- 締切済み
雇用が枯渇した時代の生き方について
前回、近年加速を続ける都市部への人口過密とその一方で起きる地方の過疎化に伴って、主に過疎化した地域で自給自足をする生き方というものを若者が選択できるようにすべきではないかというような内容で質問をしました。 この際、それに対するご意見へ返信しているうちに、産業の自動化に伴う雇用の減少という、更に根本的な問題に気が付きました。というよりも思い出したと言う方が正しいのですが、このことについて以下のURLで確認したところ 『20年後の君へ ~仕事がない時代をどう生き抜くのか~』 http://fukaihanashi.hatenablog.com/entry/2014/04/07/031620 によると、 まさに漫画などで言われていたように、近未来では人間の経済としての労働力が今後益々必要なくなっていくのだということです。これに関して異論を差し挟む余地はないかと思います。 そして、そのような時代においてビジネスマンとしてどうのように生き残っていくのかが、このブログで書かれていることなんですが、いくらなんでも、国民の大多数がそのようにビジネスマンとして存続しつづけることは不可能だと思うのです。 だとしたら、将来の国民は一部の例外を除いて、市場に在って所得を生み出す人とそれ以外の人にと別れてしまわざるを得ないということになるかと思うのですが、如何でしょう?しかもその比率は産業の自動化の度合いに伴って偏向して、最終的には1対9くらいになるのではないかと思われます。ここで素朴な疑問として、この9割の、市場価値を失った人たちはその時代にどういう生き方をしているのだろうか? どうだったら、それでも幸せで居られるだろうか?と思います。 この疑問に対する皆様のご意見を拝読させてください。 あと、以下はお読みいただかなくても結構なのですが、一応私個人の現時点での回答を書かせていただきます。もちろん、皆様のご意見を伺えば修正や変更は大いに有り得ることです。 国家の方針として I.所得を持たない9割の民には自給自足を主な生計手段とするように求める。 原則、彼らに所得の分配などはしない。 古代ローマの「パンとサーカス」をみれば、労働なき富が人間の精神を荒廃させる要因になることが有り得るからである。 しかし、彼らに自活を求める代わりに、彼らの自活を支援する体制は必要である。これについては公金を活用する。 II.所得を持たない9割の民はその中から国家やその経済にとって直接的に有益な人材を生み出せる潜在能力を維持すべきである。故にその教育に関しても国家が公金を使うこととする。つまり、身分の固定化はしないということである。身分はその個人単位で決定され、変化も有りうるものでなければならないからである。 以上ですが、これには具体的な数字は示していませんので、この9割の民のために使う金額がどのくらいなのか、またはどのくらい必要なのかによっては、彼らに課さねばならない金銭以外での義務というものを追加しなければならなくなります。 例えば、自然保護に関わる作業を行う義務などでしょうか。ある意味現在のボランティアがその時代の大多数の人たちの、実質的な義務になるのかもしれません。現在の納税の義務がボランティアの義務に変わるようなものだと思います。 それは社会奉仕の義務というべきでしょうか。 しかし、これは環境問題やそれに通じている国際政治や政策というものに関心を持つための大きな動因になることが期待できます。これは精神的な意味での国民の成長を促せるという善き影響を齎すものと期待します。 もちろん自給自足体制自体に困難はあるでしょう。しかし、仕事がなくなるという現実は避けられないものでしょう。それに対して、最も良い選択肢を模索すべきと考えています。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
みんなの回答
- staratras
- ベストアンサー率41% (1499/3651)
No.4です。少し補足させてください。可能な限り「自給自足」を目指す生き方は、アメリカの「アーミッシュ」の人たちのような宗教的なコミュニティーや、大正時代の日本で武者小路実篤らが始めた「新しき村」のような文化・思想的な活動も含め、近代以降も常に社会の一部には存在しています。ご指摘のように「他人から乞わず、人から奪わず、自ら生み出すことが人の正しい生き方と思う」人が、一定の数はいつの世の中にもいるのでしょう。 ただ、そうした生き方を選択した場合でも、山奥で仙人のような暮らしができれば別ですが、外部の社会との関係を完全に断ってしまうことはできないので、その社会とどう関わるかが課題になります。例えば現在の日本の過疎地で新しく農業を始めようとすれば、農地・住まいの取得(借地・借家も含め)や資材(農機具や種子・肥料)の入手など、最低限の手続きと初期費用が必要です。この点をうまく切り抜けられなければ、「自給自足という選択肢」も、画に描いた餅になってしまうおそれが大きいと回答者は考えます。 このサイトの4年前の別の質問の回答の中で、どうすればこの部分を解決できるかを考えて、以下のような80年後の未来を「妄想」してみました。http://okwave.jp/qa/q6924452.html なお、「教育や福祉を受ける人」が必ずしもその対価を全額支払っているわけではありません。例えば日本の義務教育(小・中学校)で公立の学校では授業料を支払う必要はなく、教科書は私立学校の児童・生徒も含めて無償です。公費でまかなわれているからです。また、医療・福祉分野でも生活保護のような公的な補助制度があり、健康保険・介護保険などの公的な支援システムが作られています。 年金の保険料を支払えない若者が高齢者になって年金をもらえないとしても、社会は放置しておくわけにはいかず、何らかの最低限の公的な支援は行わざるを得ません。こうしたことを勘案すれば、教育や医療・福祉に関係する雇用の社会的な必要性は、今後も低下することはないと回答者は考えます。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
No.1,3です。 >ところで、その提言というのは起業を活発にするような内容だったのでしょうか。 肝心の提言の説明をしていませんでしたね。 それについて説明する前に、私が予想している未来図について、説明します。 <<雇用はなくならない>> 質問者さんは、オックスフォードのレポートを元に、雇用が激減する未来を描いています。 まあ、9割仕事がなくなるのは大げさですが、今ある仕事のうち、自動化が進んで人手がいらなくなる分野が、いくつかあります。 わかっているのは、 ・自動車の自動運転技術の進化により、ドライバーの雇用が減る ・ネット販売が進んで、従来の小売業が減る。しかし、大型店とコンビニはなくならないだろう。 ・製造業の自動化は、さらに進む 時期については、20年先ではなく、もっと長期のたぶん50年くらいになるだろうと踏んでいます。 20年では、そんなに世の中、変わりませんよ。 インフラの普及には供給側の事情があります。例えば、自動運転が普及しても、事故を起こさないようにするには、電波ビーコンがたぶん必要で、これを全国の高速道路に設置するだけで、軽く10年はかかります。 一般国道までとなると、さらに先です。20年では、予算と人手の都合上、たぶん無理でしょうね。 次に、既存の産業の雇用が徐々に減ったとしても、たぶん別の産業が立ち上がります。 人間、余暇が余れば、自然と遊びます。 旅行、食べ歩き、スポーツ観戦、釣り、登山などなど。 レジャー産業は自動化不可なので(機械に接待されるより、人間が接待される方が嬉しいものです)、そっちが発展するでしょう。 もう一つは、「マズローの欲求5段階説」を見ればわかるように、人は社会に参加する欲求をもっています。 一番手っ取り早い社会参加は、働くことです。 もちろん、自動化が進めば仕事の総量は減りますが、その時は時短すればよろしい。 100年くらい先かもしれませんが、1日4時間労働とか、週休4日ぐらいになるかもしれません。 社会の高齢化も、仕事がなくならい原因です。 今後、日本は生産人口が減り、高齢者がどんどん増加します。 もし、自動化よりも生産人口の減少の方が早ければ、仕事は減るどころか1人あたりの労働量が増えるかもしれません。 仕事不足を解消するため、いったんはリタイヤした高齢者も、再雇用が求められるでしょ。 そういうことを考えると、世の中では不評ですが、安倍政権の「一億総活躍」も、まったく根拠のないことではないのです。 <<私の提言内容>> 上記の予測を踏まえて、 A.個人の起業支援を促進する B.起業ができない人向けに、政府が公共支出を増やして雇用を確保する の2点です。 Aは説明不要ですね。 Bについてですが、起業する能力と財政的な余裕をもった人は限られます。 一方、既存の産業が衰退、もしくは自動化が進むことで、失業者の増加が予想されます。 ですので、失業者を救済するため、公共支出を増やすのです。 現状では、公共工事と福祉を通じた介護の仕事ですかね。 土木・建設業は、体力のある人向けです。防災のためのインフラ整備や、既存の施設のメンテナンスは必要でしょう。 介護については、今後高齢化が進めば、お世話する人も増やさなくてはいけません。 そして、どちらも自動化が、あまり望めない分野です。 筋力補助のためのパワードスーツなんかは、むしろ体力の無い人でも作業ができるので、かえって雇用が増えるかもしれませんね。
- staratras
- ベストアンサー率41% (1499/3651)
「産業の自動化に伴う雇用の減少」は確かに存在しますが、「新しい産業の発達による雇用の創出」も他方ではありますので、9割もの人が、労働市場で価値を持たなくなるような極端な事態が発生する可能性は、少なくともこれから数十年の間では限りなくゼロに近いと考えます。 これは例えば百年前の1915年(大正4年)の世界と現代とを比較してみれば明かです。例えば百年前のアメリカの天文台には「computer」と呼ばれる計算係(多くは若い女性)がいました。膨大な量の天文学の計算を多数の女性が手計算で行っていたのです。当時の天文学者の男性の中には、この「computer」と結婚した人も少なくなかったそうですが、もちろん現在の天文台には人の「computer」の代わりに電子機械であるcomputerが導入されていて、人の「computer」の雇用は失われています。しかしその代わり天文台でも社会全体でもcomputer関係の多数の雇用が生まれています。 また日本の公務員340万人の8割以上は地方公務員であり、その過半数は公立学校の教員や、警察官・消防士などの現場で働く人たちです。学校でパソコンなどの電子機器を導入することは今後一層進むでしょうけれど、それはあくまでも「コンピューターで」教えるのであって、「コンピューターが」教えるわけではないので、教員の数をそのことによって大きく減らせるわけではないよ考えられます。(少子化により減る分は別です)警察官・消防士も同様で、都市の治安維持や犯罪捜査を「ロボコップ」に任せるような時代にはならず、こうした分野の雇用も減らせないでしょう。 学校(教育)や警察・消防だけでなく、医療や介護など、生身の人を相手とする仕事は機械で補助すること(介護現場の力仕事など大いに期待されています)はできても、無人化は困難です。超高齢化が進むため、当面は介護などこの方面の雇用は減少どころかむしろ増加して人手不足となることが懸念されています。 実際に職員が確保できないため新たに建設された施設の運用ができないという事態がすでに起こり始めているのが現実です。問題はこうした分野の雇用の待遇が、一般にほかの産業と比較して良くないため人が集まらないことですが、それは解決が不可能なことだとまでは言えないでしょう。 「将来は人が不要となる」という説は、昔から世の中の注目を集めます。日本の航空自衛隊でも使われたロッキード社の戦闘機F-104が現れた際「最後の有人戦闘機」(将来はミサイル万能の世の中となり人が乗る戦闘機は不要となる)と言われたのは50年も昔のことです。もちろんミサイルは目覚ましく発達しましたが、人が乗る戦闘機がなくなることはありませんでした。最近アメリカの海軍長官が「米海軍としてはF35が最後の有人戦闘機となるだろう」(将来はドローンの世の中になる)と述べたそうですが、まさに「歴史は繰り返す」です。
お礼
業種や職種によっては人手が不要になっても、新しい業種や職種が生まれるので依然労働者は必要なんですね。 しかし、教育や福祉の雇用が減らないとはいえ、その教育や福祉を受ける人が何の仕事をしてその対価を支払うんでしょうか?自己循環のようにならないでしょうか?ちなみに現在は福祉や介護の仕事の求人倍率は1.7くらいかと思うんですけど、これは現在のお年寄りがお金を持っているからですよね?今のお金のない、年金も払えてない若者がお年寄りになったときに、福祉や介護の雇用があるのでしょうか?
補足
雇用がなくならないということは解りました。 しかし、低賃金な雇用が増えて、格差は広がり続けることが解ってきました。 このまま市場経済に任せた場合はますますそうなるでしょう。 かといって極端に税をとって分配するということも間違っているように思います。なぜなら、人間は自分の力で生きなければならないと思うからです。 他人から乞わず、人から奪わず、自ら生み出すことが人の正しい生き方と思うからです。 自給自足という選択肢がない限りは、物乞いか泥棒になるしか道はなくなる時代が来るという考え方は未だ揺るぎありません。
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
No.1の補足。 なぜ、仕事が減る時代に、起業が解となるのか。 仕事がなければ、仕事を創ればいいんです。 私はデータ分析のシステムを作るのが本業ですが、過去のデータをどれだけいじくり回しても、未来はそれでも不確定なんです。 もちろん、傾向とか確率なんてのは、データ分析すれば弾き出せます。 しかし、100%分析したとおりの結果になるかといえば、実はそうなりません。 なぜなら、人間は「創造」することができるから。 もちろん、人は神ではないので無から有は作れませんが、有るものに手を加えることはできます。 その行為が過去にないものであれば、データ分析では得られない何かを既に得ているからです。 まあ、こういうことは誰にでもお勧めすることはできません。 創造性を発揮し、かつビジネスにまで発展させるような人物はそうそういないからです。 むしろ、新しいことをやろうとすればするほど、失敗のリスクも高くなります。 失敗した時のリカバリーができるような余裕がない人でない限り、誰にも起業を勧めるわけではありません。 ですが、未来は常に不確定なのです。 チャレンジできる能力と余裕をもった人には、お勧めします。
お礼
ご回答ありがとうございます。 出来るだけ多くの人が市場価値を維持して税金を納めることは国家の支えになるでしょう。しかし、大多数の人には無から有を生み出すことはできないと思います。それでも1:9が2:8にでもなればそれはそれで良いかと思います。仕事を創る努力は惜しむべきではありませんね。ところで、その提言というのは起業を活発にするような内容だったのでしょうか。
- hahaha86
- ベストアンサー率14% (82/576)
起業したら? 私もそう思います
- cse_ri2
- ベストアンサー率25% (830/3286)
起業したら? いえ、まじで。 少なくとも、私はそうしています。(個人事業主) でも、仕事を広げて、会社組織にするまでの予定は今のところなし。 日本経済が崩れる前に、なんとか安定した収入を得るための基盤を得たいと、暗中模索しています。 まあ、政府など公的な組織への提言は別にあるのですが、とりあえず個人的なの努力としてはこんな感じで。
お礼
観光や娯楽がより発展するのですね。しかし、そこを利用する客はほんの一握りの富裕層になるように思います。その未来予測はその通りだと思うのですが、そうならば経済格差が今よりも進んでいると思います。その労働時間を減らされている人たちが中流で多数派ならよいのですが、仕事がサービス業に偏っている世の中では、貧民が多数派で、遊ぶのは一部の富裕層だけになっていると思います。むしろ多数派は労働時間が減ることで自給自足を目指すようになるのではないかと思います。 起業の促進ですか。ただ、倒産している企業が多い中で新しい起業を応援している余裕があるのでしょうか?そもそも倒産した企業はなぜ倒産したんでしょう?倒産を避けるために他の分野にも進出してみて、いろいろと手を尽くしたのにも関わらず、資本が底を尽き倒産しているのではないですか?なんとなくで申し訳ないのですか、既に世の中のリソースが尽きてしまっているように感じます。経済の循環が上手く行っていないのではないですか?それはサービス業などの物を生産しないような職業に偏っているからでは?特に都市部においてはそれが顕著ではないですか?要するに彼らは富を生み出していないのです。それはいつかは必ず限界が来るように思いますよ。レジャーも福祉もそれにお金を払う人が居るから成り立つ訳で、払える人がいなければ一部の払える人からその分沢山払ってもらうしかないでしょうね。近未来では楽しみは沢山あるけど、多くの人はそれを利用できないという歪な世の中になると思います。 公共事業の促進ですが、それをするのであれば、余程の高待遇でなければならないでしょう。現在の工事現場の作業員の待遇では人は集まりません。皆そのような職種は避けます。避けるのは割に合わないからです。ヒトラーが失業対策として公共事業を促進したのは有名ですが、ヒトラーは労働党なので、労働者の待遇はすこぶる良いものでした。けど、それらの財源はおそらく外国人から分捕った富で賄われていたんでしょうけどね。かといって、それをするわけにはいかないでしょう?要するに国民が求める贅沢に対して、富が圧倒的に不足しているんです。不足しているにも関わらず、奪い合いを止めないから生活が困窮していくんではないですか?特に都市部での起業もこの奪い合いに参加させることにしかならないと思います。 パワードスーツですが、雇用が増えるというよりも、採用基準が体力ではなくなるのだと思います。これは同時に男性が要らなくなる要因になるでしょう。
補足
これまでに皆様の回答のおかげで解ったことは雇用は減らないということと、貧富の差が益々大きくなっていくだろうということです。 そして国が富の分配を今までどおり市場経済に任せておく政策を取り続ければそのまま格差は広がり続けて、いずれは労働者自らが低賃金に耐えられなくなっていくでしょう。それは暴動に発展するでしょう。だからといって所得税を増やしたりしても根本的な解決にはならないでしょう。 また、娯楽や観光などの雇用が増えるといっても、そこでお金を使うのは一部の儲けている人だけで、大多数は彼らがばら撒いたお金を奪い合い、かき集めるような不健全な状態に陥るでしょう。 特に富を独占するであろう人たちは、自動化に成功した人たちでしょう。 彼らが補助的に人を雇ったとしても、それは一時凌ぎで非正規な上に低賃金でしょう。このような仕事に就く人が大半であれな貧富の差が広がって当然ですね。そうなってくると市場経済というものに拘らない生き方が模索されるべきなのです。 ですが、私の質問の仕方は間違っていたと思います。 仕事はなくならないのですから。ただ、それにいつまでも従って居られるかということが問題なのですね。