏教徒には、どこかで意識していなくてはいけない問題だと思います。

その他の回答 (2)

  • sgi1962
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回答No.3

天台教団の幹部職に祭り上げられていますね、、 ある意味「広告塔」にされてしまっています

noname#10410
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 祭り上げられていますか・・。 天台僧たちの反応は、微妙なようです。不思議な嘲笑をしておりました。あの笑いの意味がいまだによく分かりません。 広告塔も、ダーティーな意味ではなく有効に使えるのであればそれも良いのかもしれませんね。この広告塔は、しかしなかなかに批判も浴びている広告塔のようで、成功しているとも言えない微妙なところがよく分かりませんね。祭り上げる側のご真意がわかりにくいですね。

  • yuhkoh
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回答No.2

 彼女の師僧も小説家の今東光(法名:春聴)で、まあ伝統教学からすれば無頼派(異端)でしたからね。彼女自身、批判は「有名税」のように思っておられるかもしれません(またそれぐらいの気構えがないと、「表現者」としてはやっていけれないでしょうし)。  それに彼女の解説や法話が、仏教や天台の伝統教学からしてみれば「異端」「珍説」であっても、彼女の発言は注目されますし、先も記したかと思いますが、そのことによって仏教や天台の教えに触れる機会が増すことも事実です。  例えばかっての高野山では教理・教学を研究する「学侶(がくりょう)」、山内の法会や実務を預かる「行人(ぎょうにん)」、布教活動を行う「聖(ひじり)」の3組織がありましたが、やはり仏教や密教・真言宗に対する考え方やアプローチの方法で批判・対立がありました。  確かに理想と現実のバランスは難しいですね。弘法大師が真言密教を布教する目的は「密厳国土」と「鎮護国家」のためとされました。密厳国土とはこの現実世界を仏の浄土とするという理想的観点。鎮護国家とはは実際に生きる人々が安楽に生活することを目指す現実的視点。私見ですが、大師はこの両立の難しさを実感されていたのではないでしょうか。だからこそ目的とされたように。

noname#10410
質問者

お礼

再回答ありがとうございます。 直接の師僧はもうお亡くなりですし、直接指導する方もおられませんね。でもそういう特定の一人のことだけではなくて、行院や学院での先生方なども含めて師僧と申しました。 学侶と行人の対立は今でも・・・というより行人の方が学侶をねたんでいるように私には見えます。「やつらは理屈しかない」と。それも意味のない決めつけだと思いますが、そういう人いますね・・あるように見えます。いずれにせよ、それが発展的論争なり議論になっているのであれば、巨視的に見れば良いのかもしれません。しかし、周りに理解できない教義上の細かな対立や批判がどこに向かうのか・・・外部の人にはなおのこと分かりません・・。若い人が、おかしな新興宗教に引かれる気持ちもわからなくもありません。 それはともかく、人間は生きている限りやりあうんだなぁと思うと、生きていることは基本的に苦しみの多いことだと思います。あーぁ。80になっても、関係ないのですね。もちろん年齢だけですべて良しということでもないのですけども。ペンは剣より強しとは申しますが、ペンで身を滅ぼすものもあるということでしょうか。書き残すことをしないブッダにはむしろ智慧があったのかもしれません。少なくても引用合戦による不毛な対立は起こらないのですから。 先ほどのお礼に書き漏らしましたが、マスコミの問題点については、よく分かりました。上げて下げてのマスコミのあり方には問題があると思います。