現代では慣用表現が縛られていませんか?
現代では、なまじ辞書などデータベースが潤沢に身近になったせいで、
新たな慣用表現が生まれにくい、または既に大多数の人が変遷した意味で使っている慣用表現を「誤用」と斬り捨てられるようになっています。そのせいで現代では「言葉が呼吸し辛くなっている」ように私は感じます。
現代においては、たとえば「敷居が高い」は、「その場所の程度が高すぎて入り辛い」、「確信犯」は「わかってやっている」という理解の方が、自然で、しかも使い道も広く感覚に馴染みます。
現に、大半人々が無意識にこれらの意味が正しいと感じて用いています。
本来の意味の方がむしろ使い辛かったり、いまいちピンと来なくなったりした慣用表現は、時代に合わなくなったとして廃するか新たに現在「誤用」とされている方の意味に置き換えてみた方が、「生きている」言葉に対して当然の処置ではないでしょうか。
そういう声は国語の学者さんの間では上がっているのでしょうか?