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浅草雷門の小舟町と書かれた大提灯

浅草雷門みなさんよく御存じの場所について質問です。 大提灯がぶら下がっています。小舟町と書かれています。 私の小学校の地元の地名だったはずです。 わたしは、日本橋川の土砂運搬船着き場の砂山で入学前はよく遊んでいました。 小舟町はあの辺の旧地名だったはずです。 小舟町の地元の友人たちに誰からの寄進か聞いたのですが、浅草雷門の大提灯に小舟町となぜ書かれているのか知りません。63歳になり、小学生の頃から小舟町の学区に居ながら謂れを聞いたことのない七不思議です。 どなたか教えてください。

みんなの回答

回答No.4

No.3です わざわざお礼を記入頂き有難うございます。 日本の文化について多少誤解があるのではないかと思い追加の説明をさせて頂きます。 >大昔に焼けてなくなった提灯が今あるわけねぇ。おまけにさいきんなんどかしんちょうされている。 とっくに賞味期限切れのぼろ提灯に新調の新提灯は嘘も甚だしい。 老朽化したり欠落したものを更新して後世に伝えるのが日本文化の特徴です。 腐食し易い木材を使い続けてきた日本人の知恵が生み出した文化です。 世界最古の木造建築物とされる法隆寺も何度も解体修理がされていました。 解体修理の際に腐食したり老朽化した部材は全て交換されます。 この際に古来からの技術が使われます。 解体修理が繰り返し行われていたことによって伝えられた技術で火災にあった金堂も再現されています。 伊勢神宮は式年遷宮と言って20年ごとに、建て替えます。 この日本文化の伝統に従えば提灯を更新しても何の問題もありません。 >氏子って知ってるかい。神社にはそれぞれ決まった町会がある。その町会に住む者が氏子だ。祭りのときは氏子の寄進帳を立て看板にならべる。氏子は他所の神社に寄進などしない。 氏子というのは神社に所属する人達のことです。 宝蔵門は浅草寺の観音様の門です。 つまり、氏子ではなく檀家です。 神社やお寺に奉納するのに当たり、氏子であるか檀家であるかは問われません。 どこの誰であろうと一向に差支えありません。 寄進や奉納は、お祭りの経費を賄う寄付金などとは本質的に異なります。 仁和寺、薬師寺など大寺院では解体修理の際に全国から瓦の寄進を受け付けています。 檀家であるか否かなど問いません。 浅草寺は坂東三十三観音の札所の一つです。 観光客の方だけではなく全国から善男善女がお参りにきています。 必ずいかばかりかのお金をお賽銭として納めておられでしょう。 仏教の場合は布施と呼ばれ自分の欲を捨てるための大切な修行の一つとされています。 >日本橋は京都のように社の多い、密度の高いところだ。 浅草までに神社は数限りない。大きなところで椙杜、神田、門前仲町の祭りなどたくさんの社があり、町がいくつも間を遮っている。浅草にゆかりがない。 ゆかりがあろうがなかろうが一向に差支えはありません。 従って遠い大阪の人である松下幸之助氏が雷門を寄進奉納しています。 松下幸之助氏は神田明神にも鳥居と随神門を寄進奉納しています。 深川(門前仲町)の富岡八幡宮のお神輿は佐川急便の佐川清会長が寄進奉納したものです。 佐川清氏は新潟出身の方です 会社は京都が本拠地です。 小船町の方々が浅草寺に寄進奉納されても何の不思議もありません。

masaban
質問者

お礼

やはり賞味期限切れだったのですね。ご回答ありがとう。 腐って無くなっているのに新しい魚を自分で買って、貰ったと言い募るとはあきれます。 腐った魚をくれた人も、どこの人だかわからないのに、ある地の人から届いたというのですね。

回答No.3

御記憶に基づく御質問かとおもいますが、多少錯綜されておられるようですので整理させて下さい。 浅草寺の門に大きな提灯を下げる習慣は「提灯に釣鐘負ける浅草寺」などと言う川柳にもありますように古くからのものです。 御質問の冒頭に 「浅草雷門・・・大提灯がぶら下がっています。小舟町と書かれています。」 とありますが、小舟町と書かれている提灯は宝蔵門の提灯です。 雷門の物は雷門と書かれています。 両方の門ともたびたび火災にあって再建されています。 雷門は慶応の焼失より実に95年間も雷門は再建されませんでした。 現在の門は、昭和35年(1960)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建されたものです。 つまり明治・大正・昭和35年までの間は雷門は無かったということです。 提灯も寄進され提灯に松下の名前があります。 提灯の奉納は松下が始めたものではなく、松下は吉例に従っただけです。 一方宝蔵門は昭和20年(1945)3月10日に起こった東京大空襲で焼失しました。 昭和39年(1964)にホテルニューオータニの創業者である大谷米太郎氏によって再興されました。 提灯は日本橋小舟町奉賛会より奉納されたものです。 以降度々張替えられて現在のものは平成26年に張替え奉納されたものです。(再建後4回目) これは元々宝蔵門の提灯は小舟町が奉納していたことに由来します。 小舟町が奉納するよになったのは万時二年(1659)或いは貞享年間(1684~1687)だとされています。 つまり、小舟町の名前入りの提灯と松下とは関係無いということです。 小舟町は埋め立て地だったはずとのご指摘ですが、 小舟町の河岸が面していた日本橋川は家康の時代の天下普請の際に江戸城の城郭拡充用の水路を東に延長して開かれたものです。 日本橋が架けられ日本橋川と呼ばれるようになりました。 日本橋よりも小舟町の河岸に近い江戸橋は、1632年(寛永9年)成立の『武州豊嶋郡江戸庄図』では写本によって江戸橋が描かれているものといないものがあります。 このために、創架年代を1631年(寛永8年)頃とする説と、次に登場する『正保年間江戸大絵図』(1645年~1648年)までの間とする説があります。 いずれにしましても、小舟町の提灯の奉納が始まったのが万時二年(1659)或いは貞享年間(1684~1687)ですので日本橋川の川筋から考えて江戸橋の対岸の小舟町一帯は当時既に陸地としてあったということになります。 >小舟町の地元の友人たちに誰からの寄進か聞いたのですが、浅草雷門の大提灯に小舟町となぜ書かれているのか知りません。 ??? 日本橋小舟町奉賛会というのがありませんでしょうか? 平成26年にも日本橋小舟町奉賛会の名前で奉納しています。 町内会あるいは商店街の集まりで再度聞いてみて下さい。 奉納に必要な資金を浄財(寄付)として集めているかと思います。

masaban
質問者

お礼

こちとら江戸っ子でい。講釈はよしとくんな。 歴史やけに詳しくありがとう住職さん。 本質は歴史じゃねぇ、嘘をつく野郎を懲らしめてぇんだ。 いくつあろうが、一番外の門の実際の大提灯の境内側に小舟町と書いてある。誰かが場所を入れ替え提灯を付け替えても関係ない。   結局 小舟町と無関係だ。  この今吊ってある新しい大提灯、どうごまかそうと小舟町は縁もゆかりもねぇ。  提灯やの大きなビルは熊倉金庫の大ビルの近所にあったけどな。 嘘と小言はでぇえっ嫌いでい。 大ウソつきの総理と大ウソつきの防衛大臣は日本の恥で許せねえ。  回答を読めば浅草の観音さんが、大昔から神を怖れぬ大ウソつきだったってことじゃねぇか。 偽装というのも嘘の一つ。賞味期限偽装ってのがあったな。言い逃れも江戸っ子ならしねぇ。 ありがたい回答に書かれたように大昔に焼けてなくなった提灯が今あるわけねぇ。おまけにさいきんなんどかしんちょうされている。  とっくに賞味期限切れのぼろ提灯に新調の新提灯は嘘も甚だしい。  日本橋小舟町奉賛会だって、だいたい60年生きてきた同級生の連中に音沙汰がなく、存在しない。  氏子って知ってるかい。神社にはそれぞれ決まった町会がある。その町会に住む者が氏子だ。祭りのときは氏子の寄進帳を立て看板にならべる。氏子は他所の神社に寄進などしない。  小舟町なら小網神社や常盤稲荷や出世稲荷波除神社や水天宮に寄進するなら、話は通るが、そこにも寄進しない小舟町がいまどき浅草に寄進するはずがない。  日本橋は京都のように社の多い、密度の高いところだ。  浅草までに神社は数限りない。大きなところで椙杜、神田、門前仲町の祭りなどたくさんの社があり、町がいくつも間を遮っている。浅草にゆかりがない。

  • takashi_h
  • ベストアンサー率61% (738/1198)
回答No.2

>350年前は小舟町はまだ海で、その後埋め立てられて、埋立地ができてからできた市だったはずだ 記憶違いでしょう。

masaban
質問者

お礼

回答者のように記憶できるはずのない大昔。江戸城の周りの地勢はできた当初は浜辺です。 ヤンヨーステンに出島を与えたら、埋め立ての結果、東京駅付近の八重洲になった。神田四谷赤坂大崎は陸だが、小舟町方面は海です。

  • f272
  • ベストアンサー率46% (8469/18131)
回答No.1

googleでちょっと検索すると https://ameblo.jp/heih00/entry-10393117302.html 今から350年ほど前に日本橋小舟町の魚河岸の信徒の方々が、その心意気を示すものとして奉納した事が発端となっているとの事でした。 と書いたあった。 こちらには http://nihombashi-tokyo.com/jp/history/122.html 1657年に日本橋魚河岸の信徒が信仰の証として奉納したのが始まりだといわれています。 と奉納した年まで書いてある。

masaban
質問者

お礼

早速ご回答ありがとうございます。 そういうWEB記事があるんですかー。 二つのアドレスが何やら怪しげですなー。 魚河岸が小舟町にあったのは、小学校で習った記憶があります。魚河岸は日本橋のたもとに移り築地に移りどんどん場所を変え変遷したということも習った。 ただし浜、海岸線を考え、時代を考えるとウェブに書かれた記事の話がおかしい。  海岸河口に魚河岸があり、350年前は小舟町はまだ海で、その後埋め立てられて、埋立地ができてからできた市だったはずだ。  魚は人間ではないから奉納するのは無理だろなー。   浅草海苔がその時代どこで作られたかご存知でしょう。  そして大提灯は私が50年前に小学校の頃に見たより新しい。柿渋なしの和紙でできているから、破れ傘よりもぼろぼろのはずだ。  賞味期限切れの提灯に包装紙を入れ替えて、偽装をして神罰、仏罰が下るよね。作り話までくわえたら。  お守りは一年期限で焼きあげるし、しめ縄にも賞味期限がありますよね。齢60を過ぎた地元の名士たちが知らぬのにどうなってるのだ。  記事に書いてあるな「ちなみに雷門の大提灯の奉納は、日本を大手家電メーカー・パナソニックの創業者で、「経営の神様」といわれた松下幸之助さんが始められ、同社がいまも引き継いでいます」って、私の50年前に見た提灯とは別物じゃないですか。  語りの新手なんだ。びっくり。いや古手なんだな。  電通のシナリオかなー  

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