• 締切済み

クリスチャンの方、教えてください。

私は少し前まで教会で牧師さんと一緒に生活をしていました。(現在は一人暮らしです。) 父のように牧師さんを慕っていました。 ある日、牧師さんから辱しめを受けました。(悪魔が邪魔したんだと思っています) その事を考えない事は出来ますが、赦すこと、牧師さんを受け入れることができません。 イエス様は『何度でも赦しなさい』 と仰っていますが、赦すことが出来ずに、それにより、私は赦されないままです。 どうすれば、赦すことができるようになるでしょうか? 信仰の薄い私を、助けてください。

みんなの回答

  • ecco
  • ベストアンサー率23% (81/346)
回答No.3

私はクリスチャンではありません。無宗教の者です。すみません。 聖書のことば、キリスト教の教えはまずおいておくとして。 cheoryさんご自身は、その牧師さんを赦して受け入れたいですか? 本当はその牧師さんに対して、どうしたいですか? 本当のご自身のお気持ちは。 ご自身の本当の気持ちを押し込めようとして、でもできず、「信仰が薄い」自分を「助けて」ほしいということなのかなあと思いましたが・・・。 私は、許せない、許すべきではない『こと』はあると思っています。 「罪を憎んで人を憎まず」という言葉がありますが、許すべきでないことは私の中で確実にあります。 いわゆる『凶悪犯罪』の類いが私の中では到底許せない罪です。 それを犯した人はどうか、と問われると、確かに憎むべきではないのかもしれないとは思いますが、 私は未熟なので、罪を犯した張本人を憎まないということは難しいです。 もし相手の方が、自分の犯した罪がどんなものなのかをはっきりと認識し、それを悔いて苦しんでいるならば、「許そう」という気持ちも出るかもしれません。 でも、自分の罪を全く認識せずに何度も同じことを平気で繰り返しているのであれば、やはり許せません。 ただそこまでいくと、自分の罪を認識することすらできない、憐れな人なのかもしれませんが・・・。 イエスの言葉ですが、私が好き勝手に解釈すると、恐らくは赦した方が自分も楽になるんだと思います。 人を憎み続けるのって、何より自分の心が疲れるし、どんどん辛くなるから。 許して忘れてしまう方が楽なんだと思います。 同じ被害に遭った人の心のケアをしたり、そもそもそういった罪を犯さないにはどうしたらいいのか、社会がどうなればそのような罪がなくなるか、 そういったことを考えて社会を変えていこうとすることで、辛い出来事を活かすことができ、またご自身の心のわだかまりも解消されるのかもしれません。 『北風と太陽』というお話のように、無理にやろうとするのではなく、自然とそうなるように工夫するということが必要なのかもしれません。 まとまらない回答でごめんなさい。 まずは、ご自身を責めずに、牧師さんを赦せないというご自身を赦して差し上げてはどうでしょうか。

cheory
質問者

お礼

丁寧なご回答、ありがとうございます。 牧師さんを今、どう思うか?というこについては、 会いたくはないけど、自分が起こした行動を認識してほしい、 と思っています。 回答をしてくださった方からヒントを得て(本当に感謝です)、牧師さんにメールをしました。 『ご無沙汰しております。 神様から以下の言葉を与えていただきました。 ○○教会で、二度と、このような災難が起きぬよう、イエス・キリストの御名によってお祈り申し上げます。アーメン』 (1)現在の教会における、セクハラ、パワハラの現状について (2)教会における性へのネガティブな考え方について (3)教会における、司祭、神父、牧師、宣教師の威厳について (4)現代社会の死刑制度について(私は死刑制度について反対ですが、かといって容認している立場にあり、自分が死刑囚の首を絞めている、ということ) (5)罪は憎むべきものであっても、その人のいのちを奪うことでしょうか?ということ (私はその人の、いのちを奪いたいとは思いません) (6)罪を裁くのは私ではなく、神様ですね。ということ』 簡単にまとめると、上記のようなメッセージを送りました。 返信は来ておりません。 牧師さんの事が心配な気持ちは、ほぼありません。 教会に集まる皆が心配です。(信者にセクハラをすれば、その信者は苦しみます。牧師さんを愛してはいませんが、教会のみんなのことを愛しています。) まずは、この思いを届けることが必要だと感じました。 このような罪を社会、及びに教会から無くす方法を、ゆっくり考えていきたいと思います。

cheory
質問者

補足

今日、牧師さんと電話で話しました。 私が伝えたかったことが伝わりました。 後悔し、二度とこのようなことを起こさない、と約束してくれました。 私は牧師さんを赦すことが出来たようです。 回答を寄せてくださった皆様、本当にありがとうございました。

回答No.2

こんにちは。 >イエス様は『何度でも赦しなさい』 >と仰っていますが、赦すことが出来ずに、それにより、私は赦されないままです。 >どうすれば、赦すことができるようになるでしょうか? クリスチャンのあり方って、そういうことなのでしょうか? 私のイエス・キリストのイメージは、とっても怖い人だと思います。 私たちには赦せとは言うかもしれませんが、しかし、イエス・キリストは、それに断罪を与えると思います。 私が耳にするのは、互いがクリスチャンということでしょうか、警察に捕まらずに非道なことを平気でする人たちがいます。韓国系の複数のキリスト教団体の創始者の性的虐待は有名です。ずいぶん昔からこの話は聞かされました。カトリックの話ですが、今、全世界的に、何万人も人たちが、聖職者から性的虐待にあっていて、バチカンに認めさせようと活動している人たちもいます。 加害者は宗教を隠れ蓑にして、性犯罪を繰り返すだけです。それで、自分たち全体に都合のよい教えをして、うやむやにするだけです。まず、キリスト教であるとかないとか関係なく、一人の人間として、加害者と被害者がいて、被害者を増やさないことが第一だと思います。 私は、被害者の立場にたって、加害者に同情しろなどとは死んでも言いたくないです。 私は、いつも、こう思っています。牧師であろうが、神父であろうが、神の仕事をしていた人でも、救われる人と地獄に落ちる人は、決まっています。クリスチャンと言いながら、偽りの神を信仰する者も同じだと思います。私は、きれい事では許さないです。愛の神と共に、怒りの神であるということも、忘れてはならないことだと思います。 自分は直接手を下さなくても、自分が召される時に、その人が地獄に落ちることを知っています。神様に任せましょう。

cheory
質問者

お礼

分かりやすいご回答、ありがとうございます。 『加害者は宗教を隠れ蓑にして、性犯罪を繰り返すだけです。それで、自分たち全体に都合のよい教えをして、うやむやにするだけです。まず、キリスト教であるとかないとか関係なく、一人の人間として、加害者と被害者がいて、被害者を増やさないことが第一だと思います。』 ↑私に何が出来るのか、考えてみます。 『私は、いつも、こう思っています。牧師であろうが、神父であろうが、神の仕事をしていた人でも、救われる人と地獄に落ちる人は、決まっています。クリスチャンと言いながら、偽りの神を信仰する者も同じだと思います。私は、きれい事では許さないです。愛の神と共に、怒りの神であるということも、忘れてはならないことだと思います。 自分は直接手を下さなくても、自分が召される時に、その人が地獄に落ちることを知っています。神様に任せましょう。』 ↑他の教会の牧師さんに相談をしたときに同じ事を聞かせていただきました。 私は制裁をしたいとは思いません。 それよりも、今後まわりの人、自分に、同じようなことが起きないように、何が出来るのか考えてみます。 ありがとうございます。

noname#194993
noname#194993
回答No.1

片柳神父 のブログを参考に 加害者に同情することを学習してください

cheory
質問者

お礼

以下が心に残りました。 ありがとうございます。 (2)加害者にならないために  2日目は、カトリック大阪大司教区セクシャル・ハラスメント相談窓口の担当者たちから、3年前に設置されてから今までに寄せられた相談について統計的な報告があった。プライバシーに配慮して細部は明らかにされていないが、確かに身近なところにも司祭、修道者によるパワハラ、セクハラなどで苦しんでいる人たちがいるようだ。この窓口が設けられ、宣伝のポスターが各教会に張られたとき、信徒のあいだから「教会にふさわしくない掲示」という苦情があったというエピソードも紹介された。「教会にそんなことがあるはずがない」、あるいは「あってほしくない」という信徒の思いの表れなのかもしれない。  なぜ教会でパワハラ、セクハラが起こるのか。どうしたら発生を防ぐことができるのか。これは本当に深刻かつ複雑で、難しい問題だと思う。司祭、修道者は独身であるがゆえに人格的、あるいは性的成熟が遅れるのではないかという指摘もある。確かに、それも認めなければならない要因かもしれない。すばらしい人間的な成熟を見せる人もいるが、必ずしもすべての司祭、修道者がそうなるとは限らないのが現実だ。ただ、「結婚すれば成熟するのか」という指摘もあるので、ある程度までの要因にとどまるだろう。  むしろ、もっと本質的な問題は、教会の伝統の中での性に対するネガティブな見方かもしれない。健全な人間ならば誰にも備わっている性の力を罪悪視し、隠し、抑圧していけば、それがゆがんだ形で暴発する可能性は大きい。信徒に対する暴言、支配、セクハラという形でそれが表れることもあるだろう。性を神様からの贈り物としてポジティブにとらえ、神様が望まれる形でそれを生かしていく道を探す必要があるのではないだろうか。性の力をポジティブに生かしていくことは、独身者でも可能なはずだ。  セクハラの背後には、信徒に対する司祭の圧倒的な優位という教会内での力関係があるとの指摘もある。パワハラを生む体質は、そのままセクハラを生む体質でもあるということだ。司祭、修道者なら何を言っても、何をしてもゆるされるという甘えが、パワハラ、セクハラを生む1つの要因なのかもしれない。たとえ司祭、修道者であっても悪いことは悪い、言うべきでないことは言うべきでないと信徒が指摘できる雰囲気を教会の中に作っていくことが大切だと思う。教区レベルで相談窓口を作ることは、そのために大きく役立つだろう。  一方で、司祭の圧倒的優位という力関係が崩れれば、司祭がやる気を失い、司祭になる若者も減るという指摘もある。もし本当にそうだとすれば、そもそも司祭召命とは何なのかを徹底的に考え直す必要があるのではないだろうか。尊敬されなければ、支配できなければ司祭として信徒に奉仕することができないというのでは、一体誰のための奉献なのかということになる。人の上に立って自己実現するために司祭になるのだとすれば、それは司祭職を、そして信徒を自己実現の道具にしているということにならないだろうか。  司祭の自信や誇り、尊厳の源は、取るに足りない罪人の自分を神が愛し、人々に仕える者としてくださったという体験にこそ置かれるべきだろう。そこから出発して、司祭、修道者、すなわちわたし自身が自分の召命を見つめなおし、受け止めなおすことからパワハラ、セクハラ防止の第一歩が始まるのかもしれない。いろいろな意味で、教会と、そして自分自身と向かい合うよい機会を与えてくれた研修会だった。 経済システムの中で豊かな生活を楽しんでいる先進国の国民はすべて、アフリカやインドで餓えて死んでいく子どもたちの死に責任があるというのと同じ意味で、わたしたちは死刑囚の死に対して責任を負っている。「殺さないでくれ」と泣き叫びながら懇願する死刑囚の首に縄をかけているのは、ある意味でわたしたちなのだ。 《死刑は、犯罪被害者の遺族にとって本当のいやしにはならず、犯罪抑止力にもなっていない。存在理由を失いつつある》 「罪は罪として恐ろしく、非難されるべきものだ。だが、その罪が、犯した人のいのちを奪う理由になるのだろうか」 「ゆるさなければならないのにゆるせない」と言って自分を責める必要はありません。ただ、自分の心の傷を神の前に差出し、心のたけを神に打ち明けて、癒しを願えばいいのです。やがていつの日か心が癒されれば、憎しみも消え、相手を自然にゆるすことができるでしょう。傷ついた人々の心が、そして、傷ついた私たち自身の心が、神の慈しみによって一日も早く癒されますように。

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