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演劇における「俳優の視点」の意義とは?【演技論】
役者って、演じる際に「役の視点、俳優の視点、観客の視点」の三つを同時に使い分けるそうですね。これに関する疑問ですが、その前に質問の背景から説明しておきます。 前に「芸術心理学の新しいかたち」(編著:子安増生)という本を読んだ時に、とても興味深いことが書かれていました。第8章の「演劇の心理学──演劇の熟達者とは(執筆者:安藤花恵)」によると、演劇における演技論には日本であろうと西洋であろうと『心』を重視したタイプと『形』を重視したタイプの両方が必要であり、その二つが融合した状態が理想的なんだそうです。 役の中に自己を完全に投入することで演じる役になりきったり、「この役がこの状況ならこんな気持ちになるだろう」とか想像したり、演じる役やその状況に相応しい感情を呼び起こすことに集中する方法論が『心』であり、そして外からはどう見えているのかという所から入って意識的に役を見せたり、「観客にちゃんと伝わっているのだろうか」とか考えたり、自分を観客の立場に置いて観客の視点から自分の演技をモニターすることに集中する方法論が『形』とのことです。 河竹登志夫によれば「感情移入型」が『心』であって「他者表現型」が『形』と分類していますし、それからウィルソンによると「想像的アプローチ」が『心』であって「技術的アプローチ」が『形』であると分けているようです。 ここから本題なのですが、安藤花恵によると演技には「役の視点」「俳優の視点」「観客の視点」という三つがあって、「役の視点」というのが「想像的アプローチ」にあたり、「観客の視点」というのが「技術的アプローチ」に対応しているのだそうです。しかし、私には「俳優の視点」の説明が今一つわからないのですよ。 安藤花恵はグライトマン(Gleitman)という人の話を持ち出して「俳優の視点」を説明します。俳優は演技中、もし自分がその役であったなら抱くであろう感情を実際に抱いているのと同時に「もうすぐあの場所に移動しなければならない」というような段取りを決して忘れない、冷静な自分も残していると。前者が役の視点で、後者が俳優の視点に立っていると言うのです。 しかし私には「もうすぐあの場所に移動しなければならない」という冷静さや、その思考結果から、どうにも「観客の視点」に回収しても良いのではないかと思うのですよ。何故ならその思考内容によって、前もって組み立てられている演劇のプラン(脚本みたいなもの?)を役の感情によるノリに基づいた無茶苦茶なアドリブの追加で潰したりしないようにモニタリングをした結果が生まれ、その結果として他の演者や観客の皆さんに迷惑がかからないように舞台の進行が脱線することなく運ばれていくからです。 つまり、これなら「観客の視点」による『注意』だけでも良いんじゃないかなと。「ここでこうしないと周りが困るよな」で事足りていないかと。ちょっと言い過ぎかもしれませんが、それでも「俳優の視点」の必要性が「観客の視点」の範疇に含まれる気がしてなりません。図式化すれば「心=役の視点」「形=観客の視点and俳優の視点」といったところでしょうか。 また、安藤花恵は「芸術心理学の新しいかたち」の220から221ページにかけて、次のように書いておられます。 >芸術というものは必ず何かの表現であり、基本的にはその表現の >受け手を想定している。したがって「技能領域」であろうと「非技能 >領域」であろうと、「観客の視点」に立つことは重要であり、 >また「俳優の視点」や「役の視点」にあたるものが必要になることも >多いのではないか。 この発言からは「心=役の視点and俳優の視点」「形=観客の視点」といった区分けの仕方をしていることが薄っすらと示唆されており、三つの視点という分類の境界線がブレているように感じられます。 ※ ちなみに技能領域と非技能領域の違いは、時間の制約を受けるかどうか、やり直しが出来るかどうかとのこと。 それから安藤花恵はこの本の220ページで、フィギュアスケートや小説でも三つの視点が必要ではないかという文脈で、次のように語っています。 >たとえばフィギュア・スケートの選手は、「このように滑れば観客 >にはどのように見えるだろうか」「自分の今の滑りはうまくいって >いるのだろうか」などと、「観客の視点」で自分のパフォーマンス >を客観的に見るであろうが、それと同時に、「次の回転は苦手な >ところだから慎重にしよう」などと、自分自身の視点、つまり、 >「俳優の視点」で考えたりもするだろう。 ……そして良い文章を書くためにはその場にいない読者がそれを読んでどう感じるかを考える必要がある、という話の後に次の文章があります。 >つまり、「創造的非技能領域」に含まれる、 >小説を書く、作曲をするなどという芸能活動にも「観客の視点」が >必要だといえるのではないだろうか。自分自身の視点(俳優の視点に >あたる)から、「この部分を最大の山場にしよう」などと考える >こともあるだろうし、小説などでは、その登場人物の視点に立って >考えることもあるかもしれない。 フィギュアスケートによる説明のケースも、あくまで『注意の喚起』が必要なだけであり、これなら「俳優の視点、観客の視点」などという区分をせずとも「形=観客の視点、他者表現型、技術的アプローチ」だけで良いでしょう。とにかく客観視することが目的ですからね。小説による説明の場合も、即興劇ならともかく、通常の演劇ならば上演前に作るべきことは既に作り終わっており、その事前に立てたプランを上演時間中に実行することが目的なので、特別これといって『実演中』に「俳優の視点」へと移行させなくても構わないのではないでしょうか? 他にも、215ページにて安藤花恵自身が大学時代を振り返っての経験を、次のように書いております。 >つまり、自分の演じる役がどう感じているか(役の視点)や、自分が >観客にどのように見えているか(自分だけを見る観客の視点)を >考えるだけでなく、劇全体が観客にどのように >見えているか(より良い観客の視点)を考えたり、脚本をよく読んで >全体の流れなどを分析する(俳優の視点)ことを学んだのである。 俳優の視点があれば、上演中に思わぬ緊急事態が発生した場合でも、全体の流れを汲み取って上手に軌道修正することが出来るでしょう。しかし、ある意味ではそういった対処が迫られた時にのみ必要であって、上演している間に役者が「俳優の視点」を『つねに』心掛けることはしなくて良いのではないかと思われます。 このように「芸術心理学の新しいかたち」をいくら読んでも「俳優の視点」の必要性がよく分かりません。 「役の視点」の意義なら、まだ分かります。よく言われるように役の情感がこもっていない演技は、たとえどんなに素晴らしい技巧が演技の中にあろうとも魅力が少なく、何か物足りなくて、どこか嘘臭さが感じられるそうですね。逆に「役の視点」がしっかり出来ていれば、魅力的に映り、その感情に嘘がないように感じられるみたいです。紋切り型の演技では難しい、役に命を与える作用がそこにあるのでしょう。 「観客の視点」の意義もまだ分かります。演じる者にこの視点が無ければどうなることでしょう? 演者は必要な情報を観客に必ず届けねばなりません。でなければ観客の手から作品世界に入るための手掛かりが不足し、作品の外へ放り出されてしまいます。観客のためにも、冷静さと微調整を忘れずに、大事な情報をいかにして最適な演技で伝えるか、ということを演技の最中であろうとも頭に置いておくべきです。 ところが「俳優の視点」の意義は、どうにもこうにも分かりません。これなら、役に入り込むのと同時に演技のモニタリングが出来る役者であれば誰であろうと構わないんじゃないですか? 幾らでも交換可能である歯車的存在に過ぎなくて、別に役者自身の視点を舞台に持ち込むことはしなくてもいいかと思われます。というか「俳優の視点」の具体例をどんなに眺めても、その視点ならではの『特色』が見えてこないのですよ。 極論を言えば次のようになります。「あぁん? 俳優の視点だと? そんなもん屁でもねぇな! 役者ってのは『観客にメッセージを送れるシャーマン』であればそれで十分なんだよ!!」 ……しかしこの極論は流石に変です。根拠はありませんが、感覚的に「これはおかしいぞ」と胸騒ぎを覚えるのです。ですがその理由をはっきりと掴むことが出来ません。 私の素人的意見としては『心』と『形』の二つだけで演技を語るのにちょっと無理があるのではないかと思っているのですが、どうなんでしょう? 長々と書きましたが、質問は以下に述べる三つです。どれか一つだけ選んで回答する、というのでも全然構いません。 ・質問その1 演劇の実演中に「俳優の視点」を取り入れなくても良いのでしょうか? それとも取り入れたほうが良いのでしょうか? また、その理由は何なのでしょう? ・質問その2 改めて「役の視点、俳優の視点、観客の視点」を解説してもらえませんか? 特に「俳優の視点」について重点的に説いてもらえると助かります。 ・質問その3 もしも「俳優の視点」が無かったら、どのような舞台になるのでしょう? つまり「役の視点」も「観客の視点」も立派なのだけれども「俳優の視点」が欠落している演劇からは、一体何が失われているのかということです。というかそのような演劇を実際に見たことがある人っているのですかね? 演劇未経験者であり芸術に疎いド素人な私にも分かるように説明して頂けると助かります。
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引用されている文献の内容が完全に把握出来ていないので、ピントがずれるかもしれません。 先ず、役の視点・観客の視点・俳優の視点、についてです。 役の視点=感情。 観客の視点=技術。 俳優の視点=演者。 だと考えたら良いのではないかと思います。 演技を成り立たせるのは、感情と動作(声を含む)だけです。実際に演じてみると納得されると思いますが、感情と動作以外に使えるものが無いのです。 では、この2つを少し詳しく考えてみましょう。 感情。 これは「喜怒哀楽」のような純粋な感情です。例えば、口論する場面などを演じてみると、実際に怒りを感じて来たりします。こうした役柄が辿ったであろう感情を掴む事と、そこに至るアプローチを役の視点と表現しているのでしょう。 動作。 これは歌舞伎における形と同じです。或いは、悲しい顔に見えるには後何センチ下を見たら良いか?といった技術です。これは演者には見えず、観客側からしか見えません。稽古や工夫を重ねて磨くしかありません。だから、観客の視点なのでしょう。 基本的に演技はこの2つの要素で成り立っています。でもこれは演技論であって、実際の舞台の上には演技を行う俳優が存在します。現実にはこの俳優が感情と技術のバランスを取りながら、演技を行います。 役柄の感情をしっかりと抱え込み、技術を駆使して観客に伝えながら、俳優は終幕へと向かって定められた道を進んでいきます。これが俳優の視点です。 演技に没頭しながらも、その演技を一定の方向に導いていく意志又は意識と呼んでもいいかもしれません。 これが欠落していたり希薄な場合、舞台が破綻する場合もあります。コントロールを失ってしまうからです。 こんなとこですが、伝わりましたでしょうか? 拙い解説で、すみません。
お礼
回答、ありがとうございます。 なるほど。「俳優の視点」というのは「役の視点、観客の視点」よりも上位に属する視点という訳ですね。指令室というか、コントロールセンターとしての役割が「俳優の視点」にあって、これが無いと演劇を統率できなくなる、ということですか。私が思っている以上に演劇ってのは制御が難しいようですね。 どうも私は「観客の視点」とやらを過大評価していたみたいです。「観客の視点」があれば上演プランを脱線することなく済むと思っていましたが、実際に調整を働かせるのは俳優個人の『意志、意識』であって、あくまで「観客の視点」は「気付き、モニター」に過ぎないのでしょう。つまり、意志による調整を施すためにも「俳優の視点」を上演中に常々用いるのである、と。 あと、「観客の視点」と言うより『形』の話ですが、その効果は観客に向けてのものであり、また『心』の効果は「作品世界の中」に与えられるのですが、「俳優の視点」の場合は「作品世界内」にではなくて「現実の舞台」に効果を及ぼすのでしょう。それぞれの視点によっての効力と効果範囲が、何となくですが分かった気がします。 一言でいえば、演技には「俳優の視点」が必要でなくても演劇には「俳優の視点」が必要である、と。 こんなゴチャゴチャした質問にお答えをして頂き、とても助かりました。おかげで頭の中が少しスッキリしましたし、うまい具合に整理整頓できたと思います。 どうもありがとうございました。