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教義の優れた偉人なのに自分史に稚拙な脚色がある理由

一体なぜなのでしょうか?! 自分史を脚色する人間 →嘘つき →その教義も嘘で信用できない 普通に考えるとそうなります。 しかし、そう一筋縄にはいかない場合があります。 その教義や方法が素晴らしいと、 没後に高い評価を受けた偉人であっても、 自分史を見ると【あり得ない】ような不自然な点が 随所に散りばめられている人物がいますよね? (証明は出来ないけど。) なぜ高尚な教えを残す人物に限って、 自分史には不自然な点が多いのでしょうか?! //// 私が一番疑っているのは、そのような人物の成果は、 実際には【チームワーク】であるという可能性です。 つまり、本来は一人では到底成し得ないことでも、 性格が似ていて能力だけが異なる複数人の視点を交え、 一つの目標に向かうと、予想外に出来てしまったり、 【なりたい自分】になれてしまうことがあります。 (やって見ればわかる・・・。w) それをあたかも一人でやったように見せかけると、 該当者が【神格化】されてしまうのではないかと。 (企業を一人の人間に置き換えたら確実に神。)

みんなの回答

noname#214841
noname#214841
回答No.5

回答番号1です。「お礼」ありがたうございます。 ちがつてゐたのでしたら、すみません。お詫びいたします。

fuss_min
質問者

お礼

ありがとうございました。 いえ、どういたしまして。 ここは質問者に関する話をしている場所では全くないのです。

回答No.4

歴史上の人物だと、逆のケースもあるねぇ。 人物史の不都合な部分を、その人や成果(宗教も含めて)を信奉する人が書き換えちゃうこと。 最近の人だと毛沢東なんて、その部類だよね。

fuss_min
質問者

お礼

ありがとうございました。 (あえてコメントは避けます。)

fuss_min
質問者

補足

毛沢東って名前の割には毛がありませんね。w

回答No.3

 こんにちは。  ( a )◆ 世間は広いもので、だれかれかまはず、ヤマシサを追及し、ウソだと弾劾し、オシエを説く、そんな人がゐます。私はさういふ人のことも好きです。でも、増殖してはいけないとおもひます。  ( b )◆ 私も、最強のチームワークとは何か、に関心があります。最悪なのは、みづからの思想を他者におしつけることです。  ☆ すなわち    ( a-1 ) 増殖してはいけないとおもひます。  ( b-1 ) 最悪なのは、みづからの思想を他者におしつけること  というとき もし( a )の見解表明が この( b-1 )《みづからの思想を他者におしつけること》ではないとすれば   ( a-2 ) 《だれかれかまはず、ヤマシサを追及し、ウソだと弾劾し、オシエを説く》  ことも 自由な見解の表明になります。  もし この( a-2 )が ( a-1 )の《増殖してはいけない》ことだとすれば その見解そのもの〔=( a-1 )〕も やはり( b-1 )の《押しつけ》に当てはまり 増殖してはいけないことと見なされます。  真理は どこにありましょう?  一般にこういった矛盾をはらむ議論が 放ったらかしになっていること。このことから  ★ 教義の優れた偉人なのに自分史に稚拙な脚色がある  ☆ ことも放ったらかしになっている。こう考えます。

fuss_min
質問者

お礼

ありがとうございました。 (あえてコメントは避けます。)

回答No.2

>一体なぜなのでしょうか?! 本人の偉大さに比べて、 その影響力が絶大になったからでしょう。 ブッダしかり、 キリストしかり、 マホメットとかり。 それらはすべて、後づけだから。 本人のあずかり知らぬところで起こっていると。。 神格化したいんだからしかたがないじゃない。

fuss_min
質問者

お礼

ありがとうございました。 (あえてコメントは避けます。)

noname#214841
noname#214841
回答No.1

質問者さんの「自分史」は各所に分散し、その多くは、生れては消え、(一部の人間の心の中を除いて)世間からはかなく忘れ去られます。この場もその一部なのでせうか。いままで気付きませんでした。みづからを記念碑的に後世に残すのだといふ「自己顕示欲」とはことなる、「自己チュー」の美しさを、最近感じるやうになりました。 >>自分史を脚色する人間 >>→嘘つき >>→その教義も嘘で信用できない 世間は広いもので、だれかれかまはず、ヤマシサを追及し、ウソだと弾劾し、オシエを説く、そんな人がゐます。私はさういふ人のことも好きです。でも、増殖してはいけないとおもひます。 誕生直後に天上天下唯我独尊と述べるませた人や、水をワインにしてくれる生産的な人もゐます。「自分史」を読んで、私がいちばんおもしろいと思ふのは、「なぜ私はこんなに賢明なのか」と悩んでゐる人です。タイトルは『この人を見よ』だつたでせうか。いづれにせよ、人間は自分史としての「嘘」が必要になるときもありますが、豚には不要です。 >>実際には【チームワーク】であるという可能性です。 私も、最強のチームワークとは何か、に関心があります。最悪なのは、みづからの思想を他者におしつけることです。世界平和や博愛がどれほど美しくても、それに同意しない者たちを排除したのでは、愛や平和といふみづからの信念そのものに反することになります。それが平和のための戦争です。国家戦争、民族戦争、宗教戦争です。 では、何がチームワークなのか。 強いリーダーシップにたよるのでは、リーダー不在時に困ります。 全員を画一化したのでは、まとまりがあるだけで、成果がでません。多様な発想や能力があるからこそ、進歩できます。 かりに考へを相手に受け入れてもらつたとしても、何か失敗が生じたときに、これはもともと自分の発想ではないんだ、教へてくれたあの人が悪いんだ、といふ無責任な態度をとります。人間といふのは、さういふ都合のよい生き物です。 >>それをあたかも一人でやったように見せかける 最強のチームワークに関して、この指摘は誤りだとおもはれます。 みづからの考へを他者に伝へる、といふ発想がまちがつてゐるのではないでせうか。私が雑談をしてゐるのを、だれかが「こいつは馬鹿な奴だ」と蔑みながら聴いてゐます。でも聴きながら少しづつ感化されてゆきます。だんだんと、「馬鹿な奴」の言葉が心の中に入ります。しかしながら、馬鹿な奴の言葉として受け入れたくはありません。だから、これは自分自身の発想なのだ、と思ひこむやうになります。そのうち、馬鹿な奴のほうが自分の思想を真似したんだ、と考へます。 これこそが、チームワークを強化するものではないでせうか。だれかのありがたいお言葉、といつたものに動かされるのは、各人の信念がない証拠です。自分の考へが、さりげなく相手に入り込んで、その人の信念に変化する。相互の共通点が確立される瞬間です。異質でありながら、共通点を確固たるものにする、これがチームワークに必要なものだと、考へます。 私は職場では、そんなふうにしてゐます。だから、私のオリジナルを、逆に他人から真似したんだ、と非難されることが好きです。それだけ、私の考へが浸透してゐるわけですから。

fuss_min
質問者

お礼

はぁ?どこから質問者の自分史の話が出てくるのか? 質問者は自分史を話したことなど一度もないし、 この質問からなぜこんな回答が発想されるのか。 何の被害妄想かは知らないが頭がおかしいのではないか。

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