- ベストアンサー
聖書を納棺することは許されるのか?
- プロテスタント〔日本基督教団)の教会員が、父の告別式で聖書を棺に入れようとしたが、牧師に止められた。
- 聖書は大切な存在であり、燃やすことは許されないとされるが、神様は聖書に宿っているわけではない。
- 天国には不足するものはないが、故人の好きな聖句の箇所だけでも入れることは可能か悩んでいる。
- みんなの回答 (8)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
改革長老教会の教会員です。この度は大変でしたね。 実は私も亡き母の葬儀の際、母愛用の聖書を棺桶に入れようと思っていました。でも告別式当日あたふたしていたら、焼場に持って行くのを忘れちゃったんですよね。あとで葬儀社の方に聞くと、「本は火葬場の火でも燃え残ることがあるから、できればお棺には入れてほしくないんですよね。」とのこと。結局その聖書は、ミッション系大学に進学した親戚に、形身代わりにあげました。 現在所属教会で執事をしているので、教会での冠婚葬祭に立ち会うことは多いのですが、今のところうちの教会の葬儀では、聖書を納棺時に入れたケースは聞いたことはないです。でももし可能であれば、お父様の愛唱聖句のカードを納骨時に一緒に納めるのはどうでしょう。天国のお父様と愛用の聖書が一緒にいると思うと心強いけど、お父様の愛唱したみ言葉が、 質問者様を支えるみ言葉になることがあるかもしれませんし。あまり参考にならなくてすみません。
その他の回答 (7)
- cayenne2003
- ベストアンサー率32% (718/2227)
私はプロテスタントではなくカトリックですけど。 何ら問題ない、というか母が亡くなったら棺に聖書とロザリオは入れてあげたいと思います。 天国へ行っても聖書とロザリオがあればお祈り出来ますからね。 牧師さんの意見も一つですが、遺族の意向が第一と考えます。 お父様の為に聖書を入れてあげたいとが思うならそうするべきかと思います。 その場はハイハイと聞いといて後から分からないように入れれば済む事です。 聖書はただの本ですが、聖書を使う方の価値観でただの本が素晴らしい物になります。 お父様の側に聖書が存在する事が大切だと思います。 故人より本の方が上位なんてありえません。 イスラム教の方にとってコーランは別物かもですが。
お礼
ネットで検索しても、カトリックではロザリオや十字架、聖書などを一緒に棺に入れるのは、一般的なようですね。プロテスタントの場合、教派ごと、さらには牧師ごとに違いもあるようです。 愛用品などの納棺は、おそらくキリスト教の教義として禁忌されている行為ではないと思います。 牧師と揉めることは、主も望んでおられないでしょうから、回答いただいたような大人の対応をしようと思います。
- hue2011
- ベストアンサー率38% (2801/7250)
ルーテル様は絶対にそういうことはおっしゃらないと思いますよ。 聖書はとても大切だから焼いてはいけないなんて。 理由は、プロテスタントは偶像崇拝を排除しているからです。 だからマリア像もない。 聖書だって所詮紙です。聖なるもんであるわけがありません。 読んでもいないもんがそれを頭に載せたってなんの効力もないはずではないですか。 しかも本ですから、数えられい位大量のコピーが存在していてその一つにすぎません。 イスラミックステートが見つけたらすぐに銃で撃ち抜き燃やしていますけど、それが何か問題になりますか。 聖書という存在が消滅するとでもいうのでしょうか。 ここまで牧師さんに対するツッコミです。 次にあなたに対して突っ込みます。 棺に入れる必要がありますか。 信仰はこころの中に刻まれるものであって、刻まれた魂が召されたのですよね。 遺体は魂が去った抜け殻だし、それを置いている棺桶も単なる入れものにすぎません。 棺桶に聖書を入れる必要がどこにあるのですか。 そこには魂はいないのですよ。 火葬場のルールは別の方も言われていますけど私の体験談。 私の母が亡くなった時、彼女はあることの師範だったので、その看板を棺に入れようとしたら止められました。 プラスチックやなにかと違い十分燃えるものであるけれども、それがあることによって火は本人の焼ける以上のカロリーを持ち、釜を傷めてしまう。 熾火になっておかれると、遺骨拾いに持っていこうとする隠亡の作業に支障をきたし、思わぬ事故を引き起こしかねない上余計な時間を必要とする。 父のときは、母より前でしたけど、何冊も著書がありましたのでそれを入れようとしたらやっぱり止められた。 ゴミの処理場ではない、と言われました。 聖書はそれほどのボリュームはないと思いますが、ハードカバーで、場合によっては皮の表紙です。 単なる古本だし、紙の束にすぎません。 そんなものに価値はありません。その中に書いてあることにだけ価値があるのです。
お礼
回答ありがとうございます。 信仰は形でないことも、遺体は魂が去った抜け殻というもの分かります。 信仰を持って天に召されたのであれば、それ以上の幸いはないとも思います。 ただ、その一方で、愛用品の納棺自体、宗教的な行為というより、遺族の心情から来る行為に過ぎず、信仰や上記のような考えを否定する行為だとも、思えないのも事実です。 私の信仰が未熟な故でしょう。今は、神様がすべてを益にしてくださるのを祈ります。 ありがとうございました。
- hkinntoki7
- ベストアンサー率15% (1046/6801)
ここで質問されるよりも日本基督教団事務局に確認された方が正確な回答が得られると思います。 http://uccj.org/access 自分は無宗教ですが、推測するに神の御言(が書かれている紙)を故意に燃やすことがNG行為ということではないでしょうかね。火災など不可抗力で焼失したのなら仕方ないですけど。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりました。
- kyo-mogu
- ベストアンサー率22% (3398/15358)
火葬場での注意で本は薄い物であればいいですが、書籍関係は断られます。燃え残るので。 火葬ではなく、お墓の中に一緒に埋葬するとかはどうでしょうか? 私はキリスト教に関しては分かりませんので、牧師様とご相談されたことを守られる方が良いかもしれませんね。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりました。
>聖書は、とても大切なものだから燃やすなんてとんでもない、というのがその理由でした。 という訳でもありません。 火葬用の炉の問題で、副葬品については多々規制といいますか「お願い」があります。 聖書は分厚い為に燃焼の妨げとなり、お骨が綺麗に焼けないおそれがあることから納棺しないように「お願い」があります。 参考 第33回 火葬と副葬品 - 葬儀相談ネット sougisoudan.net/colum33 蛇足 現在日本は公衆衛生の面から「墓地、埋葬等に関する法律」に基づいて火葬が一般的です。 キリスト教は元来土葬が基本であったことから、現在も欧米では土葬が多く見受けられます。 牧師さんが拘っておられるのは、火葬は元来仏教の習慣である、という考え方があります。 キリスト教は、キリストの復活にみられますように、最後の審判で遺体が復元してその後天国へ導かれるとされています。 聖書のキリストの復活に基づいています。 副葬品についてとやかくの規制はありません。 前記の火葬場からの「お願い」にもロザリオなど火葬に支障を及ぼさない小さなものは認めています。 納骨時に聖書を一緒に納められても問題はないかとは思います。 墓地が教会内であった場合、その教会の牧師さんがとやかく言うかもしれません。 聖書は形見として子子孫孫使えというかもしれません。 質問者さんとは来世観が異なりますので、水掛け論に終わってしまうかと思います。
お礼
ありがとうございます。 キリスト教の教義というより、死生観の違いのような気がします。牧師としては愛用品を棺に入れるといった日本的(?)な慣行を排除したかったのかもしれません。教義的に禁忌されている行為でないなら、火葬場の許す範囲で、遺族の気のすむようにさせてくれればいいのに、とも思いますが・・・ 回答参考になりました。ありがとうございます。
- E-1077
- ベストアンサー率25% (3258/12620)
どちらかと言えば「貴重なもの」だとしたならば、代々受け継がれる我が家の聖書なるものがあってもいいのかな・・と思います。これはおじいちゃんが使っていた聖書で~など。 最初の印刷物として全世界で一番売れている本ではありますが・・・・。 許されないっていうか、日本でいう「お炊き上げ」とは違うと思います。 火葬することがない国では納棺できるはずだし。クルスとかは入れるでしょう? 私のお墓の前で泣かないでください~の精神で行くと、納棺しなくてもそこいらに魂はあるはずなので、あまり気にしないほうが良いと思います。神のもとに召されるのですから神をたたえる聖書はもういらないという概念。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりました。
- maiko0318
- ベストアンサー率21% (1483/6969)
キリスト教の立場はわかりませんが、 火葬場は 1)燃えないものを入れない。(ビン、カン) 2)釜を痛めるものはいれない。(ペットボトル等) ですね。
お礼
回答ありがとうございます。お礼が遅くなりました。
お礼
回答ありがとうございます。 実は、質問を投稿してから、少し時間が過ぎ、次第に私自身の気持ちも変わってきました。聖書を入れようとしたことも、入れられなかったことも、そのことで思い悩んでいたことも、愚かな肉なる思いだったと思います。 それらすべてを主に委ねて、日々祈ろう!今は、そう思っています。