- ベストアンサー
能に関してです。
国立能楽堂に描かれているのは老松ではなく相生の松だそうですが、それで間違いないでしょうか、ご存知の方教えて下さいお願いします。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
補足にお答えします。 最初に追加の方を言いますと、そりゃあいないでしょう。現代の日本画家としてそれに従わなければならないと考える人はもういないでしょう。 北海道の小樽市に残る旧岡崎舞台が小樽市公会堂に移築されていますが、この松が狩野派の伝統の絵だという話もあります。これは明治に十七世だとかいう狩野もちのぶが描いた由です。果たしてこの松が、どこまで伝統を墨守したものか、現代の能舞台を見慣れた(たいへんに多様な絵をいろいろ見た目で)体験からはこれは古い伝統だとわかるものでしょうか。 それで、先に出された格式の問題ですが、これはわかりませんというのが答です。 御殿の障壁画を描く役目の幕府奥絵師は、狩野派が主流ですが四条円山派もいました。だから円山派の絵でも正統なのです。主流は狩野派でも。 格式が定められた中で、第一は江戸城本丸表舞台でした。これより格式が落ちる江戸城二の丸舞台、今はありませんが二条城二の丸舞台、全国各地のお城の舞台、これらは江戸城本丸表舞台に準ずる格式で建てられました。 これらは残っていません。だからわかりません。 彦根城御殿の舞台は保存されていたものを組み立てた(日本建築はそういうことができる。復元ではなく昔のものを組み立てたけれども、もともとはいつのものかは存じません)のは、古い形を守っているかもしれません。 松については、幹と枝に描かれた葉は江戸城本丸は「三十三蓋半」で最も格式高く、他の舞台はそれより少なく描くと聞いたことがあります。ただ、重なり合っている松の葉をどういうふうに数えて三十三蓋半なんでしょうか。七本五本三本とも聞いたことはありますが、サザエさんの頭を平べったくつぶしたような葉の間にどう枝が延びているかはわかりませんし、古い舞台は中尊寺だとかそういうもの、地方の寺社に残るものなどで、いま見られるのは近代のものですから、想像もつきません。現存していないのですから。 図面では、中山家といったか、建築史に詳しい方がご存じと思いますが幕府のお抱え棟梁の家に「棟匠」とかいうような書名の図面集がありますが、ここに能舞台の図があります。 「絵」は、狩野家の「粉本」にあるのかどうか。 能の研究家でもこれを深く研究した人は、寡聞にして存じません。舞台構造は研究テーマになりにくい。 建築家では、奥富氏といったか、現存する舞台の研究をなさった方がいて、読んだことがありますが、能楽史的意味はよく分かりませんでした。 よくわかっている格式は、屋根が「入母屋造り」か「切妻造り」か「寄棟造り」かで、これは寺院や御殿の入母屋が一番格式が高いというのと全く同じで、能舞台に限ったことでなく日本建築すべてと同じ基準です。 垂木が二軒(ふたのき)というのもあります。地垂木の上に飛えん垂木を載せ、軒先から屋根の下をみると垂木が二重になっている方が格式は高くなります。これはお寺の金堂や五重塔の写真を見てください。 これは今現在の能楽堂に行けば、ここは切妻造りだここは二軒だというのが見てわかります。 で、国立能楽堂は一軒(ひとのき)です。格式が低い造り方だと言えばそうですが、江戸時代のような庭上の舞台ではありません。屋外舞台ならば、入母屋で二軒の方が格式高いと言えますが、大きな客席全体の屋内に屋根のある舞台を造るのですから、軽快に切妻の一軒にしないと重っ苦しくて「うざい」のです。だから古式の格式は相手にしてられないのです。 松の絵については、江戸城は何度も火事になり、明治以降の舞台は関東大震災にも空襲にもあっていますから、わかるとすれば狩野家に粉本があるかどうかでしょう。
その他の回答 (1)
- tarohkaja
- ベストアンサー率29% (66/221)
そういう事です。 国立能楽堂を建てるとき、この松を揮毫してもらうのに、文化庁は後から何であんなのに描かせたと言われないように、名前の通った人、芸術院会員ならば文句は出ないだろうと、森田曠平さんに依頼しました。 森田曠平さんは能を知らない。だから文化庁は松野秀世さんという能画家を助手につけました。この人は松野奏風という能画家の子息で、二代にわたり能画作品や戦後に各地に建てられた能楽堂の松の揮毫、古い舞台の修復に実績のある親子です。 ところが森田曠平さんは、自分の芸術作品を作るのであり、風呂屋の壁にある富士山と三保の松原みたいなものを描くつもりはない。 松野秀世さんが言う能舞台の約束事なんかに耳を貸すわけにはいかないのです。 画家としての矜持をもって好きに描いたら老松でなく夫婦松になった。 そういう事です。 文句は出ないはずの芸術院会員の絵に、できたときに大騒ぎになりました。これはおかしいと。当時は勢いのあった新潮社の「フォーカス」をはじめ週刊誌がこぞって取り上げました。 森田曠平さんは動じませんでした。画家として作品に自信を持っていたからです。 屏風や襖絵ならば称賛を浴びていたでしょう。ところが目的は、風呂屋には富士山が書かれているような、能舞台に決まりものの老松なんです。(そこまで極論はいけないかもしれない。風呂屋の富士山なんかではない名画もある) それでは能舞台の松として間違っているのか、 はい、近代の常識的伝統からは外れています。 でもこれでいいのです。 そもそも能舞台は、柱と柱の間に壁はありませんでした。洛中洛外図屏風のなかにある「くわんぜ能」の図では、舞台は四本柱がらんどうです。それから、後背部にだけ腰高の下半分だけの壁ができ、やがて後背部全面に壁ができました。 家康のころの観世大夫は「舞台の一部が壁になっているのはよろしくない。四方全面開放されていないといけない」と言っています。 現存最古の舞台は、西本願寺に移設された国宝舞台で天正九年に建てられたとわかっています。これは後から後背部に壁が作られ、老松の絵が描かれたのは寛永時代です。 まず、鏡板ですが、これは能舞台の後背部の壁に限ったものではありません。「まっ平ら」に仕上げられた壁を言います。壁に限らないのかもしれません。祝典で「四斗樽」の蓋を開けるのに、紅白のリボンをつけた槌や、野球の祝勝会ならバットで叩いたりしますが、これを「鏡を抜く」と言います。四斗樽の蓋もまっ平らですからこれも鏡板です。 鏡板に仕上げられた能舞台の後ろ壁に松が描かれるのは、能舞台に後ろ壁が作られるようになってすぐではありません。 よく、春日大社の影向の松を模したものだという事が言われます。 影向とは神宿りすることで、巨岩にも巨木にでもなんにでも影向はします。 春日大社の影向の松では、若宮御祭に金春宗家が松の下の式を奉納します。 能を神秘的に見せるのに好都合ですから、「能舞台 = 影向の松」は広く唱えられています。ところがそういう話は古い文献にはありません。明治になって宮大工の家の言い伝えにあったという話もあります。 春日大社に影向の松がある。能舞台の鏡板に仕上げられた後ろ壁には松が描かれている。この二つを結びつける文献証拠はありません。 なぜ松が描かれたか。 文献証拠はないけれども、春日大社の影向の松を模したものだ考えることも排除する必要はありません。そう信じているならそれでいいと思います。 個人的な考えですが、パックス・トクガワーナの時代になり、能舞台の格式が定められたとき、障壁画を取り入れるに際して、徳川の本姓松平にちなみ、松が決まりになったのではないか。 謡初めのきまりの「四海波」にも松の緑をほめたたえる文句があります。わざわざ松を称えるところを「式典歌」にしているのです。 だから、近世近代の常識的伝統から外れる、老松ならぬ夫婦松でも、これでいいのです。 後背部には壁なんかなかった時代もあるんだし、いまはパックス・トクガワーナの時代でないんだし。 でも個人的には国立能楽堂の舞台は嫌いです。 あの松は邪魔です。能を鑑賞するのに、余計な絵画作品は邪魔です。 能面作家として有名な橋岡一路氏は「表現は七分まで、あとはその能を舞うシテの表現にゆだねる」と言っていますが、能舞台には能の一部としての背景がふさわしく、画家の作品はいらないんです。
お礼
スイマセン、補足に書き忘れました、上に書きました、松の描き方ですが、現在ではこの描法を守る画家は少ないというのも本当でしょうか、教えて下さい、よろしくお願いします。
補足
お忙しい中、詳細なご説明ありがとうございます、よく分かりました。 詳しい様なのでもう一つ教えて下さい。 昔は松の描法は狩野派にのっとった老松で、3段に枝分かれし、枝の本数は上から順に7本、5本、3本と定められていました、だそうですが、ホントウですか、教えて下さい、よろしくお願いします。
お礼
1回目に続き詳細なご説明ありがとうございました、大変参考になりました、長く書いて頂き手間暇かけていただきありがとうございました、多分、他にも回答は無いと思いますのでベストアンサーとさせていただきます、ありがとうございました。