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アダルトチルドレンの権威者に対する執着

先の質問上でお礼コメント・補足コメント・ありがとうなどが上手く働きませんでしたので、関連した質問になるのですが、新しい質問を立てさせて頂きました。先の質問でご回答頂いたa_hona様コメント頂き有難うございました。私は周りの人々を無意識に上の立場に持っていってしまう傾向があり、頭では分かっていても実際はなかなか同じ土壌にひきずりおろせていませんでした。ご指摘いただいたことで、それを再認識させて頂くきっかけとなりました。有難うございました。 関連して質問させて頂きたいのですが、私は自分が権威者と思っている人で、その人に不信感を抱いている場合に、その人に対して強い執着を持ってしまうようで、そういう人に対して、対立するような意見を言った後は先ほども言いました通り、恐怖に襲われるのですが、その状態の中、私はその人に対して強気の立場を崩さず自分の主張を続け、相手が受け入れる、またはある程度折れるまでがんばろうとします。引き下がってはいけない、そんな気がするのです。(しかし一方で信頼している人に対しては、なんかおかしいなと思うことがあっても、全て流して受け入れてしまう傾向があります) しかしそもそも不信感を抱いているような相手ですし、私にとって少々不利なことでも致命傷ではないのだから妥協し受け入れて、もう関わらなければいいではないか、これ以上この人に執着して自分の人生を無駄にする方が害があるのではないか、と思ったりするのですが、執着の方が強く、なかなかlet it goすることができません。どのように認識を変えればこの執着から開放されるのでしょう。アドバイスいただければ幸いです。 説明不足のところございましたらご指摘下さい。 宜しくお願いいたします。

みんなの回答

  • ROKABAURA
  • ベストアンサー率35% (513/1452)
回答No.2

自分の意見を絶対に曲げない人は真実よりも自分を愛する人で 実は周りや相手のことなど1つも考えていない。 周りの人が少しでも幸せになることを考えれば良いと思う。 そうすれば結果的に貴方は善い生き方ができる。 どうせ色々やっても辛いなら どっちかといえば感謝される人が一人でもいたほうが良いのではなかろうか。 社会の中でしか人は生きられない生き物だから 誰もが守り攻めそして傷つき傷つける。 だけど共存っていう道は必ずある・・・と自分は信じたい。 まあ本当の意味で「敵」と互いを認識した場合は別としてね。

  • HeyXey
  • ベストアンサー率26% (134/497)
回答No.1

 対人関係で「人に迎合しちゃったな」とか「我慢しとこう」という選択をすることは僕にもあります。ただ、そういう圧力に負けてそうしたと受け身で僕は考えていなくて、迎合しなかった時の気まずさとか、今後のその人との関係とかを考えて、自分で選んだと割り切っています。もちろん、気持ち的に割り切れない時もありますが、それはそれで「仕方がなかったのだ」と諦めます。  「ひとに嫌われる自由」、「失敗する自由」のおかげで、自分の思うままに振る舞えるのです。「嫌われたくない」、「失敗したくない」と思っていたのでは、自由になれないのです。案外にこの“自由”というやつは、人に好かれるとか、成功よりも大切だったりします。この自由を持ってる人は自分の行動や選択に責任を持ちます。自由を得る代わりに結果責任を負います。すなわち、自分を頼りにして(自分の判断や能力や覚悟を頼りにして)生きます。大げさに言えば、自信とは自分(判断・能力・覚悟)に命を預けることができるかどうかです。  今まで自分を頼りにしてこなかった人には、急に自分を頼りに生きていけと言われても、怖さを感じると思います。当然のことです。ここでのアドバイスも具体的な選択の場面では役に立ちません。自分で判断して決めるしかないのです。しかし、考えてみれば「結果責任」を負うのは自分です。これまでも、結果の責任を負って今に至っているのではないでしょうか。人が敷いたレールで生きてきた人は、失敗したとき『自分の責任だ』とは思わないのですが、結局は結果責任を負うことになります。自由から責任を想起するように、責任から自由を想起することも出来ると思います。  大人になれば子供の時のような“天真爛漫”は元より期待できません。人間関係のしがらみも出来ます。その中で、いかに自由とのバランスを図るかでしょう。バランス感覚や立場の違いから、常に他人とのせめぎあいの中で生きているのが私たちです。自分には自分の自由があり、他人には他人の自由があるのですから。「嫌われる」「殴られる」「訴える」「絶交する」「気まずいままでいる」、ありとあらゆる選択肢が僕の前にあり、僕は僕で自由なのです。

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