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晩年の親の言葉に涙したことはありますか?
- 晩年の親の言葉に涙したことはありますか?父が認知症と身体の衰えで介護が必要になり、訪問サービスやケアマネージャーとの相談が日常になっています。
- 父の言葉に涙した体験について、自身の親孝行について悩んでいる方も多いことでしょう。大人になってから親に感謝の気持ちを伝える機会は限られていますが、晩年の親からの言葉は心に深く響くものです。
- 晩年の親の言葉には、自身の親孝行への反省や感謝の気持ちが込められていることがあります。涙ぐましい努力をしていたつもりでも、親の言葉に触れると不安や後悔が湧き上がることもあります。
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fs64vvzさん、こんにちは。 親が年を取っていくのを見るのは辛いですね。 僕は祖父母に育てられ、就職してからは家を遠く離れ住んでいたので、実家に帰るのは盆と正月くらいでした。 祖父は僕が学校を出すまではと、定年後も長いこと働いてくれて、凄く恩を感じていました。 そんな祖父も、仕事をしなくなってからは急に老けて、足腰も弱くなり、ある年の正月に帰省したら、リハビリセンターに入っていて、そこに行くと丁度平行棒の長いのを伝わって、歩く練習をしてるところでした。 頭も大分ボケてる様で、会話らしい会話もできず、暫く一緒にいて「また来るからね」と言ってそこを去るときに、振り返ると泣きながら手を振っていました。 「また来るからね」とまた同じことを言って、出ていきましたが今でもその時のことが忘れられません。 その後リハビリを続けてもたいして良い結果は得られず、家に帰って寝た切りになってしまいました。 実家で寝たきりになってからは、祖母と、同居するようになった嫁と、すぐ近くに嫁いでいた叔母とで介護してましたが、数年後に老衰で亡くなりました。 いつも一緒にいて面倒を見てたのは祖母で、それは大変だったらしいです。 年を取って寝込むと頭もボケて、我儘になり、もう幼児と同じと言ってました。 何でも言うことを聞くわけにもいかず、無視したり、怒ったり、時にはたたいたりすることも有ったようです。 もうそれは仕方がないことですね。 祖母も辛かったと思いますが、もうそれしかできなかったでしょう。 祖父には分からなかったと思いますが、祖母はよくやってあげたと思います。 今はもう、妻や嫁が介護しなくても良いと思うし、自分もどこか良い施設に入ることを考えています。 年を取ってボケるのは、死の恐怖を忘れるためにあるのではないかと思っています。 そんな親との接し方も、ある程度割り切りも必要と思います。 親を思う子供の愛は、少しぐらい冷たくしても親も分かってくれると思います。
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- osarunokagoya2
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気になって位牌の裏をみたら、父が亡くなったのは平成10年12月。 今年で20年目。時間がたつのは早いものです。 毎年命日に静岡県の実家に墓参りにいきます。 父が亡くなる年に、私は離婚する報告をしにいきました。 父は、言葉少なに 「そうか。合わないのだな。」 とだけ言いました。 お嬢様気質の母と、田舎のロマンチストの父もまるで性格はあいませんでした。 神様もいじわるなことをなさるものだと私は思ったくらいです。 でも、言葉に出さず父は家族に精一杯愛情を注いでくれました。 「お父さんはね、『俺は土方になってでもお前たちを食わせていくぞ』 なんて言ったのよ。びっくりしたわ。」 母にとって、おカネは身体を使って稼ぐものでなくて金庫から沸いてでてくるものだったのでしょう。 母は子供を亡くしたあたりから心を病み、晩年は20年近く鬱病で病床にふしていました。そんな母を見捨てず一緒に生活してきた父は、父なりの愛情表現をして愛を全うしたのだと思います。何をしても喜んでくれない妻を微笑ませるのは司法試験の合格証書だったのか実家をしのぐほどの収入であったのかわかりませんけど、父は自分が与えられる愛をせいいっぱい与えながら生きたのだと思います。
お礼
osarunokagoyaさん、こんばんは。 父が先日バスタブから出られなくなって救急隊騒ぎになり、その後さらに頭の具合も悪くなったようで足が弱っているのに徘徊しようとし大変になっていて、お礼が遅くなったことをお許しくださいませ。 >そんな母を見捨てず一緒に生活してきた父は、父なりの愛情表現をして愛を全うしたのだと思います。 今、母が精一杯父に愛情を注いでいます。それはそれは84歳の母にとっては大変なものです。24時間、寒いだの暑いだの痛いだの言っては「○○子(母の名前)さ~ん」と呼ばれ続けています。 赤ちゃん返りした父ですが、娘たちのことは忘れても、そうした母の愛情だけは忘れずに旅立ってほしいと思います。 再度の心温まるご回答ありがとうございました。
- 19800923d
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こんばんは^^ 私は、母が19歳の時に産まれた子でして、自分の母はまだ元気なのですが、 夫は6人兄弟(姉も有り)の5番目なので、 義理の母が、私の祖母とあまり変わらない年代なのです。 その義母が痴呆になり、私は、 自分が働いてる時間はデーサービスにみて貰いながら、 独り暮らしの義母の家に通って面倒をみていました。 深夜に夫が帰宅して、義母の家に泊まる時間に交代して自宅に帰り、 自分の家の事をしたり、ペットの面倒をみたりして、 また朝食の時間までに義母の家に、食事を持って行き、 三人で朝食を食べて、夫を送り出し、 デイサービスの迎えが来るまで義母と過ごす。 それから夕食を準備して、義母の家を出て会社に行きながら買い物をする。 (お買いものしている時間や食事wp作る時間を、一人で待てないので^^;) こんな毎日が続いて、私は体の疲れから、 心もスッカリ疲れていました。 義母がグループホームに入れる事になり、 私には、仕事が休みの日休息したり、 仕事帰りに買い物したり出来る毎日が訪れました。 入居した義母に、私は3ヶ月くらい会いに行きませんでした。 一生懸命に笑顔を絶やさないで接していて、 仲良く楽しく接しているように、周りには見えていたと思いますが、 周りの人や自分自身が思っている以上に、 私は疲れ果てていて、 入居後の義母に会いに行く元気は、どうしても出なかったし、 お世話している期間に、「あ~こんな毎日、、、イヤだな。。。」と と、自分でも知らないうちに、 すごく思っていたのだと思います。 3ヶ月過ぎて、義母のお世話になっているホームに初めて行きました。 (夫は毎週末に行っていました) 私の夫以外の、自分の娘も息子も、分からなくなっている義母が、 私を見て涙を拭いながら、 「毎日、毎日、あんた(私)の事ばっかり考えてたんだよ(>0<) 何処行っちゃったんだんべ~? 今頃、何してんだんべ~?・・・って」 と言いました。 私はその時に、なんだか涙がこぼれて止まりませんでした。 これ以上、ドウにもしてあげられない。 自分の生活や体が、やっぱり大切に思ってしまう自分がいて、 「ごめんね」という思いがしました。
お礼
19800923dさん、お礼が遅くなって申し訳ありません。 お姑さんにそんなに尽くしたとはご立派の一言に尽きます。 今回のご回答の皆様の中にもそのような方がおられましたが、シングルマザー歴15年の私には到底想像できる世界ではありません。 切ないですね・・・ でも、介護は自分の身体ありきですから、ある程度仕方ないことなのかもしれないと皆様のご回答を読んで思いました。 そして、親が子どもを恋しがって泣くのは、それくらい孝行した証なのだと思うことにしました。 19800923dさんは精一杯されたと思います。 父はこの秋急激に悪くなったものですから、まだ私もセンチメンタルになっている余裕があるのですが、これがやはり何ヶ月何年と続くとやはり本当の身内でも身体が辛くなってくると思います。 それでも後悔はしたくない、割り切りも必要、といろいろ考えました。そんな中で、19800923dさんのご回答を読んで、一緒に泣くのもまたありだなと思えました。 ご回答ありがとうございました。
- osarunokagoya2
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5さんの「歳をとってボケるのは死の恐怖を忘れるため」という言葉は、優しい言葉ですね。きっとそうなのかもしえません。 私の父は、照れ屋で心根は子煩悩で愛情豊かな人でしたが、それを家族に伝える術を持たない大正14年うまれの純朴で不器用な人でした。 遠州地方の片田舎で田んぼを駆け回っていた末っ子が、あるとき一念発起。商業高校の定時制から北大の教員養成課程をめざし、さらには法科に進学。 弁護士になる夢を抱いて私の母と見合いで結婚しました。 母は地元の大地主の末娘。終戦の混乱がおちつきかけた昭和28年、 病気で当主を失った母の実家の混乱のなかでまとまった縁談でした。 父の目論みは高校の教員をしていた母に食わせてもらって自分は専業受験生 になろうという計画。それが1月にでかけた新婚旅行の伊豆の湯河原で 母は私を身籠ってしまった。 「親父。わるかったね。俺が生まれたばかりに、夢が潰えてしまった」 「・・・・バカ言え。」 何かをこらえる口調で下を向いた父は、黙って曇ったメガネを拭いていた。 司法試験の話は、家族の間ではタブーだったけど、孫が生まれる頃になって やっと気負わずにその言葉が言えた。 公務員の貧しい家庭で私立には行かせないと言っていた父が「中央の法科なら 学費を出すぞ」と言った時は驚いた。 よほどの憧れと夢だったのだろう。 父が他界して18年になる。退職後の仕事で父の目指した法曹の末席 「司法書士」を目指している。予備校に通ったくらいではうからなかった。 「おまえ、司法書士は誰でもなれるだろ。」 「親父。今じゃ合格率3%の難関なんだよ」 「毎日ネットで遊んでいたらうからんだろう」 「うかったら、泣いてくれるか?」 「馬鹿言え。・・」 親父がはにかんで笑った気がした。
お礼
osarunokagoyaさん、おはようございます。 お礼が遅くなり申し訳ありません。 寡黙で勉強家だったお父様なのですね。 osarunokagoyaさんは今、司法書士を目指しておられるのですね。 幾つになっても勉強家のところがお父様に似たのですね。 私は身体の弱いところが父に似てしまったようで、トラック運転手の仕事は好きでやっているんですけれども相当身体を壊しながら47歳まで生き延びています。 うちは、母の方が似たような話です。 日舞の花柳流の師匠の資格を取り、お披露目のステージという時に私を身ごもり、華々しい引き抜きのある題目「清姫」を諦めたと言っていました。 以来日舞はやっていません。 父は、身体が弱く転職の多い人でした。 一時は生活保護をもらおうかと思ったほど、私が子どもの頃は生活に困窮したようです。 それからずっと共働きで私と弟を育ててくれました。 しかし、父は短気で激情型の雷親父で、よく私はぶっ飛ばされていたものです。今なら児童虐待です。 認知症の初期は「俺はそんなことしていないぞ」と、都合の悪いことだけ忘れていたのですが今は私が子どもの頃のことはいい思い出も記憶が全くなく、数分前のことも忘れる始末です。 そんな父ですが私が困った時は必ず手を差し伸べてくれる父でした。 その父が、何故「俺は何もしてやれない、悪い父親だった」と泣くのか・・・。 布団を自分で掛けることすら出来なくなり、私が世話を焼くと「すいません、すいません」と恐縮しているところから見るに、自分の情けなさばかりが脳の中でクローズアップされてしまっているのかも知れません。 先日はそんな父に母まで涙してしまい、「そんなことないんだよ。あなたはこうして子どもたちを立派に育てたから、今恩返しをされているのよ」と、毛布の毛玉をひたすらむしりながら語る一幕がありました。 「おお。そうかね」 と納得しても、数分後にはまた同じことを言って泣くを繰り返す父。 あと何年生きてくれるか分かりませんが、自分のことを後悔してばかりいず幸せに旅立ってほしい、そのために家族が何が出来るか。それを今模索中です。 ちょっとした小説の一幕のような、心温まるご回答ありがとうございました。
- lolipop-sapporo
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私の場合、確かに父親は涙もろくなりましたが、私が「涙した」ことは残念ながらありませんでした。 父親は6年ほど前に他界したのですが、その数年前から「脳梗塞」による認知症的な症状があり、亡くなる3年くらい前からは近隣の病院を転々としていました。で、その際に父が涙ながらに私に向かって「心配かけてすまんな」と言ったのですが、私が「心配よりガソリン代がかかる」と返したため、周りにいた親戚も含めて「ホロリときてしまう」雰囲気にならなかったことを記憶しています(笑)。
お礼
lolipopさん、こんばんは。 確かに感情論だけでは介護は成り立ちませんね。 はい、我が家も実家と自宅を行き来したり買い物などに出てあげて地味にガソリン代はかさんでいます。 今後の介護サービスのため、私も病み上がりですが働いてお金を捻出しなければなりません。 本来長距離トラックの運転手のスキルがあるのですが、いつでも帰れるよう地場の仕事で就職活動中です。 地場とはいえ、一旦積んだ荷物は届けなければならないし、空荷で帰ったとしても数時間かかりますから親の死に目には会えないかもしれません。 その時に悔いの無いよう、出来る孝行をしたいと思っています。 他の回答の方が仰っているように、割り切りも必要なのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。
こんにちは^^ 母が事あるごとに話すのは 「子供が幸せでいてくれることが一番の親孝行だよ」 私も子をもつ母の身ですから ホロリとするより心から共感いたします。 親のサポートが出来るのもこれまた幸せなことです。
お礼
MJさん、こんにちは。 そう、子どもの幸せとは、親は最後まで思い続けるもののようですね。 MJさんなら過去のやりとりでご存知だと思うのですが私は男性で大変苦労し続けました。 父は今、このような状態になっても、時々「fs64vvzを不幸にした男は許せない」と口にすることがあります。 また、自分の娘に対しても、私はきっと死んでも気になるんでしょうね。 まだ彼氏すら居たことがありませんが、私の目の黒いうちは男で不幸にはさせないつもりです。 >親のサポートが出来るのもこれまた幸せなことです。 悔いの残らないよう自分に出来る限りのサポートをしていきたいと思います。 ご回答ありがとうございました。
- 2012tth
- ベストアンサー率19% (1893/9468)
50代♂ 回答 有りません。 元々父親は、無口で母親は喋り魔。 母親が話しかけても、父親は黙って頷くだけ? その上で、父親が要介護に成りさらに喋らなく 成って、逆に母親は、独り言が多く成っています。 父親と母親が居て、話し声が聞こえても母親が独り言? 状態で父親は、まるでお地蔵さんの如くそこに居るだけ… 一見すると不気味な光景が每日見れます。 他人から見るとまさにオカルトな感じらしい…
お礼
2012tthさん、こんにちは。 >一見すると不気味な光景が每日見れます。 他人から見るとまさにオカルトな感じらしい… お地蔵さん(笑) もともと寡黙なお父様なのですね。 お母様は留守番電話に話しかけているように感じていらっしゃるかも知れませんね。 楽しいご回答ありがとうございました、少し自分が明るくなれた気がします。
- kamejrou
- ベストアンサー率17% (191/1107)
こんにちはfs 64vvzさん 親孝行にこれで十分と言うことはないのでしょうね この私にしても、ああもしてやればこうもしてやればと 悔いばかりが残っております でもfs64vvzさんは良くやっておられる立派です どんなに親孝行しても悔いは必ず残るのです、 ただ悔いを小さくする事は出来るでしょう、苦労でしょうが どうか精一杯やったと自分に胸の張れる悔いのない親孝行をして差し上げて ホロリとした言葉? 私の父は三十年前になくなりまして母もそれから十五年後でしたが 生前は余り意識したこともありませんで ある朝、母の部屋を覗きましたら一人静かに逝っておりました 前の夜まで家内と私の三人で楽しく談笑していたのですが 予感でもあったのでしょうか? 遺書を書くような人でもありませんでしたが遺書がありまして 「長いあいだどうもありがとうお世話をかけた」家内への感謝ばかり それで私のことを頼みますと最後まで私のことを案じておりました 家内も時には衝突もあったようですが何時までもすがって泣いてました どうも私も最近はお父上と同じで涙もろくて これを書いていても泣けてくるのですが親は何時までも子供は心配のようです
お礼
kamejirouさん、おはようございます。 >親孝行にこれで十分と言うことはないのでしょうね そうですね。 自分は今とにかく父と二人暮らしの母が共倒れにならないかも心配で、ヘルパーさんを週何日か入れることを提案しているのですがお金の面で母が躊躇しているので病み上がりすぐですが就職活動をしているところです。 父は、「娘にはこんな情けない姿は見せられない」と言ってシモの世話を私がやるのは嫌がっているので、手伝えることと言ったらそうしたお金のことやケアプランを決めるなど重要事項の決定しか出来ないでいます。 父を思って、足腰が悪くなっても乗り降りしやすい車をと今の車を選んだのにもうその車にさえ乗れず介護タクシーでなければ移動できなくなりました。 同じく両親を思ってバリアフリーの家を建てたのに、私の病気続きで手放してしまいましたし、私は不肖の娘です。 それでも、父は会えただけで嬉しいようで・・・。 >前の夜まで家内と私の三人で楽しく談笑していたのですが 予感でもあったのでしょうか? 遺書を書くような人でもありませんでしたが遺書がありまして 「長いあいだどうもありがとうお世話をかけた」家内への感謝ばかり お嫁さんに感謝して逝かれるというのは、あまりないんじゃないでしょうか。 kamejirouさんの奥様がいかに優しく、よくおやりになれた人だと伺えます。 私の父は生前からそんなことばかり言って家族を泣かせていますが、もう指が効かず遺書も書けないのでホロリと来るなら今のうちなのかもしれませんね。 今は、出来ることを精一杯やろう。そう決意を新たにできた、kamejirouさんのご回答でした。 ありがとうございます、私もまたお話しできるのを楽しみにしております。
- 山田 太郎(@f_a_007)
- ベストアンサー率20% (955/4574)
Q、老い先短い親にホロリとすることを言われたことはありますか? A、ありません。 >子に介護なんて面倒はかけない。 >最後の最後まで自分たちだけで生きていく。 >自分らも自分の人生を生きよ。 で、父は、最後の最後迄自分らだけで生きていました。 >すぐに帰省されたし。 と、主治医が電話してきたのは旅立つ9日前のこと。で、急いで実家に戻ると・・・。 父:何事かい? 私:何事も糞もない。すぐに入院せにゃー! 父:入院なんかせんでよか。 私:まあ、ともかく車に乗らんね。 翌日に、親戚一同に、「余命一週間」と知らせて事態は急展開。こうして、父は、91歳まで後一週間という日に他界。 >父の妹が、入院したよ! と電話があったのは、その3年後。急いで、見舞いに行くと・・・ 父の妹:もう、あたしの葬儀の段取りは付けた。 との驚くべき発言。聞けば、父の妹は、葬儀社の手配も、葬儀の段取りも、全部指示していた。そして、90歳の誕生日を少し過ぎた時、彼女の願い通りの葬儀が執り行われた。 先週、父のもう一人の88歳なる妹が一人で我が家へやってきた。離島から船旅をして電車を乗り継いで。 >いいかい、私と私の弟が死んだ時は、こうするんだよ! そう言って帰っていった。ホロリ発言とは縁もゆかりもない父の兄弟姉妹である。私の母と妻の母も、我が家へ引き取って久しい。96歳と98歳になる。共に、憎まれ口を聞いてもホロリとすることを言うなんてことはしない。 と、ホロリ発言なんてのは誰からも聞いたことはありません。が、「もう、あたしの葬儀の段取りは付けた!」と気丈に死に向かう父の妹の姿には、みーんなホロリ、ホロリでした。
お礼
007さんおはようございます。 なんとも豪傑なご家族ご親戚ですね。 でも、私も自分の死に際は見習いたいです。 立つ鳥跡を濁さず、潔く。 でも遺族にはその姿がホロリですよね。 九州の方ですか? 私の父にも半分九州男児の血が流れているけれど、そんなドライとは程遠く泣き虫になって、もう自分の生前整理も出来ません。 今はただただ、家族に面倒をかけていることと自分がもうすぐ旅立つことが悲しくて仕方ないようです。 ご回答ありがとうございました。
- zabusakura
- ベストアンサー率14% (2381/15945)
息子(私の弟)嫁と孫から、きついこと言われたと、早く、お父さん、迎えに 来てくれないかな。というのを聞いたとき。 弟、口は悪いけど優しい子なんですが、とにかく、もてなかった。 いや、ものすごい綺麗な子から告白されたら、きっと罰ゲームだろうとか 思う子で、今の嫁しか、いなかった。 あんな性格きつい人、一度も会ったこと無いくらい、きつい。 モテないって悲しい。その煽りが母に。
お礼
zabusakuraさん、おはようございます。 >早く、お父さん、迎えに 来てくれないかな。というのを聞いたとき。 それは切ないですね。 私も自分の娘に将来嫁ぎ先で同じ目にあいそう言われたら泣くと思います。 てか怒り爆発で別れさせるかな・・・・。 ご回答ありがとうございました、少しでも弟さんの生活に幸がありますように。
- double_triode
- ベストアンサー率26% (520/1997)
自分から「老い先短い」のせりふを吐くようになったとき,私は「焼きが回ったな。もうだめだな」と思いました。そしてじっさい,まもなく化学的に焼くことになりました。
お礼
doubleさんおはようございます。 >そしてじっさい,まもなく化学的に焼くことになりました。 え・・・余命宣告でもされたのかと一瞬思いましたが、焼きが回ったのシャレなんですよね??? 楽しいご回答ありがとうございます、機転のきくお答えの出来るdouble様はまだまだこれからですよ、これからもご回答楽しみにしています♪
お礼
5mm2さん、こんばんは。 先ほどまでも、実家に行っておりました。 5mm2さんのお祖父様とお祖母様との、まさに今その状況です。 一番大変なのは同居していて何もかも委ねられている母です。 私は大したことが出来ていませんが、父は私が行くと嬉しがってご飯もよく食べてくれ、fs64vvzちゃんありがとう、と繰り返します。 ご飯を作っているのは母なんですけどね。 そんな母が介護疲れせず報われるようなケアプランを立てています。 よほど、父のために家を買ったのが(結局私の病気で手放してしまいましたが)良い思い出になってくれたのかなと今は思います。 >年を取ってボケるのは、死の恐怖を忘れるためにあるのではないかと思っています なるほど、それもあるかも知れませんね。 私は、遺族が悲しまないよう、家族の顔や思い出を忘れて行くのが認知症と言う名の最後の思いやりだと思っていました。 先日訪問医の先生からもう意識がなくなり戻る見込みがないときになったらどうしますかと意思表示の書類を渡されました。 父は、「ここがいいよう、ここで死にたいよう」と。 病院や施設に入って延命措置を受けるつもりはないようなので最後まで在宅で頑張って看取ることにしました。 その道のりは5mm2さんがおっしゃる通り大変ではありますが・・・。 今の私に出来ることは少しでも多く働いて介護サービスに出るお金を補填することですが、そうなるとやっぱりあまり会いに行かれなくなりますから、割り切りも必要なのかなとご回答を読んで考えさせられました。 私なりの親孝行の形を模索していこうと思います、ご回答ありがとうございました。