NemurinekoNya の回答履歴

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  • ヰパッサナー冥想とは 痴愚主義のグローバル化か?

     日本テーラワーダ仏教協会の勧めるヰパッサナー冥想とは 痴愚神礼賛のグローバリゼーションではないか?  これが 問いです。  ▽ HP: http://www.j-theravada.net/index.html  ▽ (初期仏教の世界 / ヴィパッサナー冥想) ~~~~~~~~   http://www.j-theravada.net/4-vipassa.html  § 5. ヴィパッサナー実践の三原則  まずヴィパッサナー冥想実践法の三原則を覚えておきましょう。   1. スローモーション。   2. 実況生中継。   3. 感覚の変化を感じ取る。  一つ目は、スローモーション。からだをふつうのスピードで動かすのではなく、できるだけゆっくりスローな動きで行うこと。  二つ目は実況生中継。今行っていることを、頭の中で簡単な言葉で確認すること。それを隙間なく、切れ目なくするのです。これを実行すると、雑念が消え、瞬時に集中力が生まれます。  三つ目は、感覚の変化を感じ取ること。手を上げたり、歩いたり、座ったりするたびに、からだの感覚が変わります。考えるときも激しく感情が変わっていくのです。これらの変化を何も解釈せず、感じることです。  この三原則に基づいて行動することが、ヴィパッサナー実践になります。  「そんな簡単なことでよいのだろうか」と、思うかも知れません。それも妄想です。そのような妄想に明け暮れるのではなくて、やってみることです。さまざまな妄想に迷うことなく、今ここに意識を保ち続けていれば、いつの間にか驚くほど、心が成長していきます。たったそれだけで、心とからだの関係が理解でき、落ち着いた心境に至ることができます。  何を気づいてもかまわないのですが、楽に実践できるように『歩くこと』『立つこと』『座ること』という簡単な動作で実践をします。そのうち日常生活の中でも気づきが実践できるようになります。  § 6. 歩くヴィパッサナー実践法  歩く冥想は、30分~1時間くらい時間を決めて集中的に実践する方法もありますし、日常生活の中で歩く度に実践するという方法もあります。どちらでも、自分の生活にあわせて実践すればよいのです。日常生活の中で歩くときは、「左足、右足、左足、右足…」と足の動きを感じて頭の中で言葉で確認しながらふつうに歩きます。  集中的に歩く冥想を実践するときは、まず背筋を伸ばして、手を前か後ろで組みます。左足から歩くならば、左足に神経を集中させ、「左足」とこころの中で言葉で確認し、同じく「あげます」と実況しながら左足を上げ、「運びます」と実況しながら左足を運び、「おろします」と実況しながら左足を降ろす。次に、右足に神経を集中させて「右足」と確認し、「あげます」と実況しながら右足を上げ、「運びます」と実況しながら右足を運び、「おろします」と実況しながら右足を降ろす。このように実況中継を絶やすことなく歩くことを続けるのです。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは ひとをして思考停止にみちびき 聖なる白痴に到らしめる思想の運動ではないか?  ▽ 「左足、上げます、運びます、降ろします、右足、上げます、運びます、降ろします…」と隙間なく実況中継することだけでもつづけてみて下さい。  ▽ ブッダの時代から、悟りを開いた人は、坐る冥想より長い時間歩く実践をすることによって成長しました。歩く冥想は、眠くならないし、早く落ち着くし、体と心の調和が速やかに実現できる実践方法なのです。  西の地では カトリックの信徒のあいだに 例のエクソシストによる悪魔祓いをのぞむ者がそれとして増えていると言います。  このヰパッサナーなる実践は 人びとがあたかも煩悩祓いを欲していて そのために思考ゼロ主義を推し進めている。のではないだろうか?  煩悩は おのれのそれも他人(ひと)のそれをも すべて――相手やその情況に合わせて――《わたし》が 精神の胃袋でその人の状態や情況のありさまを分析しつつ消化したところで おのれの意志行為において飲み込むこと。これが さとりを得た者の実践であるはずではないか?  《雑念が消える》必要など必ずしもなく 《妄想を持った》ならこれをしっかりと分析してみればよく その場や互いの盛んなる煩悩の動きについてどうにか片付けようなどと思ったり試みたりする必要もなく まづは おのれは《わたしがわたしであり》 相手の状態をおのれの心におさめ 情況の推移を見守る。どこかに隙が出来たら そこからあたらしい局面や段階へすすめて行けばよい。    それに対して いまのヰパッサナーは 愚鈍化政策ではないのか?

  • 仏教の宗派について質問です

    初めてここに書かせていただきます。 私の家は元々「南無妙法蓮華経」を唱える仏教なんですが、 今度訳あって、般若心経を読むことになりました。 これって大丈夫なんですかね!?

  • 愛着ある選択したものに囲まれる

    愛着ある選択したものってだんだん増えていくと思います。 それって、ピースであるかごみであるかわからないものでもあります。 修正して、一つの有機体のようになるべきで、やはり捨てるべきなんだと思います。 変えようとしたり、自己多様化したりして収集したものを消していって、修正して一つのものにするっていうような感じってコツがあるでしょうか? 愛着で個を追及していろいろ選択していっての修正って自分らしさを追及して消して、新たな有機体になったとして、それって何なんでしょうか? 自分らしさって違うものともいいますし。収集したものを捨てないとごみ屋敷になりますし。自分を追及しているようで分裂ぎみで何かよくわかりませんし。 引き算のコツってありますでしょうか?断捨離かもしれないですが。 すいません。抽象的なステレオタイプなことをいいまして。

    • noname#209756
    • 回答数8
  • ダニエル電池において起電力と濃度の関係

    (-) Zn | ZnSO4 aq || CuSO4 aq | Cu (+) 負極 : Zn → Zn2+ + 2e- 正極 : Cu2+ + 2e- → Cu 全体 : Zn + Cu2+ → Zn2+ + Cu ここで、起電力の上げ方について質問です。 起電力を濃度で上げる方法が以下の記述にあります。 「放電により負極の溶液中にはZn2+が減少するので 硫酸亜鉛水溶液は希薄なほど、正極の溶液中ではCu2+が減少するので 硫酸銅(II)水溶液は濃厚なほど起電力は大きくなる。」 しかし、起電力については負極と正極の電位差次第で大きくなるとしか知らないので、 この説明をされてもわかりません。 高校でならう内容なんですか。 起電力が上がる方法の原則を提示してもらいつつ (解説は電位差で解説しておらず、濃度で解説しているので原則は存在すると思うんですが)、解説をお願いいたします。

  • 非斉次な2階の線形微分方程式

    fを実数として、非斉次な2階の線形微分方程式を積分定数を用いて解け。(xはtの関数) (d^2x/dt^2)+9x=fe^(2it) x=Ae^(2it)とすると、 A=f/5 ここからどうすればよいかわかりません。 詳しい解説お願いします。

  • 有限宇宙は必ずカオス化する

      熱力学第2法則によればあらゆる閉鎖系システムのエントロピーは常に増大し続け、最終的にはカオス化して安定することになる。 もしこの宇宙がビッグバンによって誕生した有限宇宙なのであれば、この宇宙は完全な閉鎖系システムとなり、熱力学第2法則に従い宇宙のエントロピーは増大し続けカオス化しなければならない。 しかし宇宙のカオス化を示すものは何もないのである。 現に我々の住む地球一つを見ても、常に生命が誕生し、人類文明はますます発展しているではないか。 地球はカオス化してはいない。 この事実こそ宇宙は有限ではなく無限であることの何よりの証拠ではありませんか。  

  • 相手の弱みにつけこんで取引するは倫理的にありか?

    一般的に、相手に何かの要求をするときに、相手の弱みにつけこんで、 取引化し要求を飲ませようとする行為は倫理的に善でしょうか悪でしょうか? 例えば外交カードです。自国の要求に従わない場合は、経済制裁をするぞなどと 脅して他国を従わせようとするような行為です。 あとは人質をとる誘拐やハイジャックなどの脅迫でしょうか。 金をよこせ、さまなければ危害を加えるぞ、という関係の無い条件を取引に持ち込みます。 セクハラもあるでしょうか。上司が女性社員に「俺と付き合わなければ、会社の立場を危うくするぞ」 漫画で言えば、のび太のママがのび太に「宿題を終えるまで、夕飯抜きよ!」とかでしょうか。 誘拐や脅迫は誰が見ても悪ですが、外交カードなどは普通に行われていますのでどうなのかなと思いまして。 倫理学の本を何冊か読んでみたのですが、この問題については書かれていませんでした。

  • 宗教カテゴリをつくるべきですか

    現在、宗教についての質問は、哲学カテゴリに投稿することになつてゐます。 宗教カテゴリをつくるべきですか。 実はこの件について、すでにOKWaveさんに問ひあはせをしてゐます。本来は、みなさんの意見をまとめてからすべきことなのですが、もう手遅れです。あとから、参考資料として、読んでいただくつもりです。

    • noname#214841
    • 回答数13
  • 《解説者》に 成れるのなら 当事者であり続けよ

     《アース役》論です。  (1) 心的な現象として たとえば半ば夢のごとく次のような状態があったとします。:   (あ) 事態を実況中継する自分と解説者となって脇から見て解説もしている自分と そしてそれらの自分をあたかも上から管理している自分とがいる。   (い) 管理する自分は キャスターやコメンテーターの自分を何かと叱ったり咎めたりしている。つまり ときどきガミガミ電波を垂れ流す。    (2) だとすれば これはけっきょくパワー・ハラスメントに遭っているおのれ ということにほか成らないのではないか?  (3) つまりはすべてを端折って言うとすれば そのガミガミ役に対するに《アース役》なる位置関係を ともかく――心の中では舌を突き出してアカンベエをしつつも――引き受けてやればよいのではないか?  (4) それとも そのガミガミ発言は 根拠がない。深慮にとぼしい。と明らかにしてやればよい。  (5) ともかく おのれは いくつかの自分を みづからの下に回収しなければならない。われはわれなりと。  (6) むつかしい。と言うなら そのよわさを認識しなければいけない。そして 誇るのなら よわさを誇ろうと言って行く。  (7) われであれ。  

  • この詞の意味分かりますか?皆様の解釈を教えて下さい

    花が美しい あぁ、死にたい 花があんまりにも美しい 美しすぎる あぁ、死にたい 死にたいんだよ、どうしようもなく 愛してる あぁ、死にたい 誰も彼も欲しい 意識も視界も記憶も肉も骨も皮膚もすべてのみ込んでこの世のすべての"生"が欲しい 愛しいんだよ なにもかも あぁ、死にたい 何で私は私という入れ物から出られないんだ? 風がみえる、空がみえる、空気がみえる、光がみえる、朝が、夜が…一秒一秒死んでいく  この一瞬のなかで殺してくれよ 風が空が空気が光が朝が夜が生きてるうちに、その瞬間のなかで死にたいんだよ その一瞬がすべてなんだよ 私を一瞬の中から引きずり出さないでくれ 昨日も今日も明日もぽろぽろと影にエサをやるように私は失い続けていく あぁ、もういいだろう死なせろよ 一歩踏みだす度に振り返る "今"自分がいた場所に何か忘れてきたような気がして 何か置いてきぼりにして、何か落としてしまった気がして  ぽとり、とハッキリ音が聞こえる 一時前の自分の姿がもうどこにもないことがあんまりにも不自然で、何かそこには残っているはずなのに 私がいたという証拠がない、ない、どこにもない あぁ、ひとりだ私は私とも一体にはなれない あぁ、死にたい 彼女は「死にたいと思ったのは初めて」と言った「常に死を思う人なんていない」とも なんだそれ それなら一秒一秒に死がない人生を教えてくれよ 一秒一秒が死んでいかない人生がどんなものか 私はここに在る あぁ、死にたい 一瞬を得ることはなぜこうも苦しいのか 私は一瞬が欲しいだけなんだよ 生きているというその一瞬が

    • floe10
    • 回答数5
  • 《聖なるあまえ》から《きよらかなおそれ》への変態

     1. 《聖なるあまえ》は ものごころがつく前におけるひとの心の状態を言います。  赤子が母親にあまえる――つまり 全面的に考えも計らいもなく身をゆだねるかのように心をゆだねている――とき これをひとつの典型として言う。  2. ところが 誰しも ものごころが着いて来ます。  《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼をも受けるようになります。  このとき聖なるあまえは どうなるか?  3. 幼虫がさなぎになる  聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。  きよらかなおそれは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。  4. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトの生まれつきなる自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ状態であると言うためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。  5. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであるとき その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置き換える。  言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――おそれすらを――まだ持てない状態であった。  6. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなのであるが その同じ内容が 主観の内面における思惟や意思決定のときにも 〔おそれとして〕現われる。  これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。  7. ウソをつくとき・イツワリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身も顔を赤らめ言葉もしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やましさを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。  つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。  8. つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》である。  9. 主観はつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツワリ)を仕出かし 軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。  10. 《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。  11.  つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠において――受け容れたことを意味する。  12. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れているものです。(無根拠にて受け容れているという意味です)。  13. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。  14. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・その限りで〕有効であるが しかも単純に社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に無力となる。  15. この情況における《わたし》は どう生きるか?  《きよらかなおそれ》のゆくえは?  16. 聖なるあまえ・もしくはきよらかなおそれ あるいは 《恥ぢ》を失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆくブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対して これを精神の胃袋で消化しつつ 引き受けるということ。泥をかぶるということ。  ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。  17. このシガラミの中にあって 無効の有力でしかないそのやはりシガラミたるゴミを――すなわちこのゴミは しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらってその身を飾り立てている・つまり おごり高ぶるゴミを―― あたかもみづからはアース役となって 呑み込みつつ処理していくということ。  18. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。  19. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。  無根拠なる根拠において ごみ処理工場と成る。  20. きれいな酸素をも供給するらしい。    義無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念としてすでに打ち出されているのであるが)。  以上を問います。

  • 数学を暗記科目にしたがる理由

    ネットで数学について調べていたら「数学は解法パターンの暗記だから暗記科目だ!」などという意見がちらほらと見受けられました。 これについて疑問があります。 一応数学も必要最小限の暗記は必要だと思いますが(公式や定義は覚えるしかないし)、でも解法パターンにいたっては「暗記」と捉えるより「経験」と捉えた方がしっくりくる気がします。 これって暗記なの?と首を傾げてしまいます。 それに、数学は暗記の苦手な私が唯一点の取れる科目で、覚える量の少ない楽な科目だと思っているのに(英単語は何百何千と覚えなくてはならないが、数学の公式はたったの数十程度)、数学を暗記扱いされると「数学は沢山暗記しなければいけない難しい科目だ!」って言われてる気分になるのです。 それなのに「数学は解法暗記で大丈夫!」などと言われると「暗記が苦手な人もいるんだぞ~」と叫びたくなります。 暗記が苦手だから数学しか出来なかったというのに~ まるで世間では「暗記=簡単」と認識されているかのような扱いです。 どうして、数学を暗記科目と見なす人が多いのでしょうか?

  • 電磁気学 ホロノーム系

    マクスウェル方程式の divB=0 rotE+∂B/∂t=0 EとBの変数は6つあるけれども、上記2つの方程式のためにすべて独立ではないという記述がある本を見つけました。 考えた結果、解析力学の拘束条件でホロノーム系をなしているという認識でいいのでしょうか? またその時、独立変数と自由度はどのように与えられるのでしょうか? ベクトルポテンシャルやスカラーポテンシャルは、従属変数を少なくするという目的で導入されたものという認識でいいのでしょうか?

  • 分かり易い、って。っても、関連資料

    http://www.youtube.com/watch?v=xKxF2417tzE http://www.youtube.com/watch?v=vH4wKN7U9Bw

    • kurinal
    • 回答数1
  • 二次関数の問題です

    Y=x²-2x-k²+2k-3 のグラフをCとする Cがx軸から切り取る線分の長さが4となるようなkの値を求めよ Cとx軸との交点をP.QとするとP.Qの座標は X²-2X-k²+2K-4=0 X=1±√k²-2k+4になりますが、そのx=になる間の計算式がわかりません教えて下さい。

  • 二次関数の問題です

    Y=x²-2x-k²+2k-3 のグラフをCとする Cがx軸から切り取る線分の長さが4となるようなkの値を求めよ Cとx軸との交点をP.QとするとP.Qの座標は X²-2X-k²+2K-4=0 X=1±√k²-2k+4になりますが、そのx=になる間の計算式がわかりません教えて下さい。

  • 和辻哲郎の一文を探しています。

    40年以上前、大学受験のテキストにあった文章です。記憶では偶像再興 が題でした。探しましたが見当たりません。数行の文章でした。当時、理解 した記憶、意訳は  怒り、人間の尊厳、根底から発する怒りは神の啓示で有る。  怒りを無視してはならない 偶像再興の序言の冒頭、偶像破壊に近い内容ですが、和辻哲郎の思想を 理解する上で重要になると考え、探しています。5~6行ないし12行までの 文章だったと思います。

  • 未満の逆は数学でどういう風に表しますか?

    「以上」、「以下」、「等しい」、「未満」とありますが、未満の逆はなんと言えばいいのでしょうか。 テストでは上の4つの表現はでてくるのですが、未満の逆のときだけ、『~より大きい』と表現されています。 「<、>」です。

  • 万物斉同の境地だと思う体験・経験

     「老子・荘子」(森三樹三郎著)に、 「昔、憎みあった間柄でも時間を隔てれば懐かしい、 これは万物斉同の境地を一瞬でも垣間見ているのではないか」  のようなことが書いてあるのですが、このような、万物斉同の  境地であったと思う経験や体験がありますか? 私は上記の体験ならあります。

    • m2150
    • 回答数3
  • 数学・算数の問題を解く際の思考について

    今、「比」を勉強しているのですが 他の単元でもそうですが、試行錯誤して解いて(答え合わせする前から間違ってるであろうと分かっている問題) 解説を見て、「なんで解いてる時にこんな事に気づけなかったんだろう」という事が多々あります。 840ページの本を 1/28:1/12:1/21の割合で三日間で読み切るとき、一日目は何ページ読むことになるかという問題で まずは通分だと思い 3/84:7/84:4/84にしました。が840÷84は10で、これでは三日間で読み切るというのに140ページしか進まず間違っているなと分かりました。 が、なんで間違っているのか分からず、途中で 「そういえば比で分数が出て来たら整数に直す物だよな」と思ったのですが 整数にしても3:7:4で、そのときの私は「やっぱり140ページにしかならない」という考えになってしまいました。 (他の問題、30個のりんごをAさんとBさんで2:3で分ける。というような問題は解けていました) そこで3:7:4だから全体を14で割るという考えに至れませんでした。 で、解説を見て、なんで気づけなかったんだろうという感じです。 全体を14で割るという知識自体が自分の中に無ければ解けなくて当然ですが 自分はそのことを知っていました。なのにそれに気づけず解けなかったんです。 ずっと全体を84で割るというのを引きずっていました。 これは、やはり私が馬鹿だからでしょうか? 理解力が乏しいからでしょうか?