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友達の数についての心理的作用と日本文化の影響
- 友達の数に関する心理的作用と、日本文化におけるその影響について考えます。
- 友達とのコミュニケーションで意見の乖離が生じると、相手から「お前友達何人いるの!?」という言葉が出ることがあります。
- 日本人特有の気質や文化がこのような言葉の発言に繋がるのか、その心理的作用を考察します。
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【最近気付いたのですが、知り合いとのコミュニケーションの中で意見の乖離が発生し、ちょっとしたいざこざが生じると、決まって「お前友達何人いるの!?」と言った主旨の発言が相手から出ます。】 え? 私も長いこと、日本人やってますが、こういうことを言う人を知りません。 常套句にまでなってるって、そうなの? 何人いるのかという数値化することがはやってるのでしょうか? ただ、’それじゃ、友達が出来ないよ’とかは、言われたことはある。 自己主張するので、ボスに流されない、群れないのでよく、小学生の頃には 協調性のところは劣っているという判断をされることが多かったですけど。 【 私は日常生活上、深い付き合いしか必要としかせずそれ以上は望まないので、友人と呼べる人は2、3人しか居ません。それは悪い事なのでしょうか?】 いや、それって普通じゃないですか? 若い頃、幼い頃、近所友達などなど、その頃は親密であっても、大人になり、音信普通になり、今現在の親密なやり取り限定というなら、友人関係だって、鉢植えの植物と同じに、 水遣りは欠かせないので、24時間でそうそう’100人’は維持できません。 【また主題のような主旨の発言をする人の心の中では、どの様な心理的作用が働いているのでしょうか?】 これは簡単ですよ。 俺に同調しろ、お前が間違ってる・・・だから、友達がいないだろう→友達何人いる?です。 問題は、友達認定がどの程度なのかということと、双方が価値ある友達認定しているのかどうかといういわば、鑑定書の価値です。 【 日本人特有の気質に起因する文化なのでしょうか?】 さぁ? 多分に、日本人として生活している割には村意識に乏しい私としては、 アナタの感覚のほうが正常です。 一部の回答者の回答には、そうなのか?という疑問があります。 なぜなら、アナタが投げかけられた、’友達何人いる?’という言葉に、異常性をどうも 感じてないということにです。 私は、これ、相当に異常で、変な問いかけだと思う。 友達できないよ・・・は、わかりますけどね。 【おいしく出来ないよ】は料理としては真髄をついているのでそうでしょう。 でも、【料理がいくつできのか】というのは、意味あるでしょうか? 味もできばえも、まったく分からないで、【いくつ】ですから。 プロ級の3種と、おいしくもない失敗作に近いようなあれこれに価値があるのかと 同じことです。 友達グレード、料理グレード、いろんなグレードを無視しての数という数値化に 何の疑問も持たずに、あなたにそれを投げかけた人と同じく、 それを問題視しないことが問題だと、私はおもう。 友達認定そのものに何の疑問もないのがおかしい。
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- E-1077
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#3です。お礼をありがとうございます。 また再び引っかかるのですが、文章全体を読み取るのではなく、どうして自分の気になる言葉だけを選びだして糾弾するのでしょうか。 私は冠婚葬祭ありきの人間関係だと言っていませんよ? 普段から他人と付き合うにはどういうことが必要になるのか、それが自分の人生においてどういう意味と位置を持つのかをどれだけ考えているのか・・・と問うています。 友人・友達・親友・知り合いからちょっと進んだ関係者・同僚など。様々に繋がらなくてはならない人たちをどうやって選別していくのかの選択肢を自分で狭めていませんか?ということです。それから少しでもはみ出す場合は全部拒絶するのでは? しかも、お礼文には相手が窮地に陥った最後の捨て台詞としてこの言葉が使われているとあります。確かにそれだけを読めば相手の方があなたを侮辱しているようにしか取れませんが、元の質問文には時々ある、もしくはかなりの確率でそういう意味の言葉を投げられるとあります。別な人だとしたらそれはあなたが考えている以上にあなたを表している言葉だと思います。嫌でもそれはある程度認識するべきではないでしょうか? ということを回答として書きました。 あなたの性格や人生哲学については結論めいたことを言っていませんよ? カッとなると一つの言葉や文章の言葉尻だけを捉えて、先に進めなくなる、そんな会話が多くなるのは得策だとは思えません。 数少ない友人をどうやってふるいにかけたのかわかりませんけれど、ある聖典には「だんだん篩の目を大きくして残る物が本当の大切な物である」という文言があります。 友人が少ないのが分かる。というのはこういった点であなたが努力した点を話しているのではなく、入口すら狭いのでは?と言っているのではないでしょうか。 人生の集大成として冠婚葬祭があるわけではないと思いますよ。残された人の為です。心に区切りをつけるためです。結婚もそう。ある意味新しい人生に向かうのですから過去との決別もある程度必要でしょう。 その時に友人はどういう立ち位置であなたを支えてくれるのか、またあなたは友人に対してどうしてあげられるのか・・・をどれだけ考えているのか?ということです。 件の相手がどういう主旨でこのような発言をしたにしても、ある意味的を射ていると思いますので、そう回答しました。 気に入らないことは分かりました。 誤解しないでほしいので、再回答しました。 少なくても数回は読み返して欲しかったです。 そんな価値はないでしょうけれど、少なくてもあなたをやり込めるために回答したのではありません。助けになろうとしただけです。
お礼
なるほど、アドバイスと捉えれば宜しいのですね。ちょっと視野を広げる様努力はしてみます。 最後の「あなたの考えがずれてる。」という帰結が私を惑わせてしまったのかもしれませんね。今後、文章の起承転結の中にある意図も、出来るだけ深く読み取る様に、努力はしてみます。
- marissa-r
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お礼ありがとう 私は友達が少ない方だと思う 学生時代、当時はそれなりに友達は居たけど今でも付き合いのある子は一人も居ないよ(^_^;) まあ、いざこざがあったり、私が転校したりと色々あった、てのもあるけど 私自身が余りマメではない、て事が一番なのかなぁ 今でも誘いはあるけど結局は億劫さが優先されてしまう 「今度ね」の社交辞令が社交辞令で終わっちゃうタイプ それに何か相談事があっても勤め先の人に相談して片付くし… 私の母は私に「友達は沢山居た方が良い」と言いました 私も娘にそう言ってきた しかし果たして、そうなのだろうか?と娘が大きくなり、私も年を重ねて疑問に感じる事の方が大きい 誰もが孤独であろう事を敢えて隠し休みの日には友達と出掛けようとするのは、孤独感から逃げる為と休みを独りで過ごす事をマイナスとして評価してしまうからでは? 個人的にはネット内に500人の友達と呼ぶ人が居るより何かがあった時に駆けつけてくれる友達が1人、2人居れば充分だと思うし恥じる事も無いと思う
お礼
有難うございます。 ある意味「同志」かもしれませんね笑 僕も孤独感は半端ないです。 人生に於ける時間的制約って不可避ですよね。 僕は言えば暇な時間の大半を政治経済の時間に費やしてます。 そしてそれが実際会社の経営に役立って立派に日本経済に貢献していると自負しています。 必ずしも「孤独=悪」ではないですよ、絶対。
- marissa-r
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“友達”と称する、くくりが、その人その人で曖昧ですよね 単なる知人であっても「友達が…」と言う人も居る スマホのアドレスに登録した人を全て友達と位置付ける人も居る そしてその友達が多い方が良しとされる …そうかなぁ? 極端に対人関係を築けない人であっても、本人が良いならば私は構わないと思う 『友達の量=その人の○○』と何ら目安にするならば『友達の質=その人の○○』とした方が正確だと思うけど まず、その“○○”に当てはまるものが何なのか?誰が決めるのか?の方が疑問 その人を知らずにその人を自分の主観(ものさし)で決め付けてしまう方がおかしいと思うけどなぁ 百聞は一見にしかず、だよね
お礼
そうなんです!まさにその通りなんです! 「友人」の定義が個々人の価値観に変わってくるのが、根本にはあるんです。 んで、私の実感としては情報化社会の発展でマクロが広がるとこの「友達多い=善」という風潮が拡大していくと思うんです。 これがただの井戸端会議であれば良いのですが、これがビジネスや社会問題に直結してくると私の様な人間への被害は甚大です。 そういう、詭弁と偏見がまかり通る風潮に対して、どの様に対応すれば良いのか、という疑問に対して悩んでいる、というのが質問の大意なんです。
>しかし、「友人少ない=人格に問題がある」の価値観には大いに疑問があります。ここには友達とはどの程度から?という個々人の価値観も関係すると思うのですが うん?友達が多い人は人格が優れているように見えやすい、というのは別に変な話じゃないはずですが。 個人の価値観で「友達」の範囲を図った上で多い少ないの話をしています。 多い人のほうが「ああ、この人信頼されてるな」と思いませんか? 例えばあなたと同じ「友人と呼べる人の基準」を持つ人がいたとして Aさんは友人が一人、Bさんは友人が12人となった場合、Bさんの方がより良い性格なのでは?と思いませんか? 他人・知人・友人・親友・心の友といろいろありますが それらそのものの個人的価値観や基準はどうでも良いです。 フォロワーの数・友人の数を競うというのは、欧米は思えばパーティー文化が幅広いからではないかと。 見知らぬ誰かを誰かのパーティーに無断で連れてくる場面などをドラマで見ますが ああいうのは日本文化には確かにありませんね。 ていうかあなた幼少期にはフェイスブックもツイもなかったのでは?
お礼
私に限って言えば、そういう判断はしません。例え悪人と揶揄される人間であっても、彼が悪人とされる所以を分析し、良い部分も探り、気が合えば交友関係に発展します。 寧ろ友人が多いという表面的な事実だけ捉えて判断する方が、短絡的な発想だと思います。 実際、友人が多くて穏健に見える人に陰険な行為をされた経験が何度かあります。 人間のホンネなんて幾らでも隠蔽できます。そういう人を世は性悪というのです。
- E-1077
- ベストアンサー率25% (3258/12620)
聞きたいことは実際の数じゃない どれだけ他人に気を配って居られるのか どれだけ他人を許容できるのか どれだけ他人に信用されているのか 肉親以外に本音を語り合える関係の者がいるかどうか 「素」の自分をどこまでさらすことが出来るのか ・・・・を知りたいの。 日本じゃなくても「あいつ友達少ないよね」というのはある意味本質をついていると思います。友達が多いということはそれだけ親しみやすいという風に取れるし、これは欧米のそれと似ているでしょう。葬式や結婚式にどれだけの友人が駆けつけてくれて心からのお悔やみやお祝いをしてくれるかどうか・・・はかなり重要。誕生日サプライズパーティーがそれを物語るのでは? あなたが気にしていなかっただけで、どこの国でもある話です。 基本的に人間の本質は文化に左右される分を差し引いても同じだからです。 八方美人であるとか名前や顔を知っているだけで友人と呼ぶ以外は、友達を厳選していくのは「悪い事」ではないでしょう。 その一方で他人とうまくやっていくことが生き残る術だとするならば、島国根性はあるでしょうね。小さなコミュニティーでも同じ。 幼少期にどこで過ごしてもあなたが日本人の親と共にいたならば、日本の習慣があって当然。帰国子女でも変わりません。そう思い込みたいだけ。 他人の意見を受け入れることが「自分を殺す」ことだと思っているならそれは間違い。 「あなたはそう思うのね」とある意味受け入れてから、「でも自分はそうは思えない」と切り返していくのが正しい。しかも単なる知り合いにそこまで言わせるということはかなりの確率であなた側に問題があると思っていい。 友達が少ない事そのものを批判や非難しているのではないのです。 そういう姿勢ってどうなのよ・・・という話。 あなたの考えがずれてる。
お礼
なるほどですね。基本的な考え方には大方同意します。 冠婚葬祭が重要、分かります。では冠婚葬祭は何の為にあるか?お祝いやお悔みの意を共有する為ですよね?それは過去の人間関係の総決算です。 貴方様のご回答はまるで、冠婚葬祭ありきでの交友関係維持、に捉えられます。順序が逆に見えます。 もう一点、貴方は私の性格に対する先入観を持って結論を出しています。一例を挙げれば、会社の仕事のあり方に対して私は先輩に異を唱えて議論に発展しました。その議論の内容に関して先輩は答えに窮しました。そこで出たのが主題の、謂わば根拠の無い詭弁です。寧ろ私は高圧的にその様な詭弁で返した先輩の人間性を疑いました。おかしい事でしょうか?
- 15261526
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>それは悪い事なのでしょうか? 善悪の価値観は多様ですから一概には言えませんが、悪いと断罪できる道理はありませんね オイラは人数よりも関係の強さ・濃さのほうが重要です >また主題のような主旨の発言をする人の心の中では、どの様な心理的作用が働いているのでしょうか? ♪ 友達100人できるかなぁ~ という歌詞の楽曲がありますね 人間関係を質量ではなく、量でしか捉えられないのは、日本人の文化性というよりも、教育管理上の都合でしょう 要は、数値化できる人数と異なり、対人関係の深淵は数値化困難なので、評価が難しくなります。 だから教師も平易に 質量の問題ではなく、量だけを問題にしてしまうのでしょう >経験が浅くて申し訳無いのですが、幼少期に米国に在住していた際は、この様な発言は聞いたことがありませんでしたし、そもそもその様な価値観すら存在していなかった様に記憶しています。 でしょうねぇ オイラなら、以下のように返しますね 浅い人間関係で何人友達がいたって意味がない。当たり障りのないコミュニケーションしか出来ない八方美人が良いなら、それは友達ではなく、「知己」というんだよ 意見の中身ではなく、人格部分を問題にした時点で、”「逃避」(=負け)という審判に至る考えのない”日本文化論の余地があるかもしれません ディベートだったら確実に負けですけどね
お礼
なるほど。有難うございます。 要は「友達多い=必ずしも善では無い」という概念が私の中で当たり前になっているので、主題にある常套句を言われても、「ハッ!?」っとなってしまい、答えに窮してしまうのです。掻い摘んで返答するとすれば、 「お前が八方美人なだけじゃねーの!?」 とすれば良いのですね。全く生産性の無い遣り取りではありますが笑 有難うございました!
友人が少ない、というのは人格に問題があるということなので 決して良いこととは言えないですね。 いろんな人生がある中、あえて友人を作らずにいる人もいるので 悪いことだとは言いませんが。 >心理的作用 「お前の意見や態度に付き合ってくれる人いるの?あ、いない? やっぱりそれはお前に問題があるからだよ」あたりですかねえ。 心理を分析するというより推測ですけど。 >日本人特有の気質 ああ、多分こういうのが相手の神経逆なでしてるんですわ。 友人との交わりを大切にするのはどっちかって言うと欧米文化の方だとおもいますがね。 フェイスブックやツイッターの日本と欧米の利用者の目的と数の差みればわかるとおりでしょ。 >そもそもその様な価値観すら存在していなかった 日本でも面と向かってそんな発言する人は稀ですね。 帰国子女はどこか日本人の気質と離れちゃう部分があるので 相手も気になるんでしょう。 この価値観が米国にも存在しないとは思いません。 あの国の人達の気質を知り尽くしてるわけじゃないけども。 幼少期には気がつかなかったものが大人の世界にはあるもんです。 子供の時に大人の世界のシガラミをあなたは悟っていたんですか? それって米国だから・日本だからって単純なもんではないと思います。
お礼
なるほど。 しかし、「友人少ない=人格に問題がある」の価値観には大いに疑問があります。ここには友達とはどの程度から?という個々人の価値観も関係すると思うのですが、例えばあなたの言及されたフェイスブックを挙げれば、「いいね!」をつける事は、ものの1秒で完了です。それこそ内容を吟味しないでも。真摯に友人の人格に深く入り込もうとするのであれば、それ以上のコミュニケーションが必要ではありませんか?その人の根本的概念、性癖等。これには多大な時間と労力が必要です。タテマエだけの「腐れ縁」「馴れ合い」だけで付き合う人も多いのでは? 米国でも当然交友関係は大事です。 むしろ私の場合、米国在住時は今よりも遥かに交友関係が豊富でした。但し、その交友関係を一種のステータスとして誇示するという場面には遭遇した事がありませんし、その様な風潮も感じませんでした。 大人になってからはサラリーマンという立場上、仕事の時間が大勢を占める様になりました。実はビジネス上の付き合い関係では、私は社内の同僚と比較してかなり多いのです。但し、ビジネスという性質上どうしてもタテマエが先行してしまう為、私はその関係を「友人」では無く「知己」として捉えてしまいます。
お礼
その通りです!勉強させて頂きました! 恐らく友達の数値化概念は、携帯メモリー、SNS等の情報ツールの発展が原因ではないかと。フェイスブックの「いいね!」の様な。 それに日本の協調性重視の社会も相まって。 そういった風潮に対して「シンプル」な言葉で返すにはどうすれば良いかと悩んでいるのであります!