NemurinekoNya の回答履歴

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  • やはり宗教カテは残すべきであった

      かつて宗教カテは存在していました。 しかしある時期(2000年12月21日とされる)をもって宗教カテは消えたのであった。 その理由については、以下を見れば分かります。 http://okwave.jp/qa/q6616400.html 簡単に結論すると宗教に関する質問、議論、問題提起は口論になりやすく、管理上収拾がつかないので消されたということです。 つまり宗教一般には自浄能力が欠けているってことなのです。 神や仏を語る者に限って、自らを清める能力を欠いているって証拠なのです。 ではあるが宗教カテはやはり残すべきであったのではないか。 その理由は、宗教と哲学は厳然として異なるからです。 宗教は信じるものであって、神や仏を論じるもの、天国や地獄などあの世について信じ語るもの、その他これらに関連する奇跡とか終末とか末法とか戒名とか葬式事とかの儀式的なものの類です。 一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 宗教カテが存在しない現状においては、宗教は哲学とは無縁のものであるにも関わらず、あたかも哲学であるかのように錯覚して、神学やら仏教やらを哲学カテの中で論じているのですが、この状況は哲学にとっては甚だ迷惑なことなのです。 神や仏、天国や地獄、また奇跡や終末や末法や戒名や葬式事について語りたいのであれば、その共通世界の中で思う存分、徹底的に語ればよいのではないでしょうか。 その結果地獄絵のような議論が巻き起こるかもしれない。 しかしそれが宗教の本質を物語るのであれば、それはそれでよいのではありませんか。 それ故やはり宗教カテは残しておくべきであったと思うのですがどうでしょう。  

  • ばねでつながれた物体の粗い面上の等速円運動について

    ばねでつながれた物体の粗い面上の等速円運動について質問です。 添付した問題の(2)で、解答では最大摩擦力が円の中心に向いていて、遠心力による力の釣り合いの式が立てられていました。 ばねによって物体が円の中心に引っ張られていることを考えると、最大摩擦力が円の外側に向いても良さそうにみえますが、なぜ、円の中心に向いているのでしょうか? 遠心力がばねの弾性力より大きいからですか? その場合は、何故ですか? また、解答は遠心力で考えてましたが、向心力による運動方程式で考えてもいいでしょうか? また、その場合、物体がすべりはじめる段階では物体と円盤がともに同じ速度で運動していることが、向心力で考えてもいい根拠ですか? どの質問でもいいので回答して頂けると幸いです。 お願いします。

  • まだ深き夜の夢ぞ悲しき

    『新古今和歌集』巻第20 釈教歌 1970番の歌の、(文学の注釈書にあるやうなものではなく)佛教の解説をお願ひします。 [ことばがき] 百首歌の中に、毎日晨朝入諸定の心を [よみびと] 式子内親王 [うた] 静かなる 暁ごとに 見わたせば まだ深き夜の 夢ぞ悲しき

    • noname#214841
    • 回答数9
  • 3次方程式の解の公式を教えて下さい

    数学の3次式の因数分解の授業で因数定理を習いました。 しかし数字を直感で代入して求めることがどうしても納得出来なくて数学の先生に聞いたら「3次方程式の解の方程式に当てはめれば納得出来ると思うよ」と言われました。 その時は時間がないのと、高校数学では難しいと言われ3次方程式の解の公式を教えてもらうことは出来ませんでした。 なので3次方程式の解の公式が知りたいです! わかる方教えて下さい。

    • noname#216794
    • 回答数4
  • 質問です

    y=|x-2|において、1≦x≦5でxが動くときの値域と最小値最大値を求めよ。 回答解説お願いします!

    • 206179
    • 回答数2
  • やはり宗教カテは残すべきであった

      かつて宗教カテは存在していました。 しかしある時期(2000年12月21日とされる)をもって宗教カテは消えたのであった。 その理由については、以下を見れば分かります。 http://okwave.jp/qa/q6616400.html 簡単に結論すると宗教に関する質問、議論、問題提起は口論になりやすく、管理上収拾がつかないので消されたということです。 つまり宗教一般には自浄能力が欠けているってことなのです。 神や仏を語る者に限って、自らを清める能力を欠いているって証拠なのです。 ではあるが宗教カテはやはり残すべきであったのではないか。 その理由は、宗教と哲学は厳然として異なるからです。 宗教は信じるものであって、神や仏を論じるもの、天国や地獄などあの世について信じ語るもの、その他これらに関連する奇跡とか終末とか末法とか戒名とか葬式事とかの儀式的なものの類です。 一方哲学は純粋に真理の探求であってその中心は人間と宇宙の正しい理解です。 宗教カテが存在しない現状においては、宗教は哲学とは無縁のものであるにも関わらず、あたかも哲学であるかのように錯覚して、神学やら仏教やらを哲学カテの中で論じているのですが、この状況は哲学にとっては甚だ迷惑なことなのです。 神や仏、天国や地獄、また奇跡や終末や末法や戒名や葬式事について語りたいのであれば、その共通世界の中で思う存分、徹底的に語ればよいのではないでしょうか。 その結果地獄絵のような議論が巻き起こるかもしれない。 しかしそれが宗教の本質を物語るのであれば、それはそれでよいのではありませんか。 それ故やはり宗教カテは残しておくべきであったと思うのですがどうでしょう。  

  • 力のつり合い

    理科の力のつり合いの問題で、天井から角度をつけた二本の糸を使って物体をつるす問題があります。そういうのは平行四辺形を作図して重力を分解してそれぞれの張力を考えますが、手で二本の糸を左右に開ききって、真横(地面と水平方向)に引っ張った場合は、平行四辺形が描けません。左右の張力はどう考えるのでしょうか。 もしくは水平に引っ張ることは無理で、179°くらいになってしまうのでしょうか。 もしそうならば壁に直角に物をくっつけることは不可能ということなのでしょうか。 よろしくお願いします。

    • humtan
    • 回答数2
  • 閉空間が閉集合の証明

    閉空間[0,1]が閉集合であることを証明する。

    • noname#195394
    • 回答数2
  • 荘子は無神論者なのか

    荘子は無神論者なのですか?

    • m2150
    • 回答数10
  • 《スマナサーラ》は 一体全体 いかなる思想か?

     《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。  その文章を取り上げ 二件 問います。  ▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から  ▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~  http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。  一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた団体や子供の首を切ったサカキバラ等に救いの手をさしのべないのはどうしてでしょうか?彼らを救う事こそ仏教にとって大事なことだと思うのですが?みなさんはどう思いますか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A: カルト的な団体は基本的には閉鎖的です。入信しない限りアクセスできません。  仏教はこころの自由は大事にします。 故に、社会的活動する団体であるならば入会できますが、こころの自由を売り渡す団体には入団できません。  人はだれでも助けてあげるべきです、(できるならば)。    「救う事」は非仏教的な行為です。    仏教は、「教えてあげる」、「導く」、「協力する」、「助ける」、「たまに『目を覚ませ』と叱る」などはしますが、「救う」ことだけいたしません。悟りの道だから不可能です。救うーsalvationはたての関係です。残念ながら仏教は横の関係で語っています。仏陀、覚った方々が先輩で求道者に道案内はします。    スマナサーラが批判受けながらも毒説的に説法しているのは仏陀の本当の教えに目を覚まして頂きたいからです。かの団体の人々とも話し合ったことがあります。皆私に仏教を教えてあげることに踏ん張ったのですが人(私)の話には決して耳を向かなかったのです。魚に陸上マラソン教えるようなものでした。    話を聞きたいと思う人には話せます。 自分の受信機の電源を切っている人に世界中へ放送するものでも聞こえるでしょうか。 放送局は各家庭に入り込んで強引に受信機のスイッチを入れるべきだと思いますか。    地下鉄サリン事件、子供殺しなどをした方々の団体を日本仏教界にどなたがいれたのでしょうか。「私こそ仏教です」と自称しても仏教になるのでしょうか。 人が「私は日本の総理大臣です」と言ったら、たったそれだけの理由でその人は総理大臣ですか。大事なのは人が持っている看板ではなく、その人の中身だと思いますが。    仏教は全ての生命の見方であってある特定の犯罪グループの見方ではありません。    生きる道を間違っているのはオカルト団体に入団している人々だけだと思い難いです。 経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。ですから平等に皆に教えてあげるべきです。  終り。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?  ☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。  ▽ ((62) キリスト教批判?) ~~~~~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  Q: スマナサーラ長老の新刊本『ブッダの智恵で答えます』の64ページに  「『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。だから聖書と言うのは、旧約聖書も新訳聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。」と書かれています。    ブッダを尊敬するクリスチャンとしてこの本からも学びたいと思ったのにこれでは読む気を失います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A.投稿ありがとうございます。  批判されると嫌な気持ちになるのは人間の一般的な感情だと思います。  しかし、誰も彼もの機嫌を取って、当たり障りのない言葉だけ羅列したところで、何の役にも立ちません。新しいアイデアを提供したことにもなりません。思考を刺激したことにもなりません。  世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。  その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。  「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。  キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。  しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。  とりあえず参考図書として、『誰も教えてくれない聖書の読み方』ケン・スミス著 山形浩生訳 晶文社 をお勧めします。超面白いです。  A.Sumanasara  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問いは こうです。  (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?   《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?  《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?  テーラワーダをめぐって 賛同および批判をお寄せください。

  • 混成軌道

    軌道には、s,p,d軌道があるのは理解でき、 s軌道には2個などの電子収容数は理解してますが、 sp2軌道とかsp3混成軌道の意味?がわかりません。。。 2とか3はなんなのか、まったくわからないので教えてください。 よろしくお願いします。

    • ts15vm
    • 回答数2
  • nのy乗を表す記号

    10の二乗、三乗、とかを表す、数字の右上につく小さい数字。 これをパソコンや携帯のテキストで表現する時、変な記号みたいなのを使いますよね。 あれってどうやって入力したら出てきますか? そして、何て読むのですか?

    • 野口
    • 回答数4
  • 存在性思想は人間を救うでしょうか?

    どなたかの回答に 人類が自滅するのは99.7%の確率と新聞にあったとありました。 人類は賢いようで いつも失敗したり愚を繰り返します。 第一次対戦をやっておいて 第二次対戦をやる 食料がないと分かっていて子供を沢山作ってしまう 温暖化というと 氷河期が来るから構わないという 原発も攻撃されては危険とわかってるのに 集団的自衛権を認めて原発も認める 存在性思想とは検索されると分かりますが 存在を (個性ある)性質を持つエネルギー(物質などを含む)と定義します その存在が存在するためには 存在する為の性質を持つ事が多い 例えば猫が存在するためには 呼吸 歩行 捕食 見ること 聞くこと 嗅ぐことなどなど 数え切れない性質が関わって存在させています。 動物を例に出しましたが 物質でも人間でもそうです 世界の現実は存在をせめぎ合っているのです 存在性思想はベースに進化論があります 性質が単純なものから複雑なものに進化して 複雑な組織や意識を持つ存在が実現したのだと言えます しかし人間は動物とは違います。弱肉強食の生存競争は動物の進化です 人間の進化はそちらに偏らず 経験 学習 試行錯誤 思考 文化・文明で発展していくのです 過競争による過労死や格差社会は望ましくありません もっと調和して平和な世界を実現するために 目的を明らかにしなければなりません 目的は存在する事です 存在が目的で 存在が価値で 存在が意味の根拠です なぜならこの世は存在が全てだからです。あの世は心の中の小宇宙にあるのでしょう 人間精神の小宇宙のことは千差万別ですから 文学や芸術や色んな文化の世界です。 エントロピーの増大も人間がいつの日かコントロールして エネルギー吸収型のリサイクル循環永久機関を実現できると考えます 生物まではエントロピーは増大するままですが、人間は組織化、秩序化で意識を持って 意識でエネルギーを出来るだけコントロールしていくようになると良いと思います。 キリがないのでこの辺で問いますが 人間はどうやったら未来の課題をクリアして 希望をつないでいけるでしょうか?人間は本当に滅ぶのでしょうか? 未来の新たな存在を実現する確率は 0なのでしょうか? 長文は苦手ですが ご意見を聞かせて頂けるとありがたいです。 よろしくお願いします。

  • 荘子は無神論者なのか

    荘子は無神論者なのですか?

    • m2150
    • 回答数10
  • ヰパッサナー冥想とは 痴愚主義のグローバル化か?

     日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか?  これが 問いです。  ▽ HP: http://www.j-theravada.net/index.html  ▽ (初期仏教の世界 / ヴィパッサナー冥想) ~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html  § 5. ヴィパッサナー実践の三原則  まずヴィパッサナー冥想実践法の三原則を覚えておきましょう。   1. スローモーション。   2. 実況生中継。   3. 感覚の変化を感じ取る。  一つ目は、スローモーション。からだをふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。  二つ目は実況生中継。今行っていることを、頭の中で簡単な言葉で確認すること。それを隙間なく、切れ目なくするのです。これを実行すると、雑念が消え、瞬時に集中力が生まれます。  三つ目は、感覚の変化を感じ取ること。手を上げたり、歩いたり、座ったりするたびに、からだの感覚が変わります。考えるときも激しく感情が変わっていくのです。これらの変化を何も解釈せず、感じることです。  この三原則に基づいて行動することが、ヴィパッサナー実践になります。  「そんな簡単なことでよいのだろうか」と、思うかも知れません。それも妄想です。そのような妄想に明け暮れるのではなくて、やってみることです。さまざまな妄想に迷うことなく、今ここに意識を保ち続けていれば、いつの間にか驚くほど、心が成長していきます。たったそれだけで、心とからだの関係が理解でき、落ち着いた心境に至ることができます。  何を気づいてもかまわないのですが、楽に実践できるように『歩くこと』『立つこと』『座ること』という簡単な動作で実践をします。そのうち日常生活の中でも気づきが実践できるようになります。  § 6. 歩くヴィパッサナー実践法  歩く冥想は、30分~1時間くらい時間を決めて集中的に実践する方法もありますし、日常生活の中で歩く度に実践するという方法もあります。どちらでも、自分の生活にあわせて実践すればよいのです。日常生活の中で歩くときは、「左足、右足、左足、右足…」と足の動きを感じて頭の中で言葉で確認しながらふつうに歩きます。  集中的に歩く冥想を実践するときは、まず背筋を伸ばして、手を前か後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、「左足」とこころの中で言葉で確認し、同じく「あげます」と実況しながら左足を上げ、「運びます」と実況しながら左足を運び、「おろします」と実況しながら左足を降ろす。次に、右足に神経を集中させて「右足」と確認し、「あげます」と実況しながら右足を上げ、「運びます」と実況しながら右足を運び、「おろします」と実況しながら右足を降ろす。このように実況中継を絶やすことなく歩くことを続けるのです。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひとをして思考停止にみちびき 聖なる白痴に到らしめる思想の運動ではないか?  ▽ 「左足、上げます、運びます、降ろします、右足、上げます、運びます、降ろします…」と隙間なく実況中継することだけでもつづけてみて下さい。  ▽ ブッダの時代から、悟りを開いた人は、坐る冥想より長い時間歩く実践をすることによって成長しました。歩く冥想は、眠くならないし、早く落ち着くし、体と心の調和が速やかに実現できる実践方法なのです。  西の地では カトリックの信徒のあいだに 例のエクソシストによる悪魔祓いをのぞむ者がそれとして増えていると言います。  このヰパッサナーなる実践は 人びとがあたかも煩悩祓いを欲していて そのために思考ゼロ主義を推し進めている。のではないだろうか?  煩悩は おのれのそれも他人(ひと)のそれをも すべて――相手やその情況に合わせて――《わたし》が 精神の胃袋でその人の状態や情況のありさまを分析しつつ消化したところで おのれの意志行為において飲み込むこと。これが さとりを得た者の実践であるはずではないか?  《雑念が消える》必要など必ずしもなく 《妄想を持った》ならこれをしっかりと分析してみればよく その場や互いの盛んなる煩悩の動きについてどうにか片付けようなどと思ったり試みたりする必要もなく まづは おのれは《わたしがわたしであり》 相手の状態をおのれの心におさめ 情況の推移を見守る。どこかに隙が出来たら そこからあたらしい局面や段階へすすめて行けばよい。    それに対して いまのヰパッサナーは 愚鈍化政策ではないのか?

  • ヰパッサナー冥想とは 痴愚主義のグローバル化か?

     日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか?  これが 問いです。  ▽ HP: http://www.j-theravada.net/index.html  ▽ (初期仏教の世界 / ヴィパッサナー冥想) ~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html  § 5. ヴィパッサナー実践の三原則  まずヴィパッサナー冥想実践法の三原則を覚えておきましょう。   1. スローモーション。   2. 実況生中継。   3. 感覚の変化を感じ取る。  一つ目は、スローモーション。からだをふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。  二つ目は実況生中継。今行っていることを、頭の中で簡単な言葉で確認すること。それを隙間なく、切れ目なくするのです。これを実行すると、雑念が消え、瞬時に集中力が生まれます。  三つ目は、感覚の変化を感じ取ること。手を上げたり、歩いたり、座ったりするたびに、からだの感覚が変わります。考えるときも激しく感情が変わっていくのです。これらの変化を何も解釈せず、感じることです。  この三原則に基づいて行動することが、ヴィパッサナー実践になります。  「そんな簡単なことでよいのだろうか」と、思うかも知れません。それも妄想です。そのような妄想に明け暮れるのではなくて、やってみることです。さまざまな妄想に迷うことなく、今ここに意識を保ち続けていれば、いつの間にか驚くほど、心が成長していきます。たったそれだけで、心とからだの関係が理解でき、落ち着いた心境に至ることができます。  何を気づいてもかまわないのですが、楽に実践できるように『歩くこと』『立つこと』『座ること』という簡単な動作で実践をします。そのうち日常生活の中でも気づきが実践できるようになります。  § 6. 歩くヴィパッサナー実践法  歩く冥想は、30分~1時間くらい時間を決めて集中的に実践する方法もありますし、日常生活の中で歩く度に実践するという方法もあります。どちらでも、自分の生活にあわせて実践すればよいのです。日常生活の中で歩くときは、「左足、右足、左足、右足…」と足の動きを感じて頭の中で言葉で確認しながらふつうに歩きます。  集中的に歩く冥想を実践するときは、まず背筋を伸ばして、手を前か後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、「左足」とこころの中で言葉で確認し、同じく「あげます」と実況しながら左足を上げ、「運びます」と実況しながら左足を運び、「おろします」と実況しながら左足を降ろす。次に、右足に神経を集中させて「右足」と確認し、「あげます」と実況しながら右足を上げ、「運びます」と実況しながら右足を運び、「おろします」と実況しながら右足を降ろす。このように実況中継を絶やすことなく歩くことを続けるのです。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひとをして思考停止にみちびき 聖なる白痴に到らしめる思想の運動ではないか?  ▽ 「左足、上げます、運びます、降ろします、右足、上げます、運びます、降ろします…」と隙間なく実況中継することだけでもつづけてみて下さい。  ▽ ブッダの時代から、悟りを開いた人は、坐る冥想より長い時間歩く実践をすることによって成長しました。歩く冥想は、眠くならないし、早く落ち着くし、体と心の調和が速やかに実現できる実践方法なのです。  西の地では カトリックの信徒のあいだに 例のエクソシストによる悪魔祓いをのぞむ者がそれとして増えていると言います。  このヰパッサナーなる実践は 人びとがあたかも煩悩祓いを欲していて そのために思考ゼロ主義を推し進めている。のではないだろうか?  煩悩は おのれのそれも他人(ひと)のそれをも すべて――相手やその情況に合わせて――《わたし》が 精神の胃袋でその人の状態や情況のありさまを分析しつつ消化したところで おのれの意志行為において飲み込むこと。これが さとりを得た者の実践であるはずではないか?  《雑念が消える》必要など必ずしもなく 《妄想を持った》ならこれをしっかりと分析してみればよく その場や互いの盛んなる煩悩の動きについてどうにか片付けようなどと思ったり試みたりする必要もなく まづは おのれは《わたしがわたしであり》 相手の状態をおのれの心におさめ 情況の推移を見守る。どこかに隙が出来たら そこからあたらしい局面や段階へすすめて行けばよい。    それに対して いまのヰパッサナーは 愚鈍化政策ではないのか?

  • ヰパッサナー冥想とは 痴愚主義のグローバル化か?

     日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか?  これが 問いです。  ▽ HP: http://www.j-theravada.net/index.html  ▽ (初期仏教の世界 / ヴィパッサナー冥想) ~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html  § 5. ヴィパッサナー実践の三原則  まずヴィパッサナー冥想実践法の三原則を覚えておきましょう。   1. スローモーション。   2. 実況生中継。   3. 感覚の変化を感じ取る。  一つ目は、スローモーション。からだをふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。  二つ目は実況生中継。今行っていることを、頭の中で簡単な言葉で確認すること。それを隙間なく、切れ目なくするのです。これを実行すると、雑念が消え、瞬時に集中力が生まれます。  三つ目は、感覚の変化を感じ取ること。手を上げたり、歩いたり、座ったりするたびに、からだの感覚が変わります。考えるときも激しく感情が変わっていくのです。これらの変化を何も解釈せず、感じることです。  この三原則に基づいて行動することが、ヴィパッサナー実践になります。  「そんな簡単なことでよいのだろうか」と、思うかも知れません。それも妄想です。そのような妄想に明け暮れるのではなくて、やってみることです。さまざまな妄想に迷うことなく、今ここに意識を保ち続けていれば、いつの間にか驚くほど、心が成長していきます。たったそれだけで、心とからだの関係が理解でき、落ち着いた心境に至ることができます。  何を気づいてもかまわないのですが、楽に実践できるように『歩くこと』『立つこと』『座ること』という簡単な動作で実践をします。そのうち日常生活の中でも気づきが実践できるようになります。  § 6. 歩くヴィパッサナー実践法  歩く冥想は、30分~1時間くらい時間を決めて集中的に実践する方法もありますし、日常生活の中で歩く度に実践するという方法もあります。どちらでも、自分の生活にあわせて実践すればよいのです。日常生活の中で歩くときは、「左足、右足、左足、右足…」と足の動きを感じて頭の中で言葉で確認しながらふつうに歩きます。  集中的に歩く冥想を実践するときは、まず背筋を伸ばして、手を前か後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、「左足」とこころの中で言葉で確認し、同じく「あげます」と実況しながら左足を上げ、「運びます」と実況しながら左足を運び、「おろします」と実況しながら左足を降ろす。次に、右足に神経を集中させて「右足」と確認し、「あげます」と実況しながら右足を上げ、「運びます」と実況しながら右足を運び、「おろします」と実況しながら右足を降ろす。このように実況中継を絶やすことなく歩くことを続けるのです。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひとをして思考停止にみちびき 聖なる白痴に到らしめる思想の運動ではないか?  ▽ 「左足、上げます、運びます、降ろします、右足、上げます、運びます、降ろします…」と隙間なく実況中継することだけでもつづけてみて下さい。  ▽ ブッダの時代から、悟りを開いた人は、坐る冥想より長い時間歩く実践をすることによって成長しました。歩く冥想は、眠くならないし、早く落ち着くし、体と心の調和が速やかに実現できる実践方法なのです。  西の地では カトリックの信徒のあいだに 例のエクソシストによる悪魔祓いをのぞむ者がそれとして増えていると言います。  このヰパッサナーなる実践は 人びとがあたかも煩悩祓いを欲していて そのために思考ゼロ主義を推し進めている。のではないだろうか?  煩悩は おのれのそれも他人(ひと)のそれをも すべて――相手やその情況に合わせて――《わたし》が 精神の胃袋でその人の状態や情況のありさまを分析しつつ消化したところで おのれの意志行為において飲み込むこと。これが さとりを得た者の実践であるはずではないか?  《雑念が消える》必要など必ずしもなく 《妄想を持った》ならこれをしっかりと分析してみればよく その場や互いの盛んなる煩悩の動きについてどうにか片付けようなどと思ったり試みたりする必要もなく まづは おのれは《わたしがわたしであり》 相手の状態をおのれの心におさめ 情況の推移を見守る。どこかに隙が出来たら そこからあたらしい局面や段階へすすめて行けばよい。    それに対して いまのヰパッサナーは 愚鈍化政策ではないのか?

  • ヰパッサナー冥想とは 痴愚主義のグローバル化か?

     日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか?  これが 問いです。  ▽ HP: http://www.j-theravada.net/index.html  ▽ (初期仏教の世界 / ヴィパッサナー冥想) ~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html  § 5. ヴィパッサナー実践の三原則  まずヴィパッサナー冥想実践法の三原則を覚えておきましょう。   1. スローモーション。   2. 実況生中継。   3. 感覚の変化を感じ取る。  一つ目は、スローモーション。からだをふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。  二つ目は実況生中継。今行っていることを、頭の中で簡単な言葉で確認すること。それを隙間なく、切れ目なくするのです。これを実行すると、雑念が消え、瞬時に集中力が生まれます。  三つ目は、感覚の変化を感じ取ること。手を上げたり、歩いたり、座ったりするたびに、からだの感覚が変わります。考えるときも激しく感情が変わっていくのです。これらの変化を何も解釈せず、感じることです。  この三原則に基づいて行動することが、ヴィパッサナー実践になります。  「そんな簡単なことでよいのだろうか」と、思うかも知れません。それも妄想です。そのような妄想に明け暮れるのではなくて、やってみることです。さまざまな妄想に迷うことなく、今ここに意識を保ち続けていれば、いつの間にか驚くほど、心が成長していきます。たったそれだけで、心とからだの関係が理解でき、落ち着いた心境に至ることができます。  何を気づいてもかまわないのですが、楽に実践できるように『歩くこと』『立つこと』『座ること』という簡単な動作で実践をします。そのうち日常生活の中でも気づきが実践できるようになります。  § 6. 歩くヴィパッサナー実践法  歩く冥想は、30分~1時間くらい時間を決めて集中的に実践する方法もありますし、日常生活の中で歩く度に実践するという方法もあります。どちらでも、自分の生活にあわせて実践すればよいのです。日常生活の中で歩くときは、「左足、右足、左足、右足…」と足の動きを感じて頭の中で言葉で確認しながらふつうに歩きます。  集中的に歩く冥想を実践するときは、まず背筋を伸ばして、手を前か後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、「左足」とこころの中で言葉で確認し、同じく「あげます」と実況しながら左足を上げ、「運びます」と実況しながら左足を運び、「おろします」と実況しながら左足を降ろす。次に、右足に神経を集中させて「右足」と確認し、「あげます」と実況しながら右足を上げ、「運びます」と実況しながら右足を運び、「おろします」と実況しながら右足を降ろす。このように実況中継を絶やすことなく歩くことを続けるのです。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひとをして思考停止にみちびき 聖なる白痴に到らしめる思想の運動ではないか?  ▽ 「左足、上げます、運びます、降ろします、右足、上げます、運びます、降ろします…」と隙間なく実況中継することだけでもつづけてみて下さい。  ▽ ブッダの時代から、悟りを開いた人は、坐る冥想より長い時間歩く実践をすることによって成長しました。歩く冥想は、眠くならないし、早く落ち着くし、体と心の調和が速やかに実現できる実践方法なのです。  西の地では カトリックの信徒のあいだに 例のエクソシストによる悪魔祓いをのぞむ者がそれとして増えていると言います。  このヰパッサナーなる実践は 人びとがあたかも煩悩祓いを欲していて そのために思考ゼロ主義を推し進めている。のではないだろうか?  煩悩は おのれのそれも他人(ひと)のそれをも すべて――相手やその情況に合わせて――《わたし》が 精神の胃袋でその人の状態や情況のありさまを分析しつつ消化したところで おのれの意志行為において飲み込むこと。これが さとりを得た者の実践であるはずではないか?  《雑念が消える》必要など必ずしもなく 《妄想を持った》ならこれをしっかりと分析してみればよく その場や互いの盛んなる煩悩の動きについてどうにか片付けようなどと思ったり試みたりする必要もなく まづは おのれは《わたしがわたしであり》 相手の状態をおのれの心におさめ 情況の推移を見守る。どこかに隙が出来たら そこからあたらしい局面や段階へすすめて行けばよい。    それに対して いまのヰパッサナーは 愚鈍化政策ではないのか?

  • 仏教の宗派について質問です

    初めてここに書かせていただきます。 私の家は元々「南無妙法蓮華経」を唱える仏教なんですが、 今度訳あって、般若心経を読むことになりました。 これって大丈夫なんですかね!?

  • ヰパッサナー冥想とは 痴愚主義のグローバル化か?

     日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか?  これが 問いです。  ▽ HP: http://www.j-theravada.net/index.html  ▽ (初期仏教の世界 / ヴィパッサナー冥想) ~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html  § 5. ヴィパッサナー実践の三原則  まずヴィパッサナー冥想実践法の三原則を覚えておきましょう。   1. スローモーション。   2. 実況生中継。   3. 感覚の変化を感じ取る。  一つ目は、スローモーション。からだをふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。  二つ目は実況生中継。今行っていることを、頭の中で簡単な言葉で確認すること。それを隙間なく、切れ目なくするのです。これを実行すると、雑念が消え、瞬時に集中力が生まれます。  三つ目は、感覚の変化を感じ取ること。手を上げたり、歩いたり、座ったりするたびに、からだの感覚が変わります。考えるときも激しく感情が変わっていくのです。これらの変化を何も解釈せず、感じることです。  この三原則に基づいて行動することが、ヴィパッサナー実践になります。  「そんな簡単なことでよいのだろうか」と、思うかも知れません。それも妄想です。そのような妄想に明け暮れるのではなくて、やってみることです。さまざまな妄想に迷うことなく、今ここに意識を保ち続けていれば、いつの間にか驚くほど、心が成長していきます。たったそれだけで、心とからだの関係が理解でき、落ち着いた心境に至ることができます。  何を気づいてもかまわないのですが、楽に実践できるように『歩くこと』『立つこと』『座ること』という簡単な動作で実践をします。そのうち日常生活の中でも気づきが実践できるようになります。  § 6. 歩くヴィパッサナー実践法  歩く冥想は、30分~1時間くらい時間を決めて集中的に実践する方法もありますし、日常生活の中で歩く度に実践するという方法もあります。どちらでも、自分の生活にあわせて実践すればよいのです。日常生活の中で歩くときは、「左足、右足、左足、右足…」と足の動きを感じて頭の中で言葉で確認しながらふつうに歩きます。  集中的に歩く冥想を実践するときは、まず背筋を伸ばして、手を前か後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、「左足」とこころの中で言葉で確認し、同じく「あげます」と実況しながら左足を上げ、「運びます」と実況しながら左足を運び、「おろします」と実況しながら左足を降ろす。次に、右足に神経を集中させて「右足」と確認し、「あげます」と実況しながら右足を上げ、「運びます」と実況しながら右足を運び、「おろします」と実況しながら右足を降ろす。このように実況中継を絶やすことなく歩くことを続けるのです。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひとをして思考停止にみちびき 聖なる白痴に到らしめる思想の運動ではないか?  ▽ 「左足、上げます、運びます、降ろします、右足、上げます、運びます、降ろします…」と隙間なく実況中継することだけでもつづけてみて下さい。  ▽ ブッダの時代から、悟りを開いた人は、坐る冥想より長い時間歩く実践をすることによって成長しました。歩く冥想は、眠くならないし、早く落ち着くし、体と心の調和が速やかに実現できる実践方法なのです。  西の地では カトリックの信徒のあいだに 例のエクソシストによる悪魔祓いをのぞむ者がそれとして増えていると言います。  このヰパッサナーなる実践は 人びとがあたかも煩悩祓いを欲していて そのために思考ゼロ主義を推し進めている。のではないだろうか?  煩悩は おのれのそれも他人(ひと)のそれをも すべて――相手やその情況に合わせて――《わたし》が 精神の胃袋でその人の状態や情況のありさまを分析しつつ消化したところで おのれの意志行為において飲み込むこと。これが さとりを得た者の実践であるはずではないか?  《雑念が消える》必要など必ずしもなく 《妄想を持った》ならこれをしっかりと分析してみればよく その場や互いの盛んなる煩悩の動きについてどうにか片付けようなどと思ったり試みたりする必要もなく まづは おのれは《わたしがわたしであり》 相手の状態をおのれの心におさめ 情況の推移を見守る。どこかに隙が出来たら そこからあたらしい局面や段階へすすめて行けばよい。    それに対して いまのヰパッサナーは 愚鈍化政策ではないのか?