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人の為にやっているのは、ただの自己満足ですか?

人の役立つことをすると、周りから「ありがとう」「○○さんは優しいね(気が利くね)」と、言われ、人の役立つ事をした人は、【良い人】と見られます。 逆にしない人は「気が利かない」「優しくない」と、【良い人ではない(意地悪な人)】と、見られます。 しかし、する側は「何故、親切にするのか」と、問われれば、「人の役に立ちたいから」「好きな人だから優しくしたいから」等の理由があると思います。 一見、優しそうな人に見えますが、別の見方をすると、「~したいという気持ちがあるからする」。つまり、「そのしたいという欲望(気持ち)を満たす為にする」になると思います。 他にも「人を傷つけるな。自分がされたら嫌だろ」というのを耳にしますが、このようなことをする人には近づきたくありません。つまり、孤独になりやすいです。 孤独になれば、困ったとき、助けてもらえません。 結果として自分が困る。だから、するな。となると思います。 責任能力がある年齢になると、法で裁かれることがあります。 前科がつくこともあります。 会社等の履歴書には、前科を書かなければなりません。それが理由で断られることもあります。結果として困るのは自分です。 人の為にするのは、自分の為にするのではないだろうか。と思います。 これは、個人的な意見ですが、実際のところはどうなのでしょうか? 「人の為でもあるが、自分の為でもある」ということを言っているのではありません。 親切にするのは、自分の為でしているのか否か。 「嫌なら、親切にしなければいいじゃん。嫌われるけどね」「マナーが~」「しないのは人としておかしい。非常識だ」と言ったこの質問に無関係な回答はご遠慮下さい。 論点がずれたり、トラブルの原因原因にもなります。

みんなの回答

noname#244637
noname#244637
回答No.12

はじめまして。 私も若い時分から、親切とは何か?思いやりや優しさとは何か?愛とは何か?と悩んだ事が多々ありますし、この年齢になった今も考えさせられる事があります。 相手に良く思われたいとか、優越感を感じたいとか、人の行動には何らかの見返りを求めているという事が多いでしょうね。 しかし、中には相手に見返りを求めない無償の行為もあると思いますね! そして、問題になるのは優越感や自己満足などの自我の面なのでしょうねぇ。 人の行動は、反射的な事でない限り、〇〇したい(欲求)から〇〇する、という事である以上、能動的な事は全て自分の欲求を満たすため→自分のため、という事になりますよね? 従って結論は、自分のためという事になります。 でも、自分のためでも良いではありませんか? それで、相手が助かったのなら、それは良い事ではないでしょうかねぇ? 中には、偽善だと感じる人もいるかも知れませんけど、偽善だから手を貸さない人よりも、助けられた人に取っては助けられた行為が有り難い事には、変わりないのではないですかねぇ? また、見返りを求めない人の中には、経済的、物理的、心理的に自分が損をしても、なお助けてあげたいと考える方々もいらっしゃる事も事実です。 そこまでして、優越感に浸りたい偽善者なのでしょうかねぇ? 私は、自分がしたいという欲望欲求を突き詰めた一つの意志だと思いますねぇ。 親切にもう一つ付け加えるなら、子供の時からの教育、刷り込みというケースもありますよ。 体の不自由な方やお年寄りに席を譲る等は、親切というより当たり前過ぎて、条件反射的に見たら自動的に譲ってしまいますねぇ。 以上、私の経験に照らし合わせた回答です。 さて、このサイトの事情通の皆様の回答は、あなた様のためでしょうか?自分達のためでしょうかねぇ?

noname#202739
noname#202739
回答No.11

なにをあたりまえのことを。 無意識にでも、「自分のため」ってのはあって当然です。 親切にするのは自己満足のためです。 老人に席を譲るのは、まわりにいい人だと思われたいからでもあり、 弱い人への優越感に浸るためです。 こういうことを自覚せずに「他人のため」という偽善者をぼくはもっとも嫌います。 他人が助かるのはあくまで結果です。

  • yama891
  • ベストアンサー率13% (191/1368)
回答No.10

人の為にやっているのは、ただの自己満足ですか? 仕事でもなければ、やむにやまれず(義務感)と言う事もあり。 見返りは、更に期待すべくもなし。 チームワーク。 情けは、人の為ならず。 人それぞれの立場と義務感。 そういう事を気にする事自身が、虚無・孤独で、悲しき性か。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.9

”人の為にするのは、自分の為にするのではないだろうか。と思います。  これは、個人的な意見ですが、実際のところはどうなのでしょうか?”       ↑ 実際というか、心理学者などはそうだ、と しているようです。 人間は一人では生きて行けない動物です。 だから、他人と協力したり社会を造ったりするのですが、 その為には利他行為が必須になります。 人間は利他行為をすることにより、充実感や幸福感が 得られます。 おそらく、人間の脳はそのように作られているのでしょう。 だから人間は利他行為をするのです。 つまり、結局は自分の充実感や幸福感といったモノの 為にやっているのだ、ということです。 しかし、それに気づいているかは別です。 多くの人は、自分の為ではなく人の為にやっているのだと 思っているはずですが、それは錯覚だ、ということです。 だから、幸福になりたければ、自分が幸福になることを 考えるのではなく、他人を、例えば嫁さんを、夫を幸福にする ように考え、行動すれば良いのです。

回答No.8

昔から「情けは人のためならず」と言いますからね。

  • thoth2256
  • ベストアンサー率36% (22/60)
回答No.7

こんばんは。 この質問は私も最近気になっていたテーマなので回答させていただきました。 >親切にするのは、自分の為でしているのか否か。 結論から言うと私は、半々だと思います。 以前、こういう人がいました。 「俺は好きか嫌いかのどっちかしかない、中間はない。」・・・と。 しかし一見、相反する両極端の感情がひとつのこころのなかで、両立してしまうのが人間だと私は考えています。 やりたいけどやりたくない、苦手な人だけど感謝はしている・・・etc、etc。 同様に、純粋にその人の幸せを願ってやっていると同時に、自分の満足感も満たしている、という状態。 人によってはどちらかに完全に偏ってる場合もあるかもしれませんが、大半の人は両方含んでいると思います。 あとはその度合い、半々か6:4か9:1かというちがいはあるかもしれないし、本人も細かいところは自覚していないでしょう。 確かに社会では、なんにでも早急に結論を出すことが求められますし、AかBかはっきりしろとか、あげくの果てにはお前はどっちの味方なんだ、とか言ってきたりします。しかし、人間のこころはそう単純なものではなく、きわめて複雑で、ときには矛盾も含むものなんだと思います。 利他主義(自分より他者の利益を優先すること)と 互恵的利他主義(見返りを期待して他者の利益になることをする)は両立することが多い、というのが私の意見ですがいかがでしょうか。

noname#195485
noname#195485
回答No.6

人の為にやっているのは、ただの自己満足ですか?・・・その通りです。所詮、人のためなんて言っても、やっていることは自慰行為みたいなもので、快感を得るためにやっているのです。 大体、人のためにやっていることが、相手にとって感謝されていると思う自体傲慢であり、誤りなのです。マザー・テレサだって、愚痴を周囲にこぼしていたと言われていますし、人の為にいろいろやっている宗教関係者の性犯罪も結構見受けられます。悩みを相談しに言ったら、犯されたとかね。たまに新聞記事になったりしていますよ。北海道ですが。 私もよく「見ている人は見ているのだから努力しなさい」と言われ続けましたが、努力してもゴマすりには負けてしまいます。この国では。 ボランティア活動を永年し続けてきた私ですが、妬まれることはあっても、感謝されることは殆どありませんでしたね。うつ病、脳梗塞にもなりましたし。 「人の為にするのは、自分の為にするのではないだろうか。と思います。」と書かれているとおり、自慰なのです。オナニー、マスターベーション、センズリと同じなのです。

noname#205097
noname#205097
回答No.5

偽善者は自己満足な人が多いと思いますが自己満足でしていると安っぽい人間になってしまう気がします。

  • abewainpo
  • ベストアンサー率8% (53/611)
回答No.4

場合や人によっては、純粋に人のためであることもあるし、利己的に己が利益のためにだけに、他人に親切にすることもあると思います。それは人の主観によると思います。 客観的な視点を考慮した場合、そもそも人間は、一人では生きられない社会性のある動物で、個人は社会の中で生かされている立場にあるので、自ずと他人のために親切にすることは、その人が主観的に、純粋に他人のためである、と思おうが思わなかろうが、客観的に、それは他人や自分といういずれか個人のためというより、マクロに見て社会という大きな集団の中で互いに共に生きるためにやっていると考えられると思います。 例えば、独裁者の主観では、全くもって自分のためだけに他人に親切にするだけですが、独裁者とて人間である限り、自分以外の全員を殺してたった一人で生きる事は出来ないので、独裁者の親切であっても、客観的には、社会という集団でお互いに生きていくためにやっているギブ&テイクになると思います。 つまるとこと、主観でどう思うかは、人それぞれでもあるし場合にもよりけりですが、客観的には、その親切の見返りを具体的に得られなくても、他人を生かすことは、(自分もそのメンバーである)社会を生かすという行為なのだと思います。

noname#194996
noname#194996
回答No.3

>人の為にするのは、自分の為にするのではないだろうか。と思います。 そのとおりです。結果的にそうなりますし、そのことによって社会が成り立っているのですが、それを人間はある程度本能的に知っているようです。ふつうのひとは(なぜか)他人の気持ちを忖度するということが自然にできるのです。できないひともまれにいますが、そのような状態がひどいひとは診療内科で病人とされます。心が病んでいるということになります。 人に物を贈るというのも、結果的に自分の方にそれが帰ってくるからという気分があります。直接贈った人から返されなくても、結局戻ってくるのです。人間社会のシステムはそうなっているのです。 人間は種としてひとつの生物なのだという考え方があります。ありや八チなどの社会もそう考えれば筋が通る場合があります。共通した気分がそれらをまとめているので、話をしないで以心伝心、つうかあという心の通じ合いもあるのかもしれません。