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鈴虫寺のお願い事の反対の事が起こる

こんにちは。鈴虫寺に2週間前に行きましたが、お願いしたことの反対の方向にことが動いています。ずっと友達と仲良くしたいという感じのお願い事です。それがそのお友達が逆に冷たくなってしまって雰囲気最悪です。どうしたらよいでしょうか?再度京都に向かってお願い事したらよいでしょうか?自分の子供がうるさくしてきたので集中出来ませんでした。

みんなの回答

noname#231380
noname#231380
回答No.7

檀家でも信者でもない部外者風情が「寺で願い事」とか意味わからん事するからでしょう。 寺や神社は「先祖や神様に報告・感謝をする場所」であって、お願いなんて横着な事する場所じゃありませんよ。 ましてや観光で立ち寄っただけの自分とは何の関係もない寺でお願いとか、叶う訳ないでしょう(笑) 神様も仏様も「信者・信徒の為に存在する」のであって、突然やってきてお願いだけしていくような貴方の話を聞くほど暇でも寛容でもないですよ。 あとは、貴方のその「何か悪い事が起こるとすぐ神様仏様のせいにする」と言うその根性がダメなんでしょうね。

  • glee-glee
  • ベストアンサー率30% (127/412)
回答No.6

偶然です。 あなたがお寺に行ってお参りして来た事と、友達と雰囲気が悪くなってしまった事が、時期的に重なっただけです。 何かあると原因を求めて色々考え、何でもない事にその原因を結び付けてしまいます。 友達が急に冷たくなったのは友達の問題なので、あなたの中で理由や原因を無理矢理作らなくても良いのです。 それでも、もう一度お寺に行きたいのなら行けばいいけど、お参りされる側はどう感じるでしょう? 別に自分が何かした訳でもないのに勝手に自分のせいにされて、後から何か言われたとしても、気持ちの良いものではありませんよね。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34516)
回答No.5

お寺って別にお賽銭という料金を払ったらお願い事を叶えてくれるシステムのところではないですよ。それはあえていえば神社ではないかしら? 特に臨済宗は禅宗で悟りの境地に達することを目的としていますから、「願い事が叶いますように」というのは煩悩以外の何物でもないので、叶えてくれなかったからといってお寺のせいではなく、むしろ叶えさせずに逆の結果を与えることのほうが達磨大師の意に叶っているようにも思います。 元々達磨大師って壁に向かって座禅を組むような超絶にコミュ障なお方でしたからね。

  • zabusakura
  • ベストアンサー率14% (2381/15945)
回答No.4

お願い事をして全て叶うのなら世の中、悩む人なんて、いません。 そういうことです。

  • VIDEOFAN
  • ベストアンサー率20% (31/154)
回答No.3

私も旅行で鈴虫寺を訪問したことがあります。 沢山の鈴虫が飼われていてすがすがしい声を聴くことが出来、またお坊さんの説教も素晴らしと思いました。 あなたの願い事が反対になったとのこと、お気の毒なことです。 しかし、なんでも願った通りに行くものではないと思います。 願った通りになる場合とならない場合とは半々に起こります。 即ち10円硬貨を投げて、表が出る場合と裏が出る場合とはほぼ同じです。 ごくまれに、10円硬貨が垂直に立つこともあるかもしれません。 願い事は人や神仏に頼るのではなく、自分で切り開いていくものです。 相手の立場になって思いを馳せ、行動を起こせばおのずとあなたの期待した方向に向かうものと思います。 頑張ってください。

  • E-1077
  • ベストアンサー率25% (3258/12620)
回答No.2

その相手が本当の友達ではなかったということでは? それにしても、子供がいる年齢でその内容の願い事とは・・・かなりなんていうか、現状を見ていないというか・・・。幼稚とまではいかなくても、本当にそこに行ってまで願うものなのかしら?願わないとかなわないことなのかしら? 何回行っても、どこに行っても叶わない願いはあります。 また、逆の事が起きているから願いが叶わなかったという捉え方も間違っていると思います。 お参りしたから大丈夫という慢心は無かったですか?ご自身の言動を振り返り反省してみることから始まるのでは? お礼参りはしっかりしてくださいね。 また、神社などでの祈祷の手順を間違えては効果がないとされています。 そこももう一度振り返り反省してみては?

  • 177019
  • ベストアンサー率30% (1039/3444)
回答No.1

仏教徒です。この寺は京都の「臨済宗」のお寺です。鈴虫を四季を通して飼育しているので、「鈴虫寺」と呼ばれています。この宗派も一部で座禅を取り入れていますが、経教を用いず座禅によって見る自己の本性が仏性であり、仏そのものであるといいます。確かに衆生すべて仏とも言えますが、それは単なる理論上の仏であって、実際の仏ではありません。私達の心は所詮迷いの心であって、その心をいかに見つめても仏心を感ずる事は出来ません。だからお釈迦様は、「涅槃経」に「願って心の師となるとも心を師とせざれ」と説かれ、人の心は迷いの心であって、その心を師匠とすべきでない、と誡められています。ですから神社へ行ってお守りを買ってお願いをして来たが、全く御利益がなかった。このような事と同じで、いくら旅費を使って京都へ行っても、貴方の願いは通じる事はありません。

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