古今東西を問わず、最早人間の性なんでしょうね。
キリスト教だって神道だって仏教だって偶像崇拝は禁止です。
シャカは弟子が「何か対象物を作ってください」と言われてしぶしぶ壁に「○」と書いたって逸話もあります。
本来カトリックの像は心を集中する物、あるいはイメージでしかないんですが、どうしても崇拝しちゃうからルターなんか「偶像崇拝じゃないか」って出て行っちゃったわけです。
神道の神像は人に見せるというより神を宿らせる物で神殿の奥深くに置く物だから、だれも神像に向かって祈るわけじゃないので偶像ではないです。それに室町の初めまでは民衆は参拝など出来ませんでしたから偶像崇拝とは余り関係なかったようです。
しかし仏教では仏の教えを具現化するものですから民衆に見せるための像です。民衆が見れば偶像を崇拝するリスクも高まります。
神仏習合の時代では一部の神社の神像等も人に見せるようになり始めました。この事から偶像崇拝にもなり始めます。江戸時代には寺と同じく御開帳も流行り始めました。狂歌師の大田蜀山人(南畝)が「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 野暮の天神」と詠んだように出張して本尊をご開帳する「出開帳」も盛んにやっていたようです。これも本来は像を崇拝するための催しではありませんが、民衆は像を拝んでいたんでしょうね。
それでも集中するため、或いは目標とするために像が必要なのか。偶像崇拝になるくらいなら像など持たないほうがいいのかというのは難しい問題だと思います。