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廃止された青函連絡船の航路で
幕末に青森~函館間を 例えば北前船のような帆船で航行した時 所要時間はどのくらいだったのか、ご存じの方おいででしょうか? さらに、当時、函館港はこのタイプの船で寄港するとき 沖に投錨して、艀で陸へ乗客を運んだのか あるいは 岸壁に船を接岸できたのか? これらに詳しい方がいらっしゃいましたら 是非、教えて下さい。 よろしくお願いいたします。
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>さらに、当時、函館港はこのタイプの船で寄港するとき沖に投錨して、艀で陸へ乗客を運んだのかあるいは 岸壁に船を接岸できたのか? こんなことが書いてあるサイトがありました。ご参考までに 箱館は海が荒れず天然の良港であったものの、 実際には遠浅で必ずしも船が着きやすかったわけではありませんでした。 そこで幕府は箱館の港の改良工事に着手することとなり、 文化元年(1804年)に大規模な埋め立て工事を行いました。 この時高田屋嘉兵衛は造船所の併設を願い出、ここに蝦夷地で唯一の造船所が完成しました。 さらに高田屋嘉兵衛は幕府の埋立地の隣に自らも埋め立て工事を行いました。 この埋立地は築島(つきしま)と呼ばれ、函館の古地図には四角く海に突き出した姿が描かれています。 函館開港150年の歴史 - ハコダテ150 www.hakodate150.com/modules/pico/index.php?content_id=4 北前船を初め大型の和船は巨大な舵を備えていて、江戸湾や大阪湾などへ入港すると、河口近くまで接近して舵を引き上げて可能なだけ(危険の恐れがないだけ)河口を遡りました。 (この構造が和船の命とりになりました。後ろから波を受けると極めて浸水し易い) 函館もどこまで接近できたのですかね? 蛇足 和船は風に乗ると洋式帆船よりは早かったようです。 洋式帆船は風を受けるというよりも、膨らんだ帆が飛行機の翼のような機能を発揮して推進します。帆柱をタテに複数立てても有効です。 和船はもろに風を受けて走っていました。横風が上手く利用できない。 まともに後ろから風を受ければ軽い和船の方が有利か? と、いうことで所要時間は風任せ。伊豆の下田から一気に江戸へ入ってきていますから、そんなには時間は掛からなかったでしょう。(まる1日???必要なら大間あたりで避難休憩をしていたかも知れません)
お礼
ichikawaseijさま ずいぶん早くご回答を寄せて頂いていたことに 今のいままで気付かず、お礼がすっかり遅くなってしまい とても失礼なことをしてしまいました。 ごめんなさい。 10日も過ぎていたなんて…。お詫びのしようもありません。 さて、お寄せ下さった回答は かみ砕いた文章により、とても解りやすく かつ大いに助かりました。 参考になるサイトのURLまで示して下さったことも とてもありがたく、感謝しています。 本当にありがとうございました。 と同時に お礼が遅くなったご無礼、再度お詫び申し上げます。 ※ いつもはメールで回答ありと送信されるので それがなかったために、気付きませんでした。 って、しつこい言い訳??(苦笑