江戸時代と明治の吉原
先日放送されたドラマ「吉原炎上」を観ました。
その中で登場する吉原では私の知識にある吉原と相違点があったのでいくつか質問させていただきます。
1、遊女は置屋に所属していて、そこから客の待つ揚屋に派遣されるの が遊里のシステム(現代の出張風俗のように)なのにドラマでは、
遊女が所属しているのも客にサービスをするのも同じ妓楼でなされ ているようだった。
2、花魁とは、座敷持ち以上つまりトップクラスの遊女の呼び名のはず なのに妓楼の遊女全てを「花魁」と呼んでいた。
3、花魁道中は、遊女が客の待つ仲ノ町の揚屋へ出向くのを遊女が旅に 出るという演出にしした廓の一大イベントであるのに、ドラマでは
単なるパレードのように描かれていた。
以上がドラマを観て疑問に思った点です。ドラマは明治四十年代の吉原舞台となっていたので、上記で挙げた吉原の習慣は江戸時代までで、明治期になると吉原も様変わりしたのでしょうか?
わかる範囲で教えて下さい。
お礼
nagata2017さま とっても興味深い回答をお寄せ下さり ありがとうございます。 貼ってくださったURLを早速開いて へぇ、そうだったの? みたいに感心してしまいました。 中国の事情もさることながら 日本での取引の様子などもわかって 貴重な情報でした。 試しにさっそくこの取引を 検討してみようかと考えております。 感謝です^^