kurinal の回答履歴
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- 天賦人権説の不変性について教えてください。
天賦人権説はひとつの説であると理解したうえで、天賦人権説の中では、人権は不変的な真理として扱われているのでしょうか?それとも時代によって変化すると考えられているのでしょうか? また、天賦人権説は、民主主義に馴染むと直感的に思うのですが、イスラム圏にみられる人権より神権が優先されるという考え方においては、人権はどの程度重んじられているのでしょうか?民主主義に慣れている私にとって天賦人権説はかなり真理に近いものと考えるのですが、そうでないとする反対の考え方が知りたいです。
- 学校で授業中に騒ぐ人達
こんばんは。 閲覧ありがとうございます。 私立高3年の女子です。 高校のクラスで授業中に騒ぐ人達が多い事に悩んでいます。 先生が注意しても騒ぎ続けるんです。 そもそも、高校は義務教育ではないし、そんなに授業を聞くより友達との会話の方が楽しいなら、授業を抜けて遊びに行って沢山話せばいいじゃないですか。 先生も先生で、注意しても聞かない生徒を何で退学処分にさせないんですか? 私立学校で、生徒は大事な「お客様」だから退学させないんですか? だったら、授業を真面目に聞きたい生徒も大事な「お客様」ですよね。 騒ぐ人達は騒ぐ人達で、真面目に授業を聞きたい人達はその人達をそれぞれ集めて、別々の教室で授業を行う位の事をしてもいいと思います。 真面目に授業を受けたい生徒は馬鹿みたいに映るのがやるせないです。 義務教育で、勉強嫌いな子も多く集まる小中学生が授業中に騒ぐのは、分からなくもありません。 けれど、高校は、苦労して高校受験をして入学する学校です。ましてや私立高校なら学費も半端ないです。 私は、高い学費を払っても、勉強をしたいからと高校まで進学する人達だから、みんな授業中も静かに先生の話を聞くのかと思っていましたが、現実は違いました。 私の友達に家庭の事情で学費を払えなくなり、やむを得ず高校を中退した人がいます。そんな風に高校に通いたくても通えない人がいるのに、高校に通える人がちゃんと授業を聞かないなんて、友達の事を思うと、涙が出てきます。授業中に騒ぐ人達は、高校に通って勉強したくても出来ない人がいる事は知らないのでしょうか。私は、友達の分まで、真面目に授業を聞いて、悔いの残らない高校生活を送ろうと思いました。 1、親に学費を払ってもらえるお金のある人達が授業中に騒ぎ、高校に通いたくても通うお金のない友達が泣く泣く高校を中退せざるを得ないなんて酷い世の中じゃないですか? 2、先生に授業中に騒ぐ人達は退学にして下さいと言ったらしてくれますか? 3、世の中、授業中に騒ぐ人達を退学にして、友達のように高校で真面目に授業を受けたいと思っているけれど、高校に通うお金のない人達にお金の支援をするべきじゃないですか? 質問の回答は1つでもいいので待っています。
- 「ちゃ」「ちゅ」「ちょ」などよく使われる文字
こどもが50音をほぼ覚えたので、次は濁音と「ちゃ」などの小文字を教えようと思います。 自分で読める!という体験をさせてあげたいため、よく使われているものを優先的に教えようと思いますが、 濁音、吃音、小文字、それぞれよく使われている文字を順に教えてください。 50音は見つかったのですが・・。
- 締切済み
- 日本語・現代文・国語
- tyunitan
- 回答数4
- 自分の考えや思想をどんどん変えていく方法
自分の考えや、価値観などを、どんどん変化させたいのですが、 変化させるスピードを速める方法はありますでしょうか? パッと思いついた方法は、 ・いろんな本を沢山読む ・いろんな人に沢山会う ・いろんな作品を沢山鑑賞る ・その他の知らない事・物を沢山知る、経験する こういう、よく聞くありきたりな方法しか私の頭では思い付かなかったのですが・・・ 他にもっと良い方法がある筈と思い皆様にお聞きしたく質問させて頂きました。 ※※ カテゴリーは『文学』に設定させて頂いておりますが、 適切なカテゴリーが分からなかった為に文学にさせて頂いきました。 皆様、お忙しい中恐縮でございますが、何卒よろしくお願い致します。
- 自分の考えや思想をどんどん変えていく方法
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- 「ちゃ」「ちゅ」「ちょ」などよく使われる文字
こどもが50音をほぼ覚えたので、次は濁音と「ちゃ」などの小文字を教えようと思います。 自分で読める!という体験をさせてあげたいため、よく使われているものを優先的に教えようと思いますが、 濁音、吃音、小文字、それぞれよく使われている文字を順に教えてください。 50音は見つかったのですが・・。
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- tyunitan
- 回答数4
- この文章の要約がどうしてもできません…
この文章の要約がどうしてもできません… 長文で大変申し訳無いのですが、教えていただけると助かります ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。 私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。 森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。 このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。 ぼくはひとりだったためしはない。 ぼくより前に生きて、 ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、 ぼくという存在のなかに 生きていたのだ。……… ぼくには空間が必要なのだ、 一族全部が生きるに足りるほどの空間が。 このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。
- 締切済み
- 日本語・現代文・国語
- pooo04
- 回答数3
- 哲学的にお勧めのテレビゲームは何ですか?
なにか哲学カテ的に、このテレビゲームは面白いとか面白くはないけれど、 知っておくべきだ、などなどあったら教えてください。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- kazamidori360
- 回答数14
- 金を行動原理としない最も簡易に人を操る手段が、容易
金を行動原理としない最も簡易に人を操る手段が、容易られない、通用しない人間と そうではない人間の利点欠点限界盲点とは? 皆さんにとって、 金を行動原理としない、 最も簡易に人を操る手段が通用しない人間と 金を行動原理にして、 簡易に操る手段が通用すり人間とは? 恋愛、哲学カテゴリー皆さんの ご回答のほど、 お待ちしております。
- 生きている意味、死んだらいけない理由
生きている意味や死んだらいけない理由が分からず苦しいです。何故自分は生きてるのか、他人の為にと言われましたが、自分の命なので、自分だけの意味や理由が欲しいです。何故生きているのでしょう。
- 生きている意味、死んだらいけない理由
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- 内包による善の定義
私が知りたいのは「正しいこととは何か」である。正しいこと、つまり善の定義である。 定義をする方法に内包と外延というものがある。 「正しいとは何か」と「何が正しいのか」つまり内包と外延。 “正しいとは何か”と問うことは正しいの本質とは何かということである。いうなれば多くの正しい行為に共通するもの、これがなければ正しいことではないという本質を求めることである、これが内包。 そして、次に“何が正しいのか”という問いは、正しい行為の現象を意味する。私たちは正しいとは何か、つまり正しいの意味、本質はよくわかっていないが、何が正しいことなのか、つまり現象は多く挙げることができる。 例えば、思いやりがある、正直である、人助けをする、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、これらが外延。 これら外延に共通するもの、それこそが正しいの意味であり、正しいの定義であり、正しいの本質なのである。つまり正しいとは何かの答えなのである。 正しい行為を挙げてみれば、思いやりがある、正直である、人助けをする、愛情がある、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、その他のすべての正しい行為に共通するもの、それは“私より公を優先すること、つまり公の為”なのである。そしてこの公の為というものがなければ、それは正しい行為とは言えないのである。 これらから善、正しいことの定義は“私より公を優先すること、つまり公の為であるとなった。 内包による善の定義をしてみたが、どこかおかしいところがあるだろうか? 正しい行為(外延)で公の為でないものが何かあれば教えてもらいたい。
- 内包による善の定義
私が知りたいのは「正しいこととは何か」である。正しいこと、つまり善の定義である。 定義をする方法に内包と外延というものがある。 「正しいとは何か」と「何が正しいのか」つまり内包と外延。 “正しいとは何か”と問うことは正しいの本質とは何かということである。いうなれば多くの正しい行為に共通するもの、これがなければ正しいことではないという本質を求めることである、これが内包。 そして、次に“何が正しいのか”という問いは、正しい行為の現象を意味する。私たちは正しいとは何か、つまり正しいの意味、本質はよくわかっていないが、何が正しいことなのか、つまり現象は多く挙げることができる。 例えば、思いやりがある、正直である、人助けをする、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、これらが外延。 これら外延に共通するもの、それこそが正しいの意味であり、正しいの定義であり、正しいの本質なのである。つまり正しいとは何かの答えなのである。 正しい行為を挙げてみれば、思いやりがある、正直である、人助けをする、愛情がある、正義感がある、人にやさしい、慈悲心がある、公平であるなどなど、その他のすべての正しい行為に共通するもの、それは“私より公を優先すること、つまり公の為”なのである。そしてこの公の為というものがなければ、それは正しい行為とは言えないのである。 これらから善、正しいことの定義は“私より公を優先すること、つまり公の為であるとなった。 内包による善の定義をしてみたが、どこかおかしいところがあるだろうか? 正しい行為(外延)で公の為でないものが何かあれば教えてもらいたい。