平安時代の和歌で春や夏を深まるということはあまりありませんが「浅い」とすることは非常によく見られます。秋についても和歌では「深い」ということはあまりないのですが、季節を深浅でとらえる源流はここらあたりにあるのでしょう。「深い」がよく用いられるのは近世期になってから、ことに俳諧のなかででしょうね。春は「たける」という言いかたをすることが多いようです。成長するとか、時間を経るとかいうほどの意味です。
ちなみにいうと、一年を春夏秋冬の四つに分類して季節ひとつが三箇月、さらにそれを早(春)、仲(春)、晩(春)とするのが、伝統的な日本の季節感です。ふつう深まるというのは「ある段階に達したものがもうひとつ色を添える」という意味で仲→晩の変化に用いられることが多いようです(「たける」も同様)。早→仲は「ある段階に達する」という「深まる」の前提条件ですから、ふつう雪も解けて梅が咲く、とか、残暑もおさまって涼しくなってきた、というのは「深まる」という語の対象にはならないようです。以上は古今集から新古今集くらいまでの王朝和歌の常識です。
秋以外に「深まる」という言いかたをしない(あるいはきわめてそういうことがすくない)理由ですが、これは季節のとらえかたの問題ではないでしょうか。夏冬は春秋に比べて日本人の季節感では非常に軽視されていますので(だから季節の深まりを「秋めいてくる」「春めいてくる」と春秋の延長線で表現する)ここでは措くとして、春は早春の梅から桜が散るのあたり(仲春の終りか晩春のはじめ)まで、秋はもみじのいろづく晩秋にこそ価値があるというのが日本人の常識です。
つまり春が深って(晩春になって)咲いた桜が散りはてて新緑ななるのは風流ではないけれど、秋が深ってもみじが真赤になるのは風流というのが底にありますから、深まりゆく春などというものは文章で書くのに値しない、ふさわしくないという考えがはたらきます。一方で秋が深まってゆくことは風流韻事の最たるものですから、これはそうした季節のうつろいをさかんに歌や文章にすることになる。つまり春の深りは夏冬の深り同様、実際の現象としては存在するのだけれど、美意識に合致しないがために文章のうえでは存在を否定されてしまっているのではないでしょうか。
「春も深まってまりりました」という使い方は文法的・文章的には正しくとも、そもそも内容が「文章で書くべきではない無風流なこと」だから文章のなかでは遠慮させられて、なかなかお目にかかれないのではないかと思います。
お礼
「日本人の美意識に基づく表現の差」と言われてみて、「確かにそうかもしれないなあ」と深く納得させられました。「風流」を好む心が秋のみを「深まる」という表現で捉えるようになったわけですね。「もみじの色づく晩秋にこそ価値がある」と。 大変いい勉強をさせていただきました。ありがとうございました。