偶像を崇拝するななるオシへは 一つの偶像ではないか
クルアーンの文章ではあいまいなところがあるようですが この一つの問題を問います。
神について偶像をつくってはならない。偶像を拝んではならない。――こういうイマシメがあるとき ところがこのイマシメとしての(あるいはオキテとしての・もしくはオシへとしての)意味内容は じつは人間のことばで表現されているからには 神の心を仮りに示すもの=すなわち偶像であると考えられ得ます。彫像ではなくとも観念も 偶像たり得ます。
つまり 偶像を崇拝するなというオシへを守るなら オシへとしての偶像に従うことになってしまう。という矛盾が起きるという問題です。
クルアーンにおける詳しい文章などについても含めて おしえてください。
またイスラームに限らず 《観念となった神やオシへ》は 明らかに偶像です。――たとえば 《神は死んだ》という観念が 偶像の神となって現代人のあいだで崇拝されている側面があります。――ので そのような広く大きな問題にもなるかと考えます。ご見解を惜しみなく述べてしまってください。