二つ、いや三つの回答があります。
一つはすでに回答が寄せられていますが「信じるところとなる」つまり
宗教や死生観といったものにより生まれ変わったり浄土に行ったりします。
二つ目、実際に生まれわる。いやそんなバカな!
と一般的には誰しもが思います。
しかし、限りなく証明に近いような事象がたまに起きることも確かです。
手の平に文字を書いて亡くなっていった人が一方にいて
生まれてきた赤ちゃんの手に文字が書いてあった、ということもあったそうですし。
絶対知りえない亡くなったある人の経験や環境を
別の人が正確に覚えている事もあるそうです。
事実の話として、
ウチのジーちゃんは元戦闘機のパイロットだったのですが
私が結婚する前に他界しました。
それから数年たち、
私の子供(次男)が幼稚園のころ、飛行機の博物館に行ったことがあります。
それまで特に飛行機に興味を示したことはありませんでした。
そこではセスナのような小型飛行機の操縦席に来場者が座れるようになっていました。
子供に座らせると、「ハンドルが違う!」と言い出しました。
「ここに棒がなんでないの?」と自分の両膝の間をさして聞くんです。
「棒?棒なんか飛行機にはないよ」とまったく意に介さずスルーしてしまいました。
私も昔の飛行機や戦闘機が操縦桿は一本の棒であることは知っておりました。
しかし、その時は別に気にも留めなかったのですが、
それから何日かして、仏壇の下の戸棚を開ける事があってジーちゃんのアルバムが
出てきました。
特攻隊の出撃を待っているうちに終戦になった人で
アルバムの最初にはいつでも葬儀用の写真になるよう飛行機の前で
よく映画に出てくるゼ戦闘機乗りの服を着て真っ白なマフラー(白黒写真なので実際には真っ白だったか
薄い黄色かは判断不可能ですが・・)をし、組んでの大きな写真があります。
次の写真はキャノピー(操縦席の覆い)を開けに操縦席に座っているジーサンを斜め上から
写したものでした。これも葬儀用になるような大きな写真ですA4くらいですかね。
そしてそれを見た瞬間鳥肌が経ちました。
なんとその写真にはじーさんが右手でまたの間から出ている一本の操縦桿を
握っているではありませんか!
えー!これを飛行機など間近で見たこともないし、
ましてこのアルバムなんぞジーサンが他界して以来一度も外に出したことがないのに
なんであの時一本の棒がないといったんだろ?
あの子はジーサンの生まれ変わりかも・・。と思った瞬間でした。
それ以外、操縦桿を知っているということは考えられません。
そうなると、生まれ変わりってあるのかなぁ、とも思います。
3つ目、
生まれ変わりは絶対にない!という結論です。
これは、数学を突き詰めていくとありえないことがわかるのですが
その理論をここで書くと1万字くらいになりますので割愛しますが
ちょっとだけ解説すると
数学で座標ってありますね。
ある空間や平面、あるいは線上の点です。
この点は面積も体積もありません。
数学では便宜上黒ポチであらわしますが
本来点というのは見えないモノです。
そして、この点は二つと同じ座標を持ちません。
そして、この先数学を突き詰めていくと
生まれ変わるということは二つ同じ座標を持たなければ
存在しえないということになります。
絶対に二つの同じ座標はないのですから
生まれ変わりはない!
ということになるのです。
それもそうなのですが、
現実として私達は言葉を使い、それぞれの国の文明を使い、また歴史も踏まえた上で
人間社会があります。この人間社会が厄介で人間は劣等を感じると上位に
並ぼうとするし、並ぶと優位に立ちたがり、優位になるとさらにその差を開こうとする
社会です。
もし、生まれ変わりがあるとこの人間社会に差別が生まれて来てしまいます。
あなたはフランスの王妃の生まれ変わりです。
そしてこちらのあなたはアメリカの奴隷の生まれ変わりです。
と二人に言ったとします。
その人達の心情はどうだと思いますか?
一方は、私は王妃よ!あなたは奴隷でしょ。そばに寄らないで!
もう一方は、ちぇ、俺、奴隷かよ!
彼女は王妃ぃ? なんだかつまらねーよなぁ・・。
と思うでしょ。
ここから差別が始まってしまいます。
それが潜在意識に残っていくと
彼女は高飛車に出るようになり、
彼はハイハイ言うことを聞くようになっていってしまいます。
私の次男の場合も
ジーサン、つまり戦闘機のパイロットの生まれ変わりだとして、
たまたま友達になった子が敵前逃亡して銃殺刑になった人の生まれ変わりだといわれ、
それをウチの次男が知った場合、
うちの次男はその友達をどこかで見下し、
「フン、意気地のないヤツだ、臆病者のくせに!」
と思ってしまうでしょう。
なので、人間社会では絶対に生まれ変わりというのモノを肯定してはいけないものなのです。
これが行き過ぎると、オウム真理教になってしまうのです。
今存在するあなたは罪深き人です、あるいは不幸な人ですと決めると
だったら一回死んで生まれ変わりましょう、とばかりに殺人をいとも簡単に
行ってしまいます。人を殺すことを肯定してしまうようになってしまうんです。
オウムの根幹はそこなんです。
数年前、三輪明宏と江原啓之で番組をやっていました。
そこに気がついたテレビ局はこの番組を中止したという経緯があります。
あの江原の言うことは過激さの程度の差はあれど
オウムと同じ理屈なのです。
なので、生まれ変わりはない!と思っていたほうが生きていくうえで、また人間社会という現実では
実は都合がいいのです。
なので私は生まれ変わりはない!と信じています。
子供も何かの偶然だ。
テレビかなにかでたまたま見たんだろうと思うようにしています。