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どれだけきれいごとを言っていても

結局世の中は障碍者を下に見ているのではないでしょうか。 わかりやすいところでいえばパラリンピックです。 どう考えてもオリンピックのついでじゃないですか。 なぜパラリンピックをメインにやらないのでしょうか? 弱者を救うというパフォーマンスとしか思えません。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ww_s
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回答No.4

オリンピックの前にやるか後にやるかは別として、パラリンピックはオリンピックにくっ付いてるから意味が有ります。 パラリンピックを単独にやっても恐らく多くの人は無関心です。 また、オリンピックを超えた位置づけでパラリンピックを開催する意味を見つけるのは困難です。 弱者を救うというというよりは、オリンピックに出られない条件の人達でオリンピックと同等なことをしようというのがパラリンピックの位置づけです。 そこには同情も救済もありませんし、尊敬も賞賛もありません。 ただただ、オリンピックに出場して競い合うことが著しく不公平になる人達同志で世界的な協議会をオリンピックと同等の位置づけでやろう、というのがパラリンピックです。 なのでオリンピックと一緒にやらなければ、若しくはオリンピックと同等の位置づけでやらなければその意味はありません。 障害者の参加する競技会・大会はパラリンピックの他にも沢山ありますし、もしどれかの種目でそれが無かったり少なかったりして不都合なら新たに幾らでも障害者競技会を作ればいいんです。 その上でパラリンピックを障害者のオリンピックとして開くからこそ、意味が出てきます。 世の中が障碍者を下に見ているかどうかは知りませんが、パラリンピックでは障碍者を下には見てませんし、上にも見てません。 パラリンピックを見て障害者競技者を下に見えたり或いは尊敬したりした見え方が出来ますか。普通ならそういう見方は出来難いです。 ただし、競技の上で素晴らしい成績を残したり、素晴らしく上位に進出したりした選手を見れば多くの人達がそれなりに尊敬すると思います。その辺はオリンピックと同じです。

その他の回答 (4)

  • yaasan
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回答No.5

私もNo.2さんと同意見です。あなたがそのように見ているからこそ、そう見えるだけかと。 ただ、人間には感情がありますから、好き嫌いってのはどうしても出ます。嫌いの対象が障碍者であることもあるでしょう。その意味では綺麗事では片付かないとは思いますよ。 誰でも好きな人と嫌いな人を平等に見れることはないでしょう。

  • KoalaGold
  • ベストアンサー率20% (2539/12475)
回答No.3

誰かが言っていた「パラリンピックを先にやるべき」論に賛成です。 オリンピックムードを盛り上げておいて先にパラリンピックを開催し、途中開けて次が本格的なオリンピック、もう待ってました!となること確実です。そして視聴者も五体満足のありがたさを感じられるでしょう。

noname#255857
noname#255857
回答No.2

んーそれは質問者さんがそういう目で見ているから、 他者の行動もその物差しで測ってるだけだと思うよ。 上とか下とかそういう目を全く持ってない人は その発想すらしないと思う。 そして、たとえ下に見ていても、見ていると思っても そういうのは口に出さないほうが良い。 それが大人のモラルってものでしょう。 自身が障碍者で、下に見られてると思ったのなら 抗議してもいいけどね。

  • DESTROY11
  • ベストアンサー率23% (804/3490)
回答No.1

「下に」とは少し違うんじゃないでしょうか。 世界のシステムは「教育の出来ている健常者」を基準に作られています。 これから外れてる人に対応するには手間もコストもかかる。 いい言葉が思いつかないですが、「面倒な人たち」という感じなのかもしれません。

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